集まったドワーフたちの力で、エレボールの再建はめざましい早さで進んでいた。昨日は崩れた岩肌だったところが、今日には美しい大理石の傷ひとつない壁に変わる。折れた柱は以前よりも荘厳に削り上げられる。さっそく槌音が響き、坑夫は穴蔵にもぐりこむ。
 しかしトーリンは、宝物部屋を三つと定めていた。
 一つは、緊急時のための蓄え。天災など不測の事態で大金が必要になったときのためのものだ。
 一つは諸国に送る贈り物や、先方から貰った品を納める、いわば陳列室。
 そしてもう一つは、日々出し入れの発生する金庫のようなもの。
 彼は、これ以上の宝は蓄えないと決めたのだ。
 それにしたって広大な部屋ばかりで、素朴な町、貧しい国からすれば目の玉が飛び出るような光景だろうが、少なくとも彼は、祖父の轍は決して踏むまいと、具体的な方法で己を戒めることにしたのである。
 そして、宮殿の最も奥には、厳重に封印された小さな部屋ができていた。
 "石の間"だった。

 そこにあるのは、ドワーフの技巧からすると質素で地味すぎるような石台が一つと、その上に乗せられた小箱が一つ。
 その箱の中には、ダイヤのような、真珠のような、それとも星明かりか乙女の涙でもあるような、白く大きな石が封じられている。
 アーケン石である。
 トーリンはこれを、打ち砕き捨てようかとまで考えた。
 この石は美しく、なにかの加護でもあるかのように富をもたらすが、同時に持つ者の心を惑わしもするという。勇敢なるホビット、ビルボがスマウグから聞かされた言葉を信ずるなら、これにはそのような力があるらしいのだ。
 良きものと見せかけて誘い、知らず知らず破滅に陥れるのは悪しき者の最も好む手口で、ともするとこの石は、尊い恩恵などではなく恐ろしき災禍ではないかと思ったのだ。
 だができなかった。
 富は、正しく使えば人を潤すものである。多くの財は、多くの者を幸福にできる。
 それとも、そう思うこと自体が実は、財宝に執着する己の悪心、富を手放さぬための単なる言い訳なのか。
 迷い、悩み、決めかねて、トーリンは封じることにした。
 まだ手元には置くが、取り出して眺めるようなことはしないと決めたのだ。

 トーリンは石の間を嫌っている。
 アーケン石が恐ろしいのではない。
 その石に惑わされる弱き己を恥じるからだ。
 そして、深く恥じ入るにも関わらず、あれを見、手にすればやはり欲望に囚われそうな己がたまらなかった。
 石の間に近づく者があれば、それが誰であれ―――王であれ―――殺しても良い。
 それがトーリンの定めた法である。

 エレボールの復興にあたって、真っ先に作られた石の間は、それから半年の間、誰一人近づく者もなかった。
 衛兵たちは二人一組となり、石の間に通じる長く狭い廊下の一端に佇む。廊下に踏み入ることは許されていない。彼等のいる小部屋の、石の間とは逆側もまた、狭く長く脇道のない廊下につながっており、その先にも兵がいる。
 交代のときに行き来があるだけで、ここには決められた者以外、まったく訪れることがなかった。

 石の間の番兵というのは、退屈な仕事である。
 彼等はそこにあるものの詳細を知らされぬまま、むしろ災いだと思い込まされて、それを守っている。近づく者は王でも殺して構わぬなどという恐ろしいものを背にし、軽口を叩くのは難しい。
 ほとんど黙ったままで四半日もただ立っているのは、短気なドワーフには相当な苦行だった。
 彼等が待ち望むのは、交代の時間だ。

 こつこつと石畳を歩く音が聞こえる。
 待ちに待った交代要員である。右側に立つ若い兵士は、
「よう! やっと」
 やっと来たか、と言いかけて、手を半ばまで上げた形で固まった。それは左側にいる年嵩の相棒も同じだった。
「こ、これは失礼をいたしました!」
 二人は慌てて姿勢を正し、長柄の斧を己の前に立てる。
「まさか、殿下がこのようなところにお越しになるとは思いもせず……」
「気にするな。それより、ちょっと通してもらうぞ」
 ゆるく波打つ金色の髪をした第一王子は、人懐っこい垂れ目でにっと笑い、すたすたと歩き出した。
「え!? いや、しかし、ここは」
「ん? ああ、大丈夫だ。問題ない」
 まったく屈託のない気さくな笑顔。
 番兵たちは顔を見合わせて、なにか特別なご命令でもあったんだろうかと考えた。
 なにせ相手は次代の王である。

 深いブルーのマントを羽織った背中が、長い廊下を進み小さくなっていく。
 やがてその姿は、行き止まりにある石の扉に辿り着いた。
 遠くからでははっきりしないが、彼が少し動くと、両開きの重い扉が内側へ向かって開き、低い音と震動は彼等の足元にまで伝わってきた。
 国を滅ぼすほどの災いを封じた、王であれ禁足とした場所。
 本当に、良いのか?
 二人はびっしりと冷たい汗をかき固まっていたが、我に返ると転がるように走りだした。
 決められない。
 一介の兵である自分たちに決められることではない。
 彼等はわめき声を上げながらもう一つの長い廊下を走り、届くはずもないとは承知でも、陛下、陛下と繰り返し大声で呼ばわった。

 石の間の変事を耳にしたトーリンは、取り掛かっていた執務を放り出して走った。
 邪魔な冠を脱ぎ落とし、ばたばたと足元にまとわりつく長いコートも放り捨てる。そうなると彼の突進は怒り狂った猛牛のようなもので、うっかりぶつかった給仕は跳ね飛ばされて壁に叩きつけられた。
 血の気の多いトーリンは、怒ると真っ赤になる常だが、そのときは真っ青になっていた。
 角を曲がりきれず、壁に体を叩きつけて無理やり止まる。途中で合流したキーリは、瞬きも忘れた伯父の顔を見て、彼もまた青褪めていた。

 当番兵たちは呆けたように立ち尽くしていた。
 止めもせず通してしまったことが死に値するかもしれぬと思うと、もう既に死んだような心地だった。
 トーリンにとっては彼等などいないも同然だった。誰の責だなどといったことはちらとも頭に浮かばなかった。
 フィーリの背中が、灰色の小さな部屋の中に見えていた。
「フィーリッ!!」
 廊下の一端でトーリンが叫ぶ。キーリは走ってきた勢いを止めそこねてトーリンの肩にしがみつくようになり、彼の肩越しに自分の兄を見た。
 呼ばれたフィーリは、まるでいつもと変わりなく振り返った。
 その手には、遠目に見ても分かる麗しい白光があった。

 

→つづく