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力ではそう簡単に負けるはずがない。 だが、今周泰の背後にいて、がっちりと腕を掴みとめているのは、主君である。 臣従して間もない上に、かなり無体な要求。翻意したところで誰も責めはしないだろう。 問題は、香るような微笑を浮かべている美貌の男である。孫策は彼を「周瑜」と呼んだ。この男が、言うにこと欠いて「逆らうなら他にも人を呼んで押さえつける」などとのたまうのである。 要するに、力ずくで抵抗しようというなら力ずくで押さえようということで、その際には更に数人の人間に、こんな状況を見られてしまうということである。
もちろん、諦めきれるわけがない。 だが、強硬な反撃に出ないことには、孫策とやりあうのは無理である。少しの躊躇いがあれば、そこを突かれてしまうのは明白だ。 現に今も、背後に回った孫策に、両腕を後ろへと絡め取られてしまっている。これは容易には振りほどけそうもない。 今の時点でも脚は自由になる。足元にいる少年一人くらい、蹴り殺すことはできる。 「兄上、兄上。それで、どうすれば良いのですか?」 だが、少年はどこまでも無邪気だった。
まだ十四かそこらだろう。よほどおっとり育てられたのか、歳のわりに小狡いようなところがなく、幼い感じがする。目も口も大造りだが、それが逞しく見えるようになるには、もう少しつらい目に遭わないとならないだろう。頬を興奮に紅潮させ、光加減のせいか、蒼く見える目は熱っぽく輝いている。 なんにも分かってないのだ。自分のしようとしていることがどれほど非常識かも分かってないほど、おっとりと育てられたのだ。 家中そのものが非常識だという可能性があるのも否定できないが。
ともあれ、罪のない子供を蹴殺すのは可哀想である。 「おう。まずは服を脱がさねぇとな。権。脱いでもらうほうが好きか? 自分で脱がせたいか?」 「ん〜……」 可愛らしく小首を傾げて天井を見上げ、 「脱がせたいです!」 はきはきと元気に答える。それに対して孫策も快活に笑い、 「よしよし、それでこそ俺の弟だ」 なにがどうそれでこそなのか。
兄に褒められたためか、嬉しそうな顔で孫権は周泰の服に手をかける。 (このままではまずいが……) どうするか、選択肢は少ない。 要するに、ここにいる三人とも振り切って逃亡するか、それとも、観念するかである。もし前者を選ぶなら、この孫家の支配からも逃れなければならない。 乱世―――。他にも仕える場所はある。 完全に脱走することを考えれば、相手が主君とその弟であるということは問題にならない。 (……こんな連中に仕えてもろくなことにならんだろうな。よし) 文机の傍にいる青年はどう見ても文官だ。少年はものの数に入らない。とすると、手強いのは孫策だけ。しかしそれならば、あまりやりたくはないが、少年を盾にすればなんとかなるだろう。
周泰が腹を決める。すると、 「孫策。その男の名は?」 美貌の青年が唐突にそう言った。高くもなく低くもない、耳に心地良い声を、ゆったりとした口調が更に美しく響かせる。 「ああ。周泰ってんだ。牛渚で配下にした」 「その男だけか?」 「いや。他にあと二百人ほどの仲間と一緒だ」 「ふむ。どういう素性の連中なんだ?」 「賊だよ、賊。俺に征伐されちまうより、ここらで足洗って一旗上げる気になったんだと」 「ほう。つまり、これまで生死を共にしてきた仲間、というわけか」 きらり。 周瑜の目が光った。 「ということは、まかり間違っても大逆の罪など犯した時には、諸共に罪を贖ってもらわねばなるまいな」 ……鬼。
『なあ、幼平。いい加減俺たちも、ここらで人様に自慢できることをしたくねぇか』 孫将軍についていけば、きっと一角のことができるぜ、と期待と希望に目を輝かせていた蒋欽。彼に出会ってから今までのことが次々と頭の中を流れていく。 ほとんど走馬灯である。 ともに逃げ出せばいいかもしれないが、そうなると、次の主が見つかるまでは放浪であるし、見つからなければパアだ。 (………………) 友は、裏切れない。
「周瑜殿っ」 もう泣きたい気分の周泰の足のほうで、孫権が厳しい声を上げた。 何事かと思って孫策も周瑜も、周泰もその少年を見やれば、 「それではまるで、大逆の罪を犯しかねない奴だ、と言っているも同然ではないですか。そんな言いようは、たとえ周瑜殿でも許せませんっ」 ぷっと膨れて、孫権は周瑜を睨みつけた。 その剣幕に少しは驚いたのか、周瑜は整った眉目を微かに開く。 「ほう。では孫権様。今しがた会ったばかりのその男が、決して貴方がたを裏切らないとおっしゃいますか」 「う」 意地悪く言われて、孫権は言葉に詰まった。 そんなことを断言できる証拠など、どこにもない。
