いたわりこもごも

「はぁ。お風呂、入りたい……」
 部屋で一人、ベッドに横たわりながらけだるげにつぶやく。
 体温を測ると、メーターはレッドゾーンを指していた。
「やっぱ駄目か……」
 ヤンは体温計を枕もとに投げ上げて、溜め息をついた。
 文明が進歩すればしただけ、ウィルスというものも進化するものらしい。決して人間の天下にはさせるものかという、自然界の意思にも思える追いかけっこである。

 体が資本の仕事についている以上、ヤンも体調管理には気をくばっていた。しかし、それでも風邪をひく時はひくのである。つい先日まで、予想以上にハ―ドになってしまった仕事をしていたというのもあるだろう。いつになく疲れて抵抗力が落ちていたところに、ウィルスがやってきたらしい。
「気が抜けたのかなぁ……」
 軽く目を閉じる。
(ガンツには悪いことをしたな)
 ヤンは頭の中で、純朴というよりはどこか抜けたヒューキャストを思い描いた。
 「この仕事が片付いたらね」と彼と組む約束をしていたのだが、このとおり体調を崩してしまい、キャンセルしたのだ。

(今度ちゃんと会って謝らなきゃ。……けど、このまま治らなかったりしてね)
 そんなことはないとは思っても、一人でいると段々気分が沈んでくる。
 誰か来てくれないかな、と思うが、「風邪ひいて動けないから面倒見に来て」と誰かを呼びつけるのは、どうにも気が引けた。
 こんな自分を見られたくない、というのもある。
 これで丸二日、お風呂にも入っていない。着飾ることに興味はないが、人の前に出る時は身だしなみはきちんとしていたい、というのが、ヤンの譲れない信念なのだ。

(誰か来ないかな……)
 そんなことを思った時、PPCがコールを告げた。
 面倒な話なら聞きたくないし、仕事を持ちかけられると断るのが億劫だ。居留守を使おうか、という考えが一瞬よぎるが、どうにも退屈していたのもある。
「はぁい?」
 寝ぼけたような声になってしまった。気付いて、しまった、と思ったがもう遅い。
 返ってきたのは、
『よ。鬼の霍乱ってヤツらしいな』
 名前も名乗らず、なかなかの音量で、楽しげに。
 ベータの声である。
「う、うっさい……」
 半ば条件反射で答えるが、いつものような迫力は出ない。

『珍しいもんだよな。最近の風邪はタチが悪いっていうが、おまえが風邪ひくとなると、こりゃ俺も気をつけなきゃなぁ。おー、こわ』
 どうやら、飲んでいるらしい。
 無遠慮なのはいつものことで、こんなことを言われるのも毎度のことだが、声がいつになく大きいのだ。頭がガンガンしてくる。
「バカは……風邪ひかないでしょ……」
『おまえがひいてんだろ。そんなこともないみたいだな』
 怒鳴ってやりたかったが、口を開いて息を吸ったら、出たのは溜め息だった。

 ふと、意識の片隅で疑問が起こる。
「なんで知ってんの?」
『あ? バカだってことか?』
「違うわよ! あたいが風邪ひいてるってことよ! あぁ……」
 大声を出すと頭に響くのだが、ついつい怒鳴ってしまった。
『ああ、それか。ガンツが騒いでたからな。大変だ〜、ってな』

(あのバカ)
 よりにもよってベータに知られてしまうとは、あまりにも不本意だった。ガンツに口止めしておくべきだったかとも思ったが、もう遅いし、したところでどうせあまり効果もないだろう。
 この分では、そこらじゅうで言いふらしてあるに違いない。それを思うと、風邪とは別口で頭が痛くなってきた。
 なんとか最悪の相手にだけは知られたくないものだと考えていると、
『おっと、そうだ。おまえに一言言いたい奴がいるぜ』
 と、ベータ。そのどこか楽しげな口調に不安を覚える。
 まさか、と思う向こうでベータの声が途切れ、空間の音が微かに届くようになる。少し遠い位置から、「言ってやれ言ってやれ」と楽しげなベータの声がする。
 そして聞こえたのは、
『ふん。寝くたばったハンターズとは、笑わせる』
 絶対に知られたくはなかった相手、ガッシュの声だった。

「うっさい!! なんであんたがそこにいるのよ!!」
 思わず思いきり叫んでしまい、意識が遠のく。
 だが答えはなく、相手は再びベータにかわった。その背後から小さく、別の男の声がする。
『そのように言うこともあるまいが』
 ジーンの声だった。
 どうやら、ベータとあの兄弟で飲んでいるらしい。自他共に認めるザルのベータも、網目さえないという噂のワク二人が相手では、泥酔するのも無理はない。
 ヤンは半ば虚ろな頭で「なるほど」と思いはしたが、それ以上は思考も言葉も続かなかった。

