脳味噌が渦を巻いているような感覚。 誰かが自分の名を呼んでいるような気がするのだが、気のせいなのだろうか? (あううう、ガンツの、バカ……大バカ……っ) ぐるぐる回る感覚に横揺れが加わる。 どうやら、誰かに揺すられているらしい。 そう気付くと同時に、意識が急速浮上した。 「ヤンさん大丈夫ですかー?」 「……ん?」
薄目を開けると、一人のハニュエールの顔が見えた。 「……あ、ラルムちゃん」 「にゃー、気がつかれたのですねー」 心配そうな顔が、ぱっと笑顔に戻った。 「どうしてここに?」 「ごめんなさいですー。勝手に入っちゃいましたー。でもでも、外でピンポンならそうとしたらすごい音がしたですから」 どうやら、ほとんど時間はたっていないらしい。 「え……と、あたい、どうなってた?」 「両手にグラスとゆで卵もって真っ赤な顔で床に倒れてましたー。風邪ひいてるのにお酒はメ! ですよ〜」 なんて無様な格好だっただろう。ヤンは心底、ここに来たのが減らず口叩きまくりのベータや根性の悪いガッシュでなかったことに感謝した。
「う……だって、他になかったもんだからつい」 言い訳すると、ラルムは目を見開いた。 「なんにもないですか!?」 「ええ……まぁ、ちょっと事情があってさ。実はこれもガンツの差し入れなの」 横目で見下ろす、床にこぼれたお酒と落ちたゆで卵。 (もったいない) 自分の軽率な行動を呪うが、その教訓を活かす「次回」は、できるなら作りたくはない。 「はう〜……。お酒と、ゆで卵ですかぁ。すごい差し入れです〜。あ! 私も持ってきたです!」 「ゆで卵?」 つい反射的に尋ねるヤン。 「はう! 違いますー!」 まさかそんなわけはない。
ラルムはデータバッグからポーチを取り出し、ごそごそと口を開くと覗き込む。 「んとですね、桃のカン……」 「ラルムちゃん!」 「は、はい!」 「あんたが女神様に見えるわ!」 感極まったとばかりに抱き付くヤン。 「ひゃ!? ど、どうしたですか!?」 「うっ、ううん、なんでもないわ! と、ごめん、汗臭いかも」 すぐさま離れ、鼻を鳴らす。眉間に皺を寄せながら。
「やっぱお風呂入りたい……」 「お風呂も駄目です! 私が風邪ひいた時も、父様、絶対許してくれませんでした!」 桃の缶詰片手に、力説するラルム。 「あ、そうだ。これ、父様が持っていってあげなさいって〜」 缶詰はヘッドボードへ。そしてポーチの中からは、栄養剤と解熱剤らしい、ショットスタンプ(簡易注射器)。 常識のある人間の存在がつくづくありがたくなったヤンだったが…… 「で、父様もお見舞い、来たかったそうなんですけど、お仕事忙しくて〜」 ラルムにはどんな悪気もないのは分かっている。 分かっているし、だからべつに、怒るとか腹が立つとかいうのではない。 ただ、「父様」という言葉を繰り返されると、なにかが胸につかえたように、少し息苦しかった。
(ダメだわ。あたい、本格的に弱気になってるのね、これ) もし自分に、本物でなくてもいい、父と呼んでいい人がいて、彼がここにいてくれたなら。 ずっと幼い時ならばともかく、もう長いこと、考えたこともなかったことだ。 そんな存在のいるラルムが羨ましくて、不覚にも涙が滲みそうになった。 いつもなら、絶対にないことだ。 ヤンは慌てて、意識と話題を切り替える。 「ラルムちゃん、あんまりあたいの近くにいると風邪うつっちゃうわよ? はい、マスク。この部屋の中、たぶん風邪のバイキンだらけだから」 「バイキンだら……はう!」 どうやらラルムは、目に見える大きさのバイキンが部屋中うようよしている光景を想像したらしい。 いそいそとマスクをつけると 「缶詰、今食べられますかー?」 ポーチの中から缶切りを出した。