「信用できると思うけどなぁ」 と孫策が助け舟を出すと、 「君には聞いていない、孫策」 ぴしゃりと周瑜。 それでしおしおとうなだれるあたり、孫策に君主の貫禄はゼロだ。 「さあ、どうですか、孫権様」 更に意地悪く問い詰める周瑜。 孫権はたじたじと押されていたが、にわかに周瑜を睨み返した。 「できるできないじゃありません。私は信用します。すると決めましたっ」 きっぱり言い切って、しっかりと周泰の首に抱きついた。
ぅぎゅ〜、としがみついている孫権。 「裏切られるんだったら、それは私がそれだけの者でしかなかったということなんですからっ」 そのまま更に言い募る。 こんな場合に口にしているのでなければ、なかなかの名言である。 「な。周泰といったか。おまえは私たちを裏切ったりはしないよな」 (ぐ……) 純粋な目。 無垢な眼差し。 ひたむきである。 こんな場合でなければ、そんなことをこんな顔して言われたら、「当たり前だ」と即答しただろう。
だが、思いっきりこんな場合である。 周泰が答えに詰まっていると、その目にみるみる涙が湧いてきた。 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、それでも必死に見上げている。 ぼたぼたと涙が落ちてくる。
君主の弟としてただ仕えるだけならば、めったに巡り会えないほどの相手だ。 心から仕えて、万一の時には命にかえても守ってやりたいと思うだろう。 ただし、今ここで頷けばどうなるかは明白。 だいたい、鬼のごとき一言に機先を制されはしたが、やってられるかと脱走を考えた直後のことだ。 「ほら、ご覧なさい。明日のことどころか、一刻後のことさえ、人には分からないものなのですよ」 周瑜がトドメをさした。
途端。 「う……うわあぁぁぁん……っ」 孫権が大声を上げて泣き出した。 「ああっ! 周瑜! 権を泣かせたな!?」 孫策が周泰の腕を放して飛び降りる。 「私は本当のことを言っているだけだ」 「本当でも嘘でも関係ねぇ! 本当のことなら泣かしていいって道理があるかよ!?」 えらい剣幕で詰め寄る孫策に対して、周瑜はふわりと身を反転させると、表へと逃げ出した。 「待て、周瑜! 逃げるなんてな卑怯だぞ!」 孫策は追って走っていく。
ばたばたと孫策、周瑜が出て行ってしまった後で、周泰は泣く子を抱えて往生していた。 笑うのが派手な人間は怒るのも泣くのも派手だと言うが、孫権は未だ、隣の建物に聞こえるのではないかという大声でびーびー泣いている。 一目で高価と分かる着物の袖も、涙と鼻水で汚れ放題。 放っておけば一日中でも泣いていそうである。 自分がこれくらいの歳の頃には、と比べると、あまりにも子供だ。もっとも、明日食うものも定かではない最下級の出身と、物に不自由したことのない上級の出身とでは、なにもかもが違うのだろうが。
「……おい」 喧しいのに耐えかねたのもあって、周泰は孫権に声をかけた。 「いい加減に泣きやめ」 まあ、どう考えても相応しい口の利き方ではない。ちゃんとした言葉を使おうとは思うには思うのだが、どういう相手にどう喋ればいいか、どう振る舞えばいいか、そんなことはまるで分からないのだ。悪ければ咎められるだろう、たぶん咎められっぱなしになるだろう、と覚悟して孫策の配下になったのである。あれこれ考えるのはやめようと、その時に決めてきた。 泣きやめと命令された孫権は、しゃくりあげながら顔だけ起こしたが、まだ涙は零れている。それでも、孫家の人間だという誇りまで流されてはいないのか、 「そっ、そーゆう口の利き方は、いけないんだぞっ」 嗚咽の合間にはっきりと言った。
周泰は溜め息で応えて、 「口の利き方は、まだよく分からん。悪いなら直してくれ」 そう言うと、孫権は逆に困ってしまった。こう話すものだと教えられて知っているというより、生まれながら「相応の言葉遣い」に囲まれて育ってきたのだ。違うとは分かっても、どうしろとは分からない。 考えているうちに、そんなことも分からない自分が哀しくなってきて、せっかくおさまりかけていたものが、またぶり返す。 泣き止ませるのは、至難の技のようだ。
「どうすればいいのか教えようがないなら、我慢してくれ。それより……」 この少年の非常識は、どうやら周囲の者によって育まれたもののようである。 「俺の言葉遣いより、おまえのすることのほうが無茶苦茶だ」 「……どこがだ」 「金のない奴、身分のない奴は殴ろうが殺そうが構わん、と教えられたわけじゃないとは思うが」 「当たり前だっ。そんなっ、私がそんなことっ」 「それなら、俺にしたことはなんだ。いきなり襲い掛かってきて、どうしようと勝手だというのでないなら、なんなんだ」 「それは……」 言われて孫権、やっと冷静に思い返す。 そして、真っ赤になった。
