暦の上で定められたその日、各家庭において、ささやかなイベントが行われることがある。 ここ、ラッシュの家でも、そのイベントは慎ましくもきっちりと行われていたのであるが、それはさておき。 青い太陽などはとっくに西の地平に沈んだ夜、ラルムも「おやすみなさいです」と目をこすりつつ自分の部屋に引き上げていった深夜、突然の来客があった。
この家の『レディ』は、ラッシュの手で勝手に改良されている。既製の『レディ』は時間帯を慮って声をひそめる、などという芸は持たないし、声はいつだって明朗快活だ。だがここの『レディ』は、いたって人間的な声音でささやくように、リビングにいるラッシュに来客の存在を告げた。 『フェンリルさんですけれど、どうなさいます?』 「こんな時間に珍しいな。構わんよ。通してくれ」 『分かりましたわ』
仕事の話だろうか。それともなにかトラブルでもあり、自分の力を借りたいとでも言うのだろうか。 シリアスな気分でラッシュが腕を組むと、 『上がるほどのことはないとおっしゃるんですけれど』 戸惑ったような『レディ』の声が降ってきた。 『でも、出てこさせるのが失礼なことなら、入らせてもらう、とおっしゃってますわ』 「ふむ。いいだろう。私が出よう」 『はい』 ふんわりと『レディ』の声が消える。
玄関脇の壁面、屋外監視モニターに、白いヒューキャストの姿が映し出されていた。 ラッシュが玄関に辿り着いたことを確かめて、『レディ』がドアロックを外す。 「こんな時間に、すまん」 玄関灯の下で、フェンリルは軽く顎を引いて頭を下げた。 「どうかしたか?」 ラッシュが問う。と、フェンリルは答えずに、片手に下げていた紙袋を持ち上げ、 「花を持ってきた」 その中から、植木鉢を一つ取り出した。レトロな赤茶色の植木鉢は、白い包装紙と淡いブルーのリボンで軽くラッピングされている。 そしてその上、少しうねるようにのびた緑色の茎の上には、どこかで見たような花が咲いていた。
(小型のラグオル・リリーか……) 花はもぞもぞと動いたかと思うと、 「キシシシシ…」 奇妙な笑い声をあげる。
もうこの時点で、ラッシュにはフェンリルの言い出すことがおおよそ分かっていた。 もしこの花を「死体」で持ってきたとか、ただ引き抜いて持参しただけならば、「これを調べてくれ」ということなのだろうが、さわやかにラッピング済みである。 ラルムへのプレゼントでないなら、目的は一つだ。 そして案の定というか、どうせまたアズあたりにそそのかされたのだろうが、フェンリルが言うのには、 「父の日というもののプレゼントだ」
(やはりな) からかわれていることに本人が気付いていないことが、憐れなような、まだしも救われているような、複雑な気分でラッシュはフェンリルを見やる。 彼の顔を見た瞬間、ふと、フェンリルに「父さん」と呼ばれるところを想像してしまった。 (勘弁してくれ) 想起されかけたいくつかの記憶を、即刻ねじ伏せる。 そして強引に、感情思考ベクトルを修正。 チェックし忘れている可能性はないか、ロジカルに思考する。
「一つ訊くが」 「なんだ」 「ラルムに配達を頼まれた、ということはあるか?」 「? なにをだ?」 「いや、そうではないなら、それでいい」 感情的に芸達者な者ならばともかく、フェンリルのこれは、決してとぼけているのではない。 (やれやれ) 「ところでな、フェンリル」 「なんだ」 「私は君の父親になった覚えはないぞ」
楽しげに言うラッシュにフェンリルは首を傾げた。 「あんたが俺の……? む、父の日というのは、自分の父親にプレゼントをする日、なのか?」 ようやく正しい常識に辿り着いたフェンリルに、ラッシュは頷いて見せた。 「自分の父に、日ごろの感謝や慰労の意味をこめて、プレゼントや言葉を贈る日のことだ。なにも、『父』という存在全てをありがたがるような日ではないよ」 「そうか……。すまん。アズに確認してから来れば良かった」 フェンリルは、ずっと一定角度に持ち上げていた腕を、鉢ごと下ろした。
