マグの恩返し

「くそっ、こんなんちっとも役に立たねえじゃねえか!」
 いかにも腹立たしいと言いたげな若い男の声に続いて、何か硬いもの同士が激しくぶつかるような音がした。
「よっと」
 それから、からかうように楽しげな、これもまた若い男の声。
「お、そりゃいいや」
 また一人、これも年頃は同じだと思われる男の声と、ガン、ガン、とまた金属同士のぶつかるような音。
 ヤンとベータは顔を見合わせた。その後ろではジーンが、音は聞こえているだろうに、相変わらずなんの反応も示さずに立っている。

 「いったぞ」とか、「どこに蹴ってんだよ」とか言い合う声は、どれもこの三つのうちの一つで、この先にいるのが二十歳前後の青年三人(あるいは口をきかないのがもう一人二人いるのかもしれないが)であることは、すぐに分かった。
 聞こえてくる声から、何かを蹴りあって遊んでいることも分かる。
 彼等のしていることに興味などない。だが、この先の第六研究室跡に用があった。
 この区画は間もなく封鎖され、電子洗浄される。その前に、残っているデータがあれば全て回収してきてほしい、という依頼を受けたのだ。

 道なりに行くと、自然、その三人がいるホールに出た。
「うっわ」
 彼等のしていることを見るなり、ヤンはいかにも嫌なものを見た、というように顔をしかめた。
 ヒューマー、レイマー、フォニューム、という三人は、青いマドゥをボール代わりに蹴り飛ばしていたのである。

「ちょっと! なにやってんのよあんたたち!」
 ヤンが声を張り上げて怒鳴ると、それに驚いたレイマーがマドゥを受け止め損ねて、後ろに逸らした。
「あん?」
「マグをボール代わりにしようって、そりゃないんじゃないのさ!?」
 ヤンも大した剣幕だったが、年若い三人にとっては、不機嫌そうな顔で彼女の後ろにいるベータの視線が鋭く突き刺さった。
 自分たちより年下の、それも女であるヤンが相手ならあれこれと強く出たのかもしれない。しかし、そこらのヒューマー顔負けの体格で、いかにも幾多の修羅場を潜り抜けてきた、という雰囲気のベータに食って掛かる度胸はないらしい。
 さりとて素直に謝るだの逃げ出すだのというのも癪に障るのか、青いスーツのレイマーが、
「俺のモンなんだからどうしようとあんたらに関係ねえだろ」
 憮然と言い放った。

「だからって蹴ることないじゃない」
「だってこいつ役に立たねえんだよ。なんにもしやしねえ。使えねえ道具なんて、ゴミ同然だろ。空き缶蹴るのとどう違うよ」
 それでも、と言いかけて、ヤンは言葉に詰まった。
 これまでにいろいろと助けてもらっておきながら、と言おうとして、やめたのだ。どうやらこのマドゥは、一切の補助行動を起こさないらしい。だとしたら、映らないモニターとか、風の出てこないドライヤー、あるいは音の出ないCDプレイヤーみたいなものである。
 期待される機能をまったく発揮してくれないうえに、他人の所有物なのであるから、ヤンにも強いことはなにも言えない。
 実際、そのマドゥは床に転がったまま、浮き上がろうともしないのだ。

 欠陥品ならば、たしかに、ゴミである。
「……だからって、蹴って遊ぶことないでしょ。捨てるなら捨てるで、ちゃんと廃棄すればいいのよ」
 かろうじてそれだけ言うと、にやりとヒューマーが笑った。
「じゃあ」
 そして、足元のマドゥを思い切り、ホールの隅へと蹴り上げた。
 ヤンがあっと言う間もなく、それは天井にあたり、壁に跳ね返り、ホールの隅に積まれたガラクタの上に落ちる。
「おおーっ」
「ナイスシュー!」
「どうせここ自体がゴミ捨て場みたいなもんじゃん。これでいいんだろ? おい、行こうぜ」
 誘い合い、三人の青年はばたばたと走っていってしまった。

 あとには呆気にとられたヤンと、不機嫌なベータ、なにを考えているのかよく分からないジーンが残った。
「な、なんなのあいつら」
「躾のなってないガキどもだな。まあ、仕方ない。スクラップにされるのが今日か明日かくらいの差か。俺たちも行こうぜ」
 肩を竦めて、ベータが促す。
 ガラの悪い若手ヒューマーの言うとおり、この施設自体がもう、ゴミ箱も同然だった。

「待ってくれ」
 歩きかけたとき、そう言ってジーンが、ホールの片隅へ歩き始めた。
 その肩を、素早くベータが掴みとめる。
「拾うつもりかよ」
 問うというより、すでに咎める声音でベータが言う。
「まるで反応もないならばともかく、センサーが点滅しておった以上、まだ機能しておろうが」
「あのなぁ、おまえ、今いったいいくつマグ持ってるんだ。今ここにじゃないぞ。うちにあるのも合わせてだ。この間42とか言ってたな。あれからまた増えたのか、減ったのか。どっちにしたって40前後あるんだろうが。このうえまだ増やそうってのか。それも使えもしないのを」
 ベータが畳み掛けると、さすがに反論できないらしく、ジーンは口を閉ざした。