皿を二つ。缶詰は、とりあえず一つ。けれど他にまだ三つ。 缶の中から艶々とシロップに濡れ光る桃を取り出し、半分ずつ、皿に乗せる。 「一つは私の分なのでぃす!」 ラルムは嬉しそうに皿に盛って、 「できましたー!」 一方の皿にフォークを添えて、ヤンの前に差し出した。 食べてれば幸せとばかりに桃缶を食べる二人。 「ねえ、ひょっとしてこの缶詰……準天然?」 味の濃さと瑞々しさは、ヤンの記憶にあるどんな桃とも違う。記憶の中で美化されている、ずっと昔の桃缶の味とオーバーラップする。 「ん〜、父様が持っていきなさいってくれたですから、私よく知らないです〜」 また「父様」が飛び出して、ヤンはすんでのところで、溜め息をつくのをこらえた。
だがラルムは気付いてしまったらしく、そしてヤンの心中も察したらしく、突然、しょんぼりと小さくなる。 「ご、ごめんなさいです……」 「ううん。謝んなくたっていいわよ。たださ、いいなー、と思っただけ。こんな情けないの、あたいらしくないわよね」 「それは違うです!」 努めて明るくヤンは言い、ラルムはいつになく強く、それを否定した。 「私は、もし父様がいなくなって一人ぼっちになったら、寂しくて仕方ないです。父様とか母様と一緒にいる人見たら、羨ましくって我慢できないです。う〜……うまく言えないですけど、そういうこと思ったって、らしくないってこと、ないです。んと、んと……、だったらヤンさんらしいっていうのは、そういう気持ち、全然ないことになるですし、そんなの違うですから」 必死に説明するラルムを見ていると、ヤンの心は少し軽くなった。 少なくともここに、いろいろと心配してくれる友達がいるということ、これは間違いないことなのだ。
「ん、そうだね。あ、そうそう、これ、もう気付いてると思うけど」 ヤンは出窓から花瓶をとった。 フェンリルの置いていった笑う花である。 「フェンリルさんですかー?」 「あ、知ってるの?」 「うちにもあるです。あの……持ってきてくれたですから」 ラルムが言いよどむところから、届けられた相手はラッシュなのだろうと察する。しかしそのことには気付かないふりで、 「たくさん育ててるのかしらね、これ」 「グフフフ、フフフフフ」 動かされて、また頻繁に笑い出した花を眺める。
「あ、そーです。ちょっと待ってください〜」 ラルムはなにかを思いついたらしく、ポーチをあさり、そこから一本の薄いレースリボンをとりだした。 「グフ……プフ、ウケケケケ……グフェ、グフ、グフフフ……」 紐を解き、かわりに空色のリボンで茎を巻き、口を封じる。そして、鼻(?)の上で可愛らしく蝶結び。 「ぷ!!」 紐ではなく、ヒラヒラフリフリのリボンで口を縛られた花がクネクネと動いている。 「オシャレしてみたです!」 「あはははははは!」 大笑いするヤン。アルコールもまだ残っているようである。 「ははははは……はぅ」 バタン。 再び暗転。
目が覚めると、 「大丈夫ですか?」 いきなり、男の声がした。 ぎょっとして胸を押さえ、跳ね起きる。途端、ぐらりと世界が揺れた。 「ほら、寝ていてください」 黒く大きく、硬い手が、思いのほか優しく、肩をとる。 「あ、レイヴン……」 「すみません。お見舞いに来たんです。ロックは外れているし、万一のこともあると思いましたので」
「あれ? ラルムちゃんは?」 「私が来た時にはいませんでしたよ。ただ、これが」 レイヴンがテーブルから一枚の紙片をとった。 『ファイトでぃす!\(>∇<)/』 丸っこい字で、大きくそう描いてある。 思わずヤンは笑ってしまった。 「あ、ここに出ていた缶詰、冷蔵庫に入れましたよ。それから、もう、冷蔵庫の中、空っぽじゃないですか。適当に買ってきましたからね」 「あ、ゴメ。サンキュ」 たぶん、この調子で毎日、兄二人の面倒も見ているのだろう。
