トーリンはそれを見た瞬間に、一歩二歩、後ろへ退いた。
「フィーリ! なにしてんだよ馬鹿!!」
 キーリが怒鳴る。
「そいつを置いて、すぐここに来い!」
 トーリン。
「フィーリ!!」
 二人。
「フィーリッ!!」
 もう一度。

 フィーリは笑ったようだった。
 そしてふわりと左手で白い光を放り上げた。
 転瞬。
 右手が雷光のように疾り、彼の胸の前で、光は花火のように飛び散った。

 きらきらと、名残の炎が落ちていくように、小さな光の雨が降る。
 ちりちりと、涼やかな音色。
 そして微かに、
「すみません、伯父上。壊してしまいました」
 悪いと思っているようにはとても聞こえない、フィーリの明るい声がした。

 糸が切れたように座り込んだトーリンの頬と言わず首と言わず、そして衣服の下の胸にも背中にも、どっと汗が湧き出し、滴った。
 キーリはよろめいて一歩下がり、尻もちをついた。
 二人のところへ、フィーリはいつもと少しも変わらない足取りで戻ってきた。
 そして、
「伯父上の定められた法では、この廊下に踏み込む者は殺して構わないであって、殺せではありません。それから、あれを持ち出した者は死罪ですが、俺は部屋の外へ持って出てはいません。壊した者についての言及はありませんでしたが、この場合俺は、どうなるんでしょうか」
「こ、の……ッ」
 馬鹿者、という大音声に、ごつっと鈍い音が重なった。
 狭い部屋の壁にまで吹っ飛んだフィーリは、
「あったた……。つまり、王の鉄拳に、歯が一本?」
 ぷっと、赤く染まった白い歯を吐き出して手で受ける。
 立ち上がったトーリンはぶるぶると震えていた。心なしか髪の根が逆立ってさえいるようだ。
 今度こそ顔は真っ赤に膨らみ、これを見ればスマウグは素直に出て行ったんじゃないかと、後になってキーリは言った。
 その、竜さえ尻尾巻いて逃げ出しそうなトーリンの前で、フィーリはバツの悪そうな顔をするだけだったが、その顔が急に冷たいほど整うと、挑戦的に変わった。
「伯父上」
 口の中を舌で舐め、フィーリが言う。
「伯父上が怒っているのは、なにに対してですか? 俺が危険なことをしたからですか? それとも、俺が貴方の大切なものを壊したからですか」

「!!!!」
 犬が水を振り払うような、大きな胴震いが一つ、トーリンの身に起こった。
 キーリは、己のまったく知らぬ者になった兄を見やって、途方に暮れていた。
 二人して悪戯もしたし、軽率だと怒られることも数えきれず、けれどフィーリトーリンに楯突くようなことは決してなかった。(たぶん、エスガロスの桟橋が初めてではなかったろうか) キーリが食って掛かることはあっても、フィーリは必ず聞き分けたものだ。
 フィーリ、と呼びたいが、キーリの喉はよじれたようになって声が出なかった。
 もうやめて、と言いたかった。
 なにをやめてほしいのかはキーリにも分からない。
 けれどもうやめてほしい。
 いつものフィーリに戻ってほしいのだ。
 トーリンが一歩前へ、フィーリに向かって踏み出すと、キーリは反射的にその背中に飛びついた。
「待って! 駄目です、フィーリを……! お願いです、お願いします!!」
「放せ!」
「お願いです! フィーリ、フィーリももうやめてくれよ! なんでこんなことしたんだよっ!? フィーリッ!!」
 トーリンの背中にかじりついたまま、キーリが叫んだ。

 フィーリは壁に背をつけて立ち上がると、滲んできた口の端の血を拭う。
 そして、憤怒するトーリンの前にまっすぐ立ち―――いつものように、愛嬌のある垂れ目を細めて微笑んだ。
「"なんで"? なんで分からないかな。簡単じゃないか。大事なものを守るため。それだけだ」
 そうして一歩進んでトーリンとの距離をなくすと、その背にしがみついている弟ごと、そっと抱き締めた。

 

→つづく