「まだそんなにいるの? このまえあたいが一個もらったけど、増える一方じゃないのさ」
 ヤンも呆れて天井を仰ぐ。
 ベータはベータで、派手な溜め息をついた。
 捨て犬捨て猫捨て猿捨て子、とにかくなにを見ても可哀相になる、というような感情過多の者がすることならばともかく、ほとんどなににも感情を動かさず、喜怒哀楽も曖昧なくせに、何故かマグだけは、捨ててあると必ず拾ってきて育てようとするジーンの頭の中が理解できないのである。
 それも、暇と金を持て余しての趣味というならばともかく、かなりのペースで稼いでいるものが、マグたちに与える「餌」代で人間様自身の食事がかなり質素にならざるを得ない有り様だから、余計に分からない。

「おぬしらに持っていけとは言うておらぬ」
 めったに人の言葉に逆らわないジーンが、こんなことを言い出すのも、マグに関してだけである。
「駄目だ。おまえはマグより先に自分の面倒見ろ」
「だが」
「駄目だったら駄目だ」
「何故おぬしにそうまで言われねばならぬ。仕事のことなればともかく、私事にまで言を挟まれるいわれはないぞ」
 さして怒ったようでもないが、言葉で突き放されると、ベータは弱かった。惚れた弱みというやつである。
「勝手にしろよもう」
 言いながら、マグを欲しがっている相手を探し出して10か20はさばいてしまう他ないか、と次の手を考えるベータ。彼とヤンをその場に残して、ジーンはガラクタ置き場まで行くと、ずいぶん傷んだ青マドゥを拾い上げてきた。

 翌日から、ジーンは青マドゥの本来の持ち主を探し始めた。
 まるで補助行動を起こさないというのが素体のときからならば、最終形態にまで育てる前に見限っているだろう。ということは、マドゥにまで育った後で、急に機能しなくなってしまったと考えられる。
 いくら動かなくなったと言っても、自分の手でマドゥまで育てたのであれば、蹴って遊ぶようなことはしないだろう。だとすると、このマドゥはあの若い青レイマーが育てたものではない、という可能性が高い。

 捨てられたのか譲られたのか、あるいは盗まれたものかはともかく、この青マドゥは以前、別の者が所持していたとすれば、動かなくなることも不思議ではなくなる。
 本来の所持者とのシンクロ率が高かった場合、新しい持ち主になかなか馴染まないことは往々にしてある。それならば、本来の持ち主のもとでならばちゃんと活動するだろう。
 もし盗まれたか失くしたかして探しているならば、返してやれば良い。譲られたものならば、扱われようを伝えて、もう少ししかるべき相手に渡すか、あるいは自分にくれるよう頼むつもりだった。捨てられたものをあの青いレイマーがたまたま拾っただけならば、元の持ち主に断ることはない。

 なんにせよ、動かない理由はあるはずである。
 構造や組成にはなんの異常もなく、すなわち機械的な故障でないことは、もう確認した。たぶん、生命体としての部分で、動きたくない、あるいは動けないわけがあるのだろう。
 ネットを使って青マドゥの情報を流し、知り合いにも問い合わせる。そうして三日が過ぎた夜、聞いたことのない名によるメールが一通、届いていた。
 マドゥについた小さな傷やマークから、それはたしかに、元は自分のマドゥだとそのレイマーは書いていた。だがそれは、例の三人のうちの一人、友人である青いスーツのレイマーに譲ったものであるという。引き取るつもりはないし、友人がマドゥを必要ないとして手放したのならば、今所持しているジーンの好きにしてくれ、という内容だった。

 主が変われば、当然マグとのシンクロ率は落ちる。それに伴って、マグとの連携・コネクトはうまくいかなくなり、自然、補助行動をとることが少なくなる。しかしたいていの場合、それはさしたるものではなく、しばらく面倒を見ていれば新たな関係が築かれていくものだ。
 だが、極稀に元の主にシンクロしすぎるあまり、次の主にまるで馴染めないマグも出てくる。そういったマグは非常に大切にされていたことがほとんどで、主が変わるというのも、よほどの事情があって手放すためか、あるいは所有者が死亡したためである。
 今回のこの、元の所有者だが、友人にやってしまったのだからもう知らない、というのだから、そう大事にしていたわけではないように思える。元の主を慕うあまり、というのはいささか考えがたい。

