Lost Garden

 突然泣き出したフォニュエールの気持ちは、ベータにも分かった。
 これは、そういう景色だ。
 あまりに綺麗で、幻想的で、平和で、優しい。
 永遠に終わらない気もする戦いの日々に荒れた心に、その光景は優しすぎて、酷だった。
 俺が女ならやっぱり泣いていただろう。
 あるいは、もう少し楽な人生を送ってきていたら。
 そう思うと、隣で嗚咽を殺しているヒューマーを、情けないとは思えなかった。

 数日前から、ベータたちの部隊は、地割れによって分断された進行ルートに替わる迂回ルートを探していた。
 底も見えない地割れの向こうの窪地に、甲殻哺乳類と思われる中型エネミーの群れが確認されている。レーダーに検出されるだけで、その数はおよそ200。
 まだ確認されていないおとなしい生物ならば良いが、行動パターンや周辺のフォトン相から判断して、バートルと名づけられた変種のエネミーである可能性が高かった。

 バートルは背に頑強な甲羅を背負い、2mを越える図体で、人が走るのと大差ないスピードで地中と地上を移動する。
 地中を移動できる以上、地割れなど関係ない。
 いつ何があって、その大群が人間の生活圏に押し寄せてくるかは分からない以上、討伐しないわけにはいかなかった。
 昼の日差しすら折り重なる木々に遮られて届かない、鬱蒼とした暗がりの森に分け入ったのは今朝。
 木立の陰や樹上、茂みの中から襲い掛かってくる獣、小川の中にひそんだ大型のヒルに似た虫、毒を持つ、鳥のような大きさの羽虫。そういった細かな襲撃者を蹴散らしながら半日ばかり進んだところで、森を抜けた。

 途端、圧倒的なほどの光に包まれた。
 そこには、薄紅色の花の絨毯が地平線まで広がっていた。
 といってもそこは丘の上で、地平線とは丘の稜線に他ならない。
 そのラインがあまりにも足元近くにあって、ほんの少し視線を上げるだけで、見えるのは霞がかった柔らかい色彩の、はるか彼方に果てしなく広がる、真っ青な空だけだった。

 その広大な空間に引きずり出されるようにして、自分の中に溜めてきた鬱屈が一気に溢れ出す解放感は、すぐに奇妙な切なさに変わった。
 その瞬間に自分の中に湧き出した言葉を、ベータは自覚していた。
(帰りたい)
 何故かも、何処へかも分からないのに、苦しいほど強く、その言葉だけがバーストし、掻き消えた。

 小柄で、ベータと並べば脇までもない、まるで少女のようなフォニュエールの泣き声が、花の中に途切れなく、微かに続く。
 背後で誰かが舌打ちしたが、なじる声は上げなかった。
 情けなく泣き出して緊張感を台無しにすることに苛立つと同時に、泣くことのできる彼女を羨み、しかし泣かせてやりたいとも思い、引きずられそうな己を叱咤する。
 いくらか人間的な感情を持ったままここにいるなら、それは誰しも感じることではないかと思えた。
 外には出さず、ベータは心の中でだけ溜め息をつく。
 その理由、そこにある感情は判然としない。
 ただなんとなく、いっそ殴り飛ばしてその痛みで奮い立たせてほしい崖っぷちで、背を撫でて宥められたような悔しさと遣る瀬無さ。
 あるいは、二度と帰ることのできない故郷に抱く、郷愁。
 そんなもののような気はした。

 吐息につられて俯く。
 その目に、エネミーの体液と泥や埃にまみれた自分のアーマーが映った。
 もう一度、前に広がる光を見やる。
 照らされても、汚れが落ちることはない。ただ際立つばかりだ。
 汚れた体に、光は眩しすぎる……。