いつの間にか部屋は片付いているし、窓も開けてある。出窓の笑う花はなくなっていたが、隣の部屋から、微かに高らかな笑いが聞こえてくる。 「花、あっちに持っていったの?」 「ええ。うるさいなら、口を塞ぐより置き場所を変えたほうがいいでしょう? あの花がどうかは知りませんけれど、息苦しそうで、可哀想ですし」 「それもそうね」 呼吸困難で枯らしてしまっては、フェンリルに悪いかもしれない。しかし…… 「リボンは?」 せっかくのオシャレだ。外してしまうのはもったいない。どうしたのかと問うと、あっさりと。 「かけなおしておきましたよ。見ますか?」 そして見せられたのは、喉元に蝶ネクタイのようにリボンをあしらわれた、やけに上機嫌な花の姿だった。
居間から台所から、レイヴンはさっさと片付け、掃除していく。 ヒューキャストをやるより、家政夫でもやっているほうが似合いそうである。ただし、あの体格でさえなければ、だが。 「なにか食べますか?」 ぬっと黒い頭が覗く瞬間は、あまり心臓に良くない。見慣れているヤンであれば「ああ驚いた」だけだが、見慣れていない赤ん坊は、これでひきつけを起こしかねない。 「んー、軽いものなら」 「じゃあ、スープでも」 その頭が引っ込んで、静寂。
一番マトモな、というか、役に立つ見舞い人がきてくれたことは、間違いないようだ。 ヤンはほっと安心して、枕の位置をなおし、目を閉じる。 夢うつつで微睡んでいると、やがてドアが開き、スープの香が漂った。 桃で少しは空腹も満たされていたが、暖かいスープはじっくりと体に染み込んでいくようで、心地良かった。 味見のできないアンドロイドが作ったとは思えないほど、味も普通だ。 きれいにたいらげて、大きく息をつく。 もうだいぶ熱も下がったらしい。 「ありがと。美味しかったわ」 「どういたしまして」 たぶん、笑ったのだろう。なんとなくそんな気配を感じた。
が、問題がなかったのは、そこまでだった。 「うー、汗でパジャマべたべただわ……」 とヤンが呟いたのが、間違いだったのだ。 「そうですか?」 と言ってレイヴンが出て行き、戻ってきた時には、手に湯気の立つタオル。 まさか、とヤンは無意識にパジャマの襟元を掴む。 そして思ったとおり。 「拭いてあげますから」 何事でもないかのように、 「脱いでもらえますか?」
(っだぁ〜〜〜〜〜ッ!!) 「いっ、いいっ、いいのよっ!!」 いくら相手がアンドロイドとは言え、ヒューキャスト。 生物学的な違いはないとしても、ヒューキャシールやレイキャシールではなく、ヒューキャスト。 鉄の塊と思うにはあまりにもリアルに人間的すぎる、アンドロイドたち。 しかし、いかに高性能とはいえ、「ヲトメの恥じらい」を理解するほどナマっぽくはないのか、 「寝苦しいんでしょう?」 気遣うなら、もう一歩先まで気遣ってほしいものである。 ヤンはなんとかレイヴンを追い返して、くたくたとベッドに崩れ落ちた。 せっかく引いたはずの熱は、また上がったようである。
人が来れば来ただけ、どうも最終的にろくなことにはならない気がして、ヤンは、もう誰も入れないでおこう、と決意する。 しかし決意してみれば、ユーサムからはレトルト食品を詰めた箱が、ジーンからは何種類かの薬が電送されてきただけで、来客はなかった。 いつの間にか日も沈んでいる。 あまり安静とは言えない1日だった。 だが、思い返してヤンは、なんだか良い1日だったとも思った。 (持つべきものは気のいい仲間、かな?) まだ頭が重くはあったが、気分はだいぶ晴れた気がする。 「ふふ……。明日には治ってそうな気がしてきたわ」 ベッドにもぐり、目を閉じる。 静かに身を包む眠りの膜に身をまかせつつ、今日を振り返る。 (皆に感謝よね。風邪が治ったらお礼言いに行かなきゃ。そうね、とりあえずベータは蹴っ飛ばしてやんなきゃ。それから………) 考えているうちに、気が付けばヤンは夢の中にいた。
(おしまい♪) |