 メールを読み返し、検査結果をもう一度読み返し、ジーンはソファの上に転がっている、動かない青マドゥを振り返った。
 それから少し考えて、このマドゥの持ち主だったレイマーに、返事を兼ねて、一つ、尋ねることにした。
『必要ないと言うならば、己がもらうことにする。それに合わせて、一つだけ確かめておきたい。この青マドゥは、友人であるというレイマーに譲る以前から機能していないのか、それとも、譲った時まではちゃんと機能していたのか』
 そんな内容のメールを送り返すと、どうやら相手はCC、あるいはPPCを使っていたところと見えて、すぐに返事が届いた。
『そのマドゥは、一年くらいずっと使っていなかったものです。それで、友人のマグがバグに食われたと聞いて、もう使っていないし、と譲りました。自分が使っていた時は、普通に補助してくれていましたよ』

 その返事を見て、なんとなく辻褄は合ったような気がした。
 この青マドゥは、一年間、おそらくはずっとデータのままで保存されていたことになる。そのために、動こうとしなくなったのかもしれない。
 データから物質化した時に、検査ではわからないような、なにか根本的な組成からしておかしくなってしまったのか。あるいは、一年も放置されていたことを、哀しんでいるのか。

 角の先が少し欠けた、欠け角の青マドゥはもうジーンのものだ。
 動くつもりがないならそれでもいいし、餌を食べる気すらないとしても、それでマグが餓死することはない。それこそ、飾りのようにソファの上に転がっているだけでも、構わない。
 誰に遠慮することもなく、うちに置いてやればいい。
 欠け角の意識が開いているのか、閉じているのかは分からないが、ジーンはマドゥの羽を、軽く撫でてやった。

 ジーンのところで飼われている他のマグたちにとっても、なんの反応もしない欠け角は、興味と不審の対象のようだった。
 仕事さえなければ、ジーンは全てのマグを、最低でも一日に一度、物質化して部屋の中に放し、餌をやる。
 データ化したまま凍結させておくのは、好きではなかった。
 それは、かつて闇の洞窟に突き落とされ閉じ込められた、自分のことと重なるせいだった。
 データの状態というのは休眠状態で、マグたちにとっては一秒の時間すら流れていないというが、事実は問題ではないのだ。まるで闇の中に閉じ込められているように思える、ということが肝心だった。

 うちにいて、マグたちを半分ずつくらい解放してやると、ソファの上の欠け角を、どれもが気にかける。
 マグには独特の感覚のようなものがあって、それでコミュニケートしているといわれている。
 なんの反応も示さない欠け角は、表情も変えなければ動こうともせず、話し掛けても返事すらしない、なのに生きている、という奇妙な状態に見えるのだろう。
 心配そうに周りを浮遊するものや、遠巻きに窺っているもの、近寄るのは嫌だと言わんばかりの態度のもの、いろいろなマグがいる。
 50近い数のマグたちの中で、最も古くからジーンのところにいる黒マドゥ、通称イシグロさん(1番最初の黒マドゥ→1黒→イシグロ)は、ジーンが欠け角を気にすると、「どうしたんだろうね」とでも言うように、一緒にその方向を見た。

 そして、めったに感情を動かさないジーンが溜め息をつくと、心配そうに顔の横に近づいてきた。
「いや、少しな」
 シンクロ率は120どころか200%を突破しているのではないか、というレベルで活躍してくれるイシグロさん。
 そんなイシグロさんには、分かるのだ。
 動かない青マドゥ。
 データという闇の中に閉じ込められていた青マドゥ。
 外に出されてみれば、理由はともかく、動かなくなっていた青マドゥ。
 それは、闇の洞窟から出された時には、人間らしい感情など完全に麻痺して、人の言うままに動くだけになっていたジーンに、あまりにもよく似ていた。

 痛いとも怖いとも、哀しいとも思わない。
 ただ使われるだけの道具。
 なんの反応もなく、果たすべき役割も果たさない道具は、捨ててしまえばいいと、人は言う。
(我も、道具か)
 銃が撃てなくなれば、このマドゥと大差なくなる。したいこともほしいものもなければ、意味もなく空気と食料を消費して日を送るだけで、それを貴重な資源の浪費と言われれば、食べることも動くこともやめるだろう。
 だが、僅かに動くようになった心が、それは哀しい、と思う。

 欠け角の青マドゥを元に戻せれば、それが自分にとっての救いにもなるように感じている、……とジーン自身には自覚できなかったが、イシグロさんには分かっていた。
 心の奥の奥、意識のずっと底のほうで、主自身も感じられないずっと下のほうで、細々と動いている思念も、イシグロさんには感じられた。
 ジーンは意識の底で、闇に囚われる以前のことを思い返してもいた。あの頃には、兄の腕に抱かれ守られている時には、ほっとしていたことを思い出し、あの頃は兄と共にいるのが好きだったと、そんなことも今更自覚……いや、意識上には上らないまでも、そう気付いた。
 もし欠け角が少しでも動きを取り戻せば、自分もまた、兄を好きだと思っていた頃に戻れるかもしれないと、―――欠け角が動くようになったら兄に連絡をとろうと、ジーンは無意識に決めていた。

 

→NEXT