 物思いに耽りかけ、ベータは一つ頭を振った。
 ウェットな感情が戦場で良いものを運んできた試しはない。
 クールかホットか、ポジティヴかネガティヴかは構わないが、ドライであったほうが良いことだけは確実だ。
 さもなくば、危機に直面した時、そこから抜け出すことはできない。
 それはベータが十年以上に渡るハンターズ生活で得た、彼なりの持論だった。

 花を踏むことに躊躇いはあったが、ベータはその花の中を丘の頂上にまで進んだ。
 そこからは、傾斜が深くなる次の稜線、地平線まで続く、花の大地が一望できた。
 薄紅色の、五枚の花弁を持った花の群れ。
 その中に混じっている、淡い紫や白い花。
 それらの葉や茎の緑。
 害意のない小さな虫が、なんのつもりか、しきりに花と花の間を飛び回っていた。

 漠然とした、しかし津波のような感情を押しとどめ、頭の中に「言葉」を作る。
(あいつにも見せてやりたい)
 そうしっかりと唱えると、制御しがたいほどの感情の波は引いていった。
 クリアになった思考で、ゆっくりと考える。
(今日のメールにはこのことでも書くかな)
 唇で笑みを形作る。
 そうすると、自然に吐息が洩れて笑いになった。

「すごいな、これは」
 いつの間にか隣に来ていたカルマが呟く。
「シティ周辺じゃ見ない花だ」
「ああ。この辺まで学者が入ってこれるようになれば、名前もつくんだろうが……」
 なんにでも名前をつけて、自分たちのものにしようとするような学者たちのやり方は、本当は好きではない。
 だがそんなことを言えば、律儀なカルマは適当に流すこともできず、返答に窮するだろう。
 ベータが言葉を飲み込んでいることに気付いているのかいないのか、カルマはその場に片膝をつき、薄紅の花を一輪折り取った。

 花を見つめて、沈黙が落ちる。
 アンドロイドの感情は分かりづらい。
 表情のない彼等は普通、音声と仕草によってしか己の感情を表せないものだ。
 だが付き合いが長くなると、なんとなく分かるようになる。
 カルマとはテラにいた時からの知り合いで、かれこれ五年越しの付き合いになる。
 今彼が何を思っているのか、見当をつけるのは容易だった。

「送れるなら送ってやりたいもんだな」
「え?」
 ベータが言うと、カルマは花から視線を上げ、立ち上がった。
 その手にある花を奪って、鼻を近づける。
 少し鼻腔に絡む甘さだが、香水のようなしつこさはない、いい香だった。
「これだけ派手に咲いてるんだ。少しくらい摘んだっていいだろう。こう、腕一杯くらいの花束にして。そうすれば少しくらいはいい雰囲気になれると見た」
 その花束のスケールを示して、ベータは腕で輪を作って見せた。

 そんな大きな花束をいったい誰に送りたいと言っているのか、分かるのに充分な予備知識はあり、呆れたカルマが笑うのが分かった。
 だが、たとえ部屋を埋め尽くすほどの花を贈っても、そこにある意図自体に気付かない相手だ。
「無駄だと思うがな」
 とカルマが言うのはもっともで、そんなことはベータも承知している。
 感情の呼吸を見計らい、
「あいつも好きそうだろう。送ってやりたいとか思わないか?」
 そう言って顔を向けた。
 この花を見てカルマが何を思っていたか、束の間の沈黙が、ベータの読みが当たっていたことの証だった。
「……まったく、適わないな」
 吐息の混じったような声で呟き、カルマは笑ったようだった。

 誰から言い出すでもなかったが、いつの間にか、今日はここで野営することが決まっていた。
 進もうと思えばあと二時間程度は進めたが、そうするには、誰もが花に煽られ噴き出した己の感情に疲れ果てていた。
 せめて今夜たけでも。
 たとえ気は抜けなくても。
 稼動して十年はたっているかと思われるレイキャシールが、フォニュエールを気遣って……気遣うふりで、今日はここで休みましょう、といった一言が全てだった。


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