|
一瞬にして、全身の血が熱くなった。 湧き返り煮え立つようだった。 これまでに一度として激したことのなかった孫権は、己の身に張り詰めた血の熱に逡巡した。 同時に安堵を覚えた。己も孫家の人間だったのだ、という思いがよぎったためである。だがそれは瞬き一つの間のこと。 安堵などという生易しいものは、漲りあふれる力に追い散らされた。 己の何処にこれほどの力があったのかと疑うほどに強い力だ。 使わずにはおれない。 己の前に立つ者を打ち倒し、捻じ伏せるのでないかぎり収まらぬ熱狂だ。 戦だ。 これは、戦なのだ―――。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
―――という具合に、それまでは「女」がどんなものかも知らなかった温室育ちの坊ちゃん・孫権が、一目その人に会うなり、
襲った。
孫策は呆気にとられた顔で、二人の姿が消えた扉を見ている。 自分が連れてきた新参の兵、それもかなり大柄な男である周泰を、有無を言わせず引っ張りこめるだけの腕力が、まさかこの弟にあるとは思ってもいなかった。 「これが恋の力ってヤツか」
……そんなのんきなこと言ってていいのか孫策。
従者たちが我に返って狼狽する前で、孫策は腕を組んで顎など撫でながら、中から聞こえてくる音に耳を傾けている。 バタバタガタガタとやけにうるさい中に、一応、制止を訴える言葉らしきものは聞こえる。 が、どうやら趨勢は決まってしまっているらしい。 それはそれで別に構わない孫策だが、冷静に想像すると、なかなか笑えるものがある。 どう考えても、孫権と周泰では体格が違いすぎる。 「抱くってよりしがみついてるって感じだなぁ」 などと呟き、はっはっはっ、と明るい笑い声を響かせる。
……だから、笑ってないで止めてやれよ孫策。
「ど、どうなさいますか、殿」 おろおろと、孫策と扉とを見やる従者に、孫策は 「ちっと心配だな」 そこだけ少し真面目な顔で考えたようだが、言うことと言ったら、
「やりかた教えてやらねぇとなぁ」
のんきもここまでいくと犯罪ではないか、という屈託のなさで扉を開けて、同じ部屋に入っていった。 あとには、ハニワ顔になった従者たちが残っていた。
虎の子は虎だ。 食う側である。 それもどうやら普段おとなしいだけで、素質的には、孫権は孫策以上の猛虎らしい。 しかし虎は虎でも、まだ仔虎。本気になった狼であれば噛み殺すのはたやすかろうが、気迫負けしているのか、それとも相手が悪いと躊躇しているのか。 今は、のしかかってくる孫権の肩を、周泰がなんとか掴みとめている状態だった。
孫策が入ってきた時、当然ながら、周泰はほっとした。 はっきり言って、自分に襲い掛かっているのが誰か、分かってはいない。「今のうちに引き合わせてやろう」と連れてこられ、紹介される前にこの有り様なのだ。身なりなどからしてずいぶんと高貴な少年であることだけは間違いないが、この国の主は孫策である。この少年が誰であろうと、孫策に止められないはずはない。 「孫策様」 周泰が言うと、少年、すなわち孫権もその存在に気付いたようだが、すっかり虎になってしまっているわけだからして、 「いかに兄上といえど、邪魔はさせませんっ」 睨みつけて唸り、一歩も譲る気配がない。
兄弟となると関係は微妙である。が、常識的に考えて、なんとかここは説き伏せてくれるところだ。 ただしそれは、孫策に常識があればの話。 「邪魔なんかするもんかよ」 からからと笑いながら孫策。周泰は己の耳を疑う。 「けどおまえ、どうすりゃいいのか分かってるのか?」 「そんなもの……」 当たり前です、と言おうとした孫権だが、よく考えてみれば、なにも知らない。 生物の雄としての本能が、漠然と力の使い道を教えてはくれる。だが、そこまでである。
ようやく己の未熟に気付いて、孫権は不服そうにむくれてしまった。 周泰は、思いがけない言葉を聞いた気はするが、結果的にはこれで諦めてもらえるものと、ようやく緊張を解いた。 が。
「だから、俺が教えてやろうと思ってよ」
「なっ!?」 「本当ですか、兄上!」 孫権はぱっと顔を輝かせた。
……この兄にしてこの弟ありか孫権。
「おう。親父が生きてりゃ、もう少し早く適当な女たち連れてきて、ちゃんと遊ばせるなりしたんだろうけどな。国と戦のことばっかりで、俺はちっとも構ってやらなかったからな。丁度いい機会だ」
……なにがどう丁度いいのか、少しは考えようよ孫策。
「ま、待て」 身の危険はひしひしと感じるが、まさかという思いもある。周泰は、 「そのようなことは、相応しい美女を選んですることではないのか」 正論である。常識である。真っ当である。 言葉遣いが地に戻っているのは狼狽しているからだが、孫策はそんなことなどまるで気にかけない。 というか、周泰の発言を受けるだけ受けて、孫権に向かって言うのだ。
「心配するな。おまえのすることは、相手が男でも女でも同じだ。ガキを孕まねえだけ、気兼ねなくていいぜ」
冗談ではない、とさしもの周泰も跳ね起きた。 いかに孫策に臣従したとはいえ、主の言うことであればなんでも聞けるというものではない。 道理はこちらにある。 だがそこに、この時を扉の向こうで待ち構えていたかのように颯爽と登場した男がいた。 「やあ、孫策。困っているようだな」 長髪をさらりと手で掻くと、きらきらと光の粒が飛び散るような美青年である。目にも鮮やかな紅色に金糸の縫い取りが施された着物も、彼の美貌を引き立たせる小道具に過ぎないほどの美形である。 だが、玲瓏たる白皙とは裏腹に、腹黒いことはこの上ない。
その名も、周公瑾。
「よう、周瑜。どうしてここに?」 「君が動く時には力になろうと決めていたからさ」 「どこかで聞いたような台詞だが、ま、おまえが来てくれたなら、心強いことこの上ない」 「ふふふ。さ、ここは私に任せてくれ」 「ん? おう、おまえも入るか?」
……朗らかに問うことじゃないぞ孫策。
幸い周瑜は微笑を浮かべて首を横に振った。 しかし言ったことは、 「そこの者。お二人は早、充分その気で、ここで引き返しては男がすたるというもの。私としては彼等に恥などかかせたくはない。よって、どうしてもと抗うなら、あと二、三人、手頃な者を呼び寄せて、押さえつけてでも本懐を遂げてもらおうと思うのだが、さあ、どうだろう?」 にっこりと、思わず花も恥じらって顔を伏せ、月は雲の陰に隠れ太陽さえ慌てて西の山に逃げ込むほどの笑顔を見せた。
そんな美しすぎる笑顔に見とれる孫権だが、それとこれとは別らしい。真っ青になって抵抗をやめた周泰を見、これでいいとばかりに嬉しそうに飛びついた。 ショックのあまり自失している周泰をこれ幸いと、好き勝手しはじめる孫兄弟。 周瑜は出て行きもせず、のうのうと文机に寄りかかり、それを眺めている気らしい。そうして考えていることはと言えば、
(ふむ。これぞニ虎競食の刑)
……ケイの字が違うだろう周瑜。
憐れなる周泰氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
合掌。
(脱兎) |