 気が付けば、いつの間にかコールは切れてしまっている。
 いくらなんでも、いきなり切ってしまうようなベータではないから、あれこれと言っていたはずなのだが、聞いた記憶もなかった。
(くっそぅ……、負けるもんかぁ、って、ああ……怒鳴ったからくらくらする……)
 ヤンは目を閉じて頭にまでシーツを引っ張り上げた。
 途端、今度はインターフォンが外来を告げた。
 居留守を決め込むが、
『ヤーン! お見舞いに来たんだな〜!』
 事の元凶がやって来た。すぐさま音声のみを繋いで一言。
「絶対に謝らないわよ!」
 怒鳴りつけ、ブラックアウトしかけた頭をおさえる。

『な、なにを怒ってるんだな〜?』
 怒鳴られて不安になったらしいことが、声で分かる。
「……なんでもないわよ」
 狙ってやっているわけではなし、ガンツはべつに悪くはないのだ。悪いものがあるとすれば、それは運だろうとヤンは諦めた。
 乱れている髪を手櫛で整え、ドアのロックを解除する。
 ドタバタとガンツが足音を立てて入ってきた。彼に、気遣いを期待するのは無駄だ。

「ヤーン、滋養にいい物をもって来たんだな〜」
 ガンツは手提げのバスケットを突き出して、誇らしげに胸を張った。
「意外だわ」
「僕だって日々進歩してるんだな〜」
「ちょっと見直したわよ? で、なんなの?」
「玉子酒なんだな! マンの風邪にはこれだと本に書いてあったんだな! これ飲んで元気だすんだな!」
 そう言ってガンツが出してきた物。

「……玉子、酒?」
「そうなんだな!」
 グラスに入った無色透明の液体に浮かぶ……いや、浮かんですらいない白い物体。
「ゆで……卵?」
「ち、違ったのかな?」

 おそらくガンツは、作り方まで知ったわけではなく、調べたわけでもなく、「玉子酒」という名前から連想したイメージを、忠実に実行したのだろう。
 それが、コレだ。
「卵は栄養食品なんだな。お酒は百薬の長なんだな。あわせれば無敵なんだな!」
 たしかにそれはそうなのだが、卵がゆで卵である必要は、ないのだ。
 だが、もし自分がなんの予備知識もなく「玉子酒」を作れと言われたら、どうするだろう。
 それを思うと、
「あ、ありがと」
 としかヤンは言えなかった。ガンツはガンツなりに、自分のことを思って頑張ってくれたのだ。責めるのは間違っている。ただ、間違いを訂正する気力は、今はなかった。

「思い切ってぐぐっといくんだな!」
「ぐぐっと、って」
 横目で見ても、じっくり見ても、白い物体はその形態を変えたりはしない。酒はともかくゆで卵をぐぐっといくのは自殺行為である。
「え、と……、そ、そうそう。実は今、薬飲んだばっかりなのよ。だからこれはもうちょっと時間たってからもらうことにするわ。ホントありがとね、たすかるわ」
 あわてて言うと、ガンツは少々残念そうにではあったが納得したらしく、
「わかったんだな〜。それじゃ早く元気になるんだな。そしたらその時に一緒に仕事するんだな」
 なんの邪気もない声で、嬉しそうに言った。
 早まって腹を立てなくて良かった、とヤンはほっとする。
「そうね。頑張るわ」
「それじゃ、また来るんだな〜」
 言うと、ガンツはバタバタと慌ただしく出ていった。

 再び静かになる部屋。
 少し前の状態に戻っただけだというのに急に静まり返ったように感じる。
(誰か他に来ないかな)
 ガンツが宣伝しまくったとすれば、誰か、心配して様子を見に来てくれても良さそうなものである。それくらいの友達はいるはずだ。
 だが、誰も訪れる気配はないまま、時が過ぎていく。
 ひょっとして、自分が思ってるほど、友達たちは自分のことを好きではないのかもしれない、などとブルーな考えが浮かんでは消える。
(あたいらしくない。あー、もうっ。こんなことで気弱になるなんて、それ自体あたいらしくないじゃないのさ!)
 ヤンはバカな思考を追い払おうと、強く目を閉じた。

