2


 宇宙へと出航して797日。予定より一ヶ月ほど遅れて、パイオニア2はラグオルの衛星軌道上へと到達した。
 青く、ところどころは緑に、白い雲を抱いた星。
 見知らぬ故国。
 あれは、我等が見たことのない、本来のテラの姿だ。
 生物として、細胞だか遺伝子だかが、それを覚えているのだろう。
 通常空間にドライブアウトした途端に目に飛び込んできた色彩に、窓辺では涙する者もあった。
 街の中心を空にして、ほぼ全ての者が、外の見えるロビーに集まっているようだ。
 アンドロイドでさえ、「故郷」に出会うことには喜びを感じるものらしい。
 彼等は涙も流さなければ顔色も変えないが、じっと青い惑星を見つめる眼差しは、真摯に思えた。
 今ここで皆が感じている喜びや安堵は、この二年の間に蓄積した不安や疲労、期待に比例するのだろう。

 移住に積極的なわけではなかったローザ様は、周囲の興奮に取り残されたようで、窓から少し離れたソファにかけていた。
 そのあたりは我も大差ない。
 いったいどうすれば、ああも感情を動かすことができるのか、それが我には分からぬ。
 滑稽に思いもするが、いくらかは羨ましくもある……のかもしれぬ。
「のう、ジーン」
 不意にローザ様に呼ばれて見下ろすと、彼女は窓の外の星に目を据えていた。
「なにか」
「ラグオルに降りたら、何をしようかの」
 ふっと小さな息をつく。

 我は答に窮する。
 することなど、何もない。何も与えられてはおらぬ。
 我は、命ぜられればそれに応じるのみ。
 命ずる立場にあるローザ様だが、彼女は大老たちとは違う。
 共にあればこそ、仕える身である我に何かを命ずることはあるが、ただそれだけだ。
 「仕事」を寄越すのは、あくまでも大老。
「里におった時のように、また稽古、稽古かえ?」
 我が答えずにいると、すねたように見上げてきた。
 我には、命令に従うことと、主の意向を窺うことが許されているだけだ。
 ローザ様が「何をするか」を、我が決めるわけにはいかぬ。

「ローザ様の、好きになさるがよろしかろう」
 しかしこの答えは、彼女をいくらか不機嫌にさせたらしい。
「そなたはいつもそうじゃ」
 ふいと顔を背けられる。
「分かるかえ、ジーン」
「……なにが」
「何もかも、己で決めねばならぬことの重みじゃ。そなたは、わらわがああせい、こうせいと言うたことに従っておるだけじゃ。それも楽ではなかろうが、この何もない真っ白な場所で、標もないまま、わらわはいったい何をすれば良いというのか。さりとて、また大老たちの言うなりでおるのも……。ジーン、わらわはそなたの言葉が聞きたいのじゃ。言うて良いか否かなど考えるでない。そなたの思うところを……」
 そこまで言って、ローザ様は短く溜め息をついた。
「……と言うたとて、『わらわの思うとおりにすれば良い』としか思わぬのかもしれぬがの、そなたは……」
 そして、その溜め息の続きのように、小さく付け加えた。

 何故そうも憂鬱げなのか。
 いずれは大老が何かを言って寄越すであろうが、それまでは「自由」だ。それを、ローザ様はずっと求めておったのではなかったか。
 だが、彼女も里の意向に従わされて、人の言いなりにこれまで生きてきた身だ。突然そのようなものを与えられ、ゼロから何かしてみよと言われたとて、戸惑う他ないのかもしれぬ。
「……たとえば」
 ならば、いくばくかの選択肢を提示することが、我の役目だろうか。
 そう思い、言いかけた。
 その瞬間の出来事だった。

 凄まじい光が窓から飛び込み、続いて船が大きく揺れた。
 ソファは跳ね上がり、ローザ様は投げ出される。受け止めようにも、我の足もろくに床についておらぬ。
 かろうじて抱き留めることは叶ったが、諸共に転倒して転がった。