「誰かに、私にプレゼントを持っていってみろ、と言われて来たわけではないのか?」 「? ああ。昼のニュースで、今日は『父の日』だと言っていた。それで、プレゼントを買いに来た客にインタビューをしているところが流れていた。だから、そうするものなのかと」 (なるほどね) 何故こんなことになったのか納得はできたが、いかにアンドロイドには肉親というものがないとは言え、フェンリルのこれは、やはり素ボケというものだろう。 それがいかにも彼らしく、また、 「今度からは気をつける。では、これは持って帰らねばならんか?」 と真面目な声で尋ねるのは、やはり彼らしい反応だった。
「『父の日』の意味は違うが、私への慰労として持ってきたものなら、もらっておくよ。ありがとう」 ラッシュが言うと、フェンリルはいくらかほっとした様子で花を差し出した。 「それでは、これで失礼する」 「ああ、おやすみ。気をつけてな」 「気をつける? なにか危険でもあるのか?」 (まったく) 結局フェンリルは、ラッシュから「挨拶」というものについてのレクチャーを受けた後で、帰ることとなったのだった。
真下の客間で笑い声がする。 (誰か来てるですか?) 響いてくる笑い声に目が覚めたラルムは、眠い目をこすりながらベッドに身を起こす。 ラッシュのもとに客が来るのは珍しくはない。トラブルは昼夜を問わず起こるのだから、そのトラブルのために誰かが奔走するのも、昼夜を問わない。そして、彼等が助力を求めてくるのも。 深夜の来客は先週にもあったし、ラルムの部屋まで聞こえるような笑い声というのも、なかったわけではない。 しかし、今日のは様子が違った。
「ウケケケケケケ!」 明らかに常人の笑い声ではないのだ。 笑っているのは客なのだろうか。だが耳をそばだてても話し声は聞こえてこない。 (もしかして父様が……?) 誰もいない客間で一人笑い狂うラッシュ……。 (そっ、そんなわけないですっ) 怖い想像図をラルムは思い切り頭を振って放り出す。
(よ、様子を見に行くです!) 不安でたまらなかったが、勇気を振り絞って部屋を出た。 足音を忍ばせて、客間へと向かう。 真夜中の家は、昼のそれとはまるで違う。人の存在を感知して足元にはライトがつくが、照らされて浮かび上がる壁や天井は、昼の無機質さを失ってしまったかのようだ。 階段を踏み外さないように慎重に下りると、またそこで 「ケケケケケ」 笑い声が聞こえた。
階段を下りきって角を曲がれば、客間までは直線、あと5メートル。 光の洩れているドアも見えているが、そこまでがやけに遠く見える。 (も、もし、いるのが父様じゃなかったら……)
ラッシュがいない間に忍び込んできた得体の知れない化け物だったら……。 未知のエネミーが現れてラッシュを襲い、「獲物」を前に高らかに笑っているのだったら……。 もしかしてラッシュがダークファルスのようなモノにとりつかれてしまったのだったら……。 あるいは、ラッシュ自身がおかしくなってしまったのだったら……。
浮かんでは消える恐怖。(特に一番最後のが怖い) だが、もしなんらかの「敵」に襲われたのだとして、その「敵」の笑い声だとして、ラッシュがまだ生きているのならば、助けに行かなければならない。 そこまで考えて、ラルムは覚悟を決めると足を踏み出した。 (わっ、私だって、ハンターズです……っ) 決して足音を立てないよう、細心の注意を払う。気配を悟られないよう、息を殺し緊張と焦りを抑える。 客間まであと2メートルというところで、ラルムは壁に背をつけ、先に首をのばすようにしてそろそろと進んだ。 ノブに手が届く。
ドアを開けようとした瞬間、笑い声の質が変わった。 「ウヒョヒョヒョヒョ!」 ラルムは悲鳴をあげかけて口を押さえた。 すぐさま部屋へととって返したくなったが、ここまで来たのだ。 ラッシュがピンチかもしれないのだ。 歯を食いしばり、ドアに隙間を作るとそっと中を覗き込んだ。
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