あれと同じだ。 泥酔しきってのご乱行を、酔いが醒めて思い出したのと。 兄が咎めないものだから、別に悪いことでもないような気がしていたが、ちゃんと考えてみれば大変なことである。 (そ、そうだぞ。それにどう見ても男じゃないか。それなのに) それなのに、ちらりと目を上げて顔を見ると、くらくらする。 俯いてつい、剥き出しになった胸や腹を見ると、……理性が飛んだ。
恋は、理屈ではない。
「おい、こら」 力では適わず引き剥がされて、孫権はまた泣き出した。 自分で自分が分からないのだ。 「また泣く。なにを泣く」 周泰が問うが、答えはない。 答えはなかったが、こうなって周泰にも、この少年は自分の気持ちを表現する手順など知らず、それゆえに一切の回り道を省いてしまっているようだ、とは分かった。 要するに (それほど俺なぞが気に入ったのか) ということだ。
どこがどうすれば、こんな育ちのいい坊ちゃんの眼鏡に適うのかは分からない。 だが、そこまで思われれば、心も動く。 ……男に好かれたことがなければ、それを受け入れたことがなければ、そんなこともなかっただろうが。
「俺が好きなのか」 頭に手を置いて尋ねると、孫権はこっくりと頷いた。 「それで……その、……」 言い澱むと、また抱きつかれた。
見回す。 誰もいない。 戻ってくるような気配もない。 先に気持ちを告げられて、こうして二人になったなら、君主の弟君でもあることだし、あえて逆らおうとはしなかった。別に構わない、と。 ただもしそうなっていたら、金持ちにありきたりな気まぐれだとしか思わなかっただろう。 「孫権……様、というのか」 「うん」 「どうしてもと言うなら、……どうすればいいかくらいは、教えてやれる」 「ほ、本当か?」 「こういうことは、たとえ兄弟であれ、他の人間のいるところですることじゃない」 「そうなのか?」 「……こういう家ではどうか知らんが、普通はな」
じゃあどうすればいい、と孫権が言う。 「まずは、口を……」 「口?」 「接吻くらいは、聞いたことがないか」 「???」 「顔をこっちに。目は、閉じてくれ」 「分かった」 ぎゅ、と閉じられる。思わず苦笑した。 「そんなに強く閉じなくてもいい」 たとえ気まぐれで、もし束の間のことだとしても、高貴な上に可愛い相手だ。そう悪くはない。 「……う……んん……、お、おい。なんか、変な感じだぞ」 「嫌か」 「……おまえは、これがしたいのだろう?」 「したいというわけじゃないが、こういうことをするものだ。同じようにしてみろ」
「よし」 可愛い仔虎がのしかかってくる。 自分が獲物を食う側であることは、本能で知っている。 (なし崩しにこうなった気もするが、まあ、いいか) 「周泰、周泰。それから?」 無邪気な虎の子に、当分は付き合うことにしよう。 自分がいいように乗せられたことには、まったく気付いていない周泰であった。
……乗せられた、とは? こちらをご覧あれ。
逃げ出した周瑜は、大廊を突っ切って隣の棟に入ったところで足を止めていた。 追いついた孫策が肩を捕まえると、 「これで万事解決だ」 わけの分からないことを言う。 頭にきてる孫策は、語気も荒くなんなんだと問うが、 「孫策。いい加減にしろ。君の大らかなのは美点でもあるが、時に最大の欠点でもあるんだぞ」 美しい顔をきりりと引き締めて、周瑜が孫策を睨みつけた。
美が迫力を倍加させ、孫策もそれに飲まれる。 「な、なんなんだよ……」 「まったく。いくら可愛い弟君のことだからと言って、色事まで傍について教える奴があるか。それも、問答無用で襲い掛かっておいて、だ。恥辱に耐えるくらいなら、と舌でも噛まれかねないし、下手をすれば君や孫権様を殺してでも逃げ出す、なんてことにもなりかねなかったんだぞ」 「そんなこと」 「あるんだ。というより、起こりかけてたんだ、今まさにな」 「………………」
「孫権様が新参の兵に飛び掛って、その後へ君が追って入っていった、なんて聞かされた私がどれほど呆れたか分かるか? そんなことで助けを求めなければならない従者の情けなさが分かるか?」 「け、けどよ、だったらなんでおまえも入ってきたんだよ」 「孫権様の望むところを叶えつつ、君を連れ出すためだ。現に今こうして君はここにいるし、今頃あの二人は上手くまとまっている」 「……俺のことはいいとして、なんでそっちまで分かるんだよ」 「疑うなら、見に行くか? ただし、こっそりとだ」 「よーし、見に行って……」 「こらーッ! だから君は能天気だというんだ。それは覗きだぞ、覗き!」 「おまえが言うからじゃねぇか!」 「普通はそこで『そんなことはできない』と言うんだ。まったくもう……。いいから君は私と来い。これから先、天下をとるためにはいろいろと考えておかねばならんこともあるんだからな。まったく、私の貴重な時間を、どうして君の非常識を取り繕うために使わないといけないんだ」
……と、いうわけである。 どうやらこの周瑜は、ブラックではなかったようだ―――。
(めでたしめでたし……?) |