 うとうととした頃、眠りの波を邪魔するように、再びインタ―フォンが鳴った。
「はーい?」
 見舞い客か、それとも別件か、と思いながらも、声を出してみる。と、
『フェンリルだ。見舞いというものをしにきたんだが』
 最近仲良くなった、白いヒューキャストの声が降ってきた。
 ガンツよりはマトモな相手である。
 彼もガンツから聞いたのだろうか、と思いながら、ガンツが出て行った後、ロックしていなかったことを思い出す。
「開いてるわ。入っていいわよ」
『分かった』
 その声を聞いてから背中を起こし、さっきより丁寧に、髪を整えた。

「風邪、という病気だそうだな」
 フェンリルが入ってくる。
 ヤンは、彼よりもまず、彼の持っているものに目を奪われ、硬直していた。
 小振りの花瓶に入った花。だが、
「見舞いに行くなら、花を持っていくといい、とラッシュから聞いた」
 そう言って差し出された花は、
「ウケケケケ」
 不気味に笑い出した。

 ダークファルスの影響をさほど受けずにすんだラグオル・リリーは、凶暴性や毒性は持たなかったが、半ば動物のようになってしまった。
 それが、コレである。
 まさかフェンリルがそんなものを持っているとは思ってもみなかったヤンは、なにをどう言えばいいのかも分からず、差し出されるまま受け取り、出窓に置いていた。
「鉢植えは駄目だというから、一輪ざしにした」
「あ……ありがと。寂しさがまぎれるわ」
 なんとも複雑な気分である。

「見舞い、というのはこれでいいのか?」
 どうやらフェンリルも、ガンツとは違う方向のボケキャストらしい。
 ヤンはまたしても頭痛を覚えつつ、彼に悪意はないのだし、と笑顔を作った。
「こんなものね。来てくれてサンキュ」
「そうか。ではな。早く治すといい」

 そうしてフェンリルが帰り、残った花の笑い声を聞きながら眠りに落ち……
「ウケケケ、ヒヒヒヒ」
 ……られるわけはなかった。
 寂しさはまぎれるが、気になって仕方がない。
 ヤンはベッドの上から無理やり手をのばし、半ばずり落ちかけながら、デスクの引出しから紐を取り出すと、花の口(?)をくくってしまった。
 口をとじられては高らかには笑えない。
 が、
「……ゲフ、グフ……グフフフフ」
 それはそれで気になる笑い方をされた。

 なんにせよ、コールがあったり見舞い客が来たりして、無理にでもいくらか動いたせいだろう。少しは体にも喝が入ったのか、健康的な空腹感を覚えた。
 だが、実は食べるものはなかったりする。
 今回の仕事が長丁場になりそうだったので、腐ってはまずいと食料は全て処分したのだ。といっても捨てたわけでは決してなく、食べきっただけだが。
 そういうわけで、現在冷蔵庫の中は空。
 加えて、さすがに外に買いに行く体力はない。行って行けないことはないだろうが、そのせいでまたぶり返してはたまらないのだ。
 とっとと治して、早いところベータの頭だけでも叩いてやらないと気がすまない。

 CCから注文することはできるが、緊急品でない以上、届くのはどんなに早くても明日になってしまう。
「はぁ……桃缶食べたい……」
 ヤンはテラにいた時、教会で育てられていた時代、一度だけ食べたことのある「桃の缶詰」を思い出した。
 テラには天然の果実など完全になくなってしまい、人工種子から遺伝子制御で育てられたものがいくらかあるだけだった。ヤンは、「果物」と言えば全てそんなもので、昔は天然に、ごく自然に育った樹木からとれたのだと知った時には、なにかの冗談だとさえ思ったものだ。
 なんにせよ、人工桃でも、オリジナルに近い「準天然」ものは高級品だった。
 あのうらぶれた教会では、「準天然」の桃の缶詰は、百年に一度あるかないかのご馳走だったのだ。それぞれに一口しか分け前はなかったが、粗悪な人造品とは比べ物にならない美味しさだった。

 などと思い出してしまって、口の中には唾が溜まったが、口にできるものは一つもない。
 と、目に入った一つのグラス。
「……栄養食品」
 背に腹はかえられない。
 ごそごそと起き出して、キッチンからとってきたフォークで、グラスの底に沈んだゆで卵をサルベージ。
「ガンツに感謝、かな。にしても……」
 グラスに入った酒は、意外によく冷えていたりする。
 発熱、空腹、喉の乾き……。
 卵をかじり、グラスの中の液体を半分ほど。
 つい、一気に。
「………う」
 当然といえば当然だが、ヤンは派手な音を立てて床に倒れ込んだ。
 薄れゆく意識の中で、誰かがいるような気がしたが……暗転。
 真っ暗な闇の中である。

→NEXT