「何事じゃ!?」
「分からぬ」
 震動は大きく一度きり、光も一度きり。
 幸い我等は人垣の後方にいたため影に入って無事だったが、真っ向から光を浴びた者は、目を押さえて床にうずくまっている。
 窓辺に寄って事態を把握するべきか、続いて起こる何事かのためにローザ様の傍にいるべきか。
 迷う間もなく、ローザ様から先に窓のほうへと駆け出した。

 青い星の一隅に、不自然な雲が渦巻いていた。
 それが粉塵のようだと分かるまでに、だいぶかかった。
「何があったのじゃ」
「さて。調査は今にも始まっておろうが、我等に知らされるのは当分先となろうな」
 そこで、我等の話は中断せざるをえなかった。
 突然の異常事態にパニックに陥った乗員たちでロビーは喧騒に包まれ、それを鎮圧するための軍人たちが、またやかましくがなりたてるものだから、とても話などできる状況ではなくなったのだ。
 やがて各個割り当てられた部屋での待機を命じられ、獣の群れでも追い立てるようにして、軍人たちが市民を追い払う。
 窓のない狭い部屋に閉じ込められては、かえって不安は増すであろうに、軍人といった類の者は、そのような配慮はせぬものだ。
 気丈なローザ様でさえ、いくらか青い顔をして、所在なげな様子である。

「のう、ジーン。何が起こったのであろうな」
「どうやら、地表付近で爆発事故でもあったようだが」
「よう分かるの」
「我の目の良さはご存じであろう」
「見えたのかえ」
「大規模な建造物が、半壊していたように見えた。むろん、確かとは言えぬが」
「そなた、相変わらず人間離れした目じゃな」
 人間離れ、か。
 確かに。
 室内の補助灯の明かりですら目を開けてもおれぬが、逆に「漆黒の闇」と人の言う中でもものが見える。
 そして、肉眼で十キロ先にある人の姿を視認することができる。
 一都市に匹敵するほどに巨大なものであれば、この位置からでもなんとか見えぬことはない。
 ともあれ、粉塵越しではっきりとは分からなんだが、大きなドーム状の建造物の片側が、不自然な形に歪んでいたのは確かだった。
 何かで壊れたものに見えたが、ともすると、そのような形に作っただけなのかもしれぬ。
 しかし、あの光と震動から察するに、相当な規模の爆発が起こったに違いあるまい。それも、衛星軌道上にまで届くのだから、尋常なものではない。
 既に調査隊の派遣は開始されているだろうが、我等にその結果がもたらされるのは、当分先のことだ。
 その間、まんじりともせずに待ち続けねばならぬのだろう。

「……のう、ジーン」
「なにか」
「あれは、ただの事故であろうよな?」
 ローザ様には珍しく、表情に脅えが読み取れた。
「どうにも嫌な予感がするのじゃ。胸騒ぎと言おうか……。のう、おかしいかの? なんとなくじゃが、ラグオルには降りられぬような気がするのじゃ」
「……事故ならば、処理が済めば下りられよう」
 安請け合いはできぬ。
 嫌な予感、とローザ様の言うそれは、我も感じていたことだ。
 あれが局地的な爆発事故ならば、別の地点にでも間もなく転送開始となるだろう。だがどうしたことか、そのようなことにはならぬと思える。
 しかしそれはただの予感、根拠のない感覚に過ぎぬ。
 我は確実に虚偽ではないことを述べたつもりだったが、
「……嫌いじゃ、そなたなど」
 そう言うと、ローザ様は我をちらりと睨んで、寝室に入ってしまった。

 こういう時には、口先だけでも「大事ない」と言うべきなのだろうか。
 楽観して足元をすくわれるよりは、たとえいかに厳しかろうと現実を直視したほうが良いと、我には思えるのだが……。
 人の心ばかりは、分かるものではない。
 我のこの目をもってしても、形なきものを見ることは叶わぬ。
 寝室にこもったローザ様がいま何をしているのか、ドアの一枚とて見透かすことのできぬ人の目に、在処すら定かならぬ心など、見えるわけがない。
 それは未来とて同じこと。
 未だ形を成さぬ未来の姿は、まだ誰の目にも見えておらぬのだ。


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