【一人の魔法使い】
薪の爆ぜる音で目が覚めた。 真っ先に感じたのは背中にあたる固い寝床で、身じろぐと、途端に体中が軋み痛んだ。 「気がついたか。寝ておれ」 枯れた声がして頭だけそちらに向ける。焚き火の傍に、垂れ下がった眉と長い顎鬚の老人がいた。 彼は節くれだった細い指に木の枝を持ち、それで火の加減をしていた。 そこは薄暗い岩穴の中だった。 「……貴方が助けてくれたのか」 トーリンが問うと、老人はあまり感情のうかがえない目をじっと注いだが、 「もう少し遅ければ、凍え死んでおったろうよ」 白い髭の中で口を動かした。 トーリンは大きく息をつき、己の命のあることに心からほっとした。 他種族をあまり好かないトーリンも、今このときには心底からの礼が口を突いた。 「感謝する。私はトーリン。エレド・ルインに住むドワーフの眷属だ」 起き上がることは、止められたとおりにしなかったが、できるだけ礼儀正しく挨拶し、軽く顎を引く。 しかし相手の老人は「ふむ」と言ったきり名乗ることもない。こちらが名乗ったのだから、そちらも名乗るのが礼儀だろう。トーリンはいささか不愉快を覚える。しかし命の恩人に食ってかからないだけの分別はあった。名乗りたくない事情があるのかもしれないと己を納得させ、問わないことにして頭を地面に戻した。
目を閉じると、風の唸る音がする。 もしまだ雪が降っているのであれば、外は吹雪だろう。 老人が助けてくれなければ、彼の言うとおり死んでいたに違いない。 しかし、生きている。 生きていると思うと、体が痛むことすら愛おしい。 これで帰ってやれる。 妹と、可愛い甥たちに会うことができる。 だとすれば、この無愛想だが親切な老人に、なんの礼もせぬわけにはいくまい。 今夜彼が拾ってくれたのは、打ち捨てられて惜しくもない戦士の命ではなく、もっと大切なものなのだ。
「ご老人。おぬしは誰で、何処に住んでいる。答えたくないならば無理には聞かぬ。ただ、できれば私は、助けられた礼をしたい。今は持ち合わせもないが、山に戻ったらなにがしかの礼を贈りたいのだが」 トーリンが言うと、老人はまた「ふむ」と髭を動かし、こう名乗った。 「わしはサルマン。オルサンクの塔に住んでおる」 思わずトーリンは右肘を突き半身を起こした。 ただの人間かと思えば、魔法使いであったとは。しかも、サルマンと言えば白の賢者。この中つ国にあって最も偉大なる魔法使いではなかったか。 トーリンは、魔法使いというものも好きではなかった。これまで会ったこともなければ付き合ったこともないのに何故か、胡散臭く信用のならないもののように思っていたのである。 しかし実際のところそこにいる老人は、愛想はないしなにを考えているかは分からないが、想像していたほど胡散臭くは見えなかった。
「そうか……」 呟いてトーリンは、高名な魔法使いが欲しいと思うような品などあるのだろうかと困惑した。 するとサルマンは、相変わらず無愛想な声で、 「礼など要らぬ。そなたがわしに贈りうるもので、わしが望んで手に入らぬものはあるまい。だが、是が非でもと言うならば、邪魔にならぬ小物の一つでもくれれば良い」 こちらを見下したその言いようは気に入らなかった。たとえ事実でも、そんなことは言わずにおいても良いではないかと思うが、腹を立てることはできない。それに譲歩はしてくれた。感謝の気持ちまで冷たく払いのけるような人ではないらしい。魔法使いというのは、やはり偏屈なのだ。この答えで満足する他あるまい。 「では、その長衣に似合いそうなブローチなりとも作って贈らせていただこう」 トーリンが言うと、サルマンは「楽しみにしておる」と言ったが、とても楽しみなようには聞こえなかった。
しばし体を横たえ休んでいる間に、四肢の疼きは和らぎ、傷の痛みも薄れた。 見やればそう遠くないところに岩穴の入り口は見えていたが、荒れ舞う雪が入り込むことはなく、風が吹き付けることもない。魔法なのだろうか。 「明け方にはやむ」 唐突にサルマンが呟いた。 唐突ではあったが、トーリンにとっては今夜の内に尋ねるはずだったことの答えでもあった。 偶然だろうか。 分からない。 トーリンは起き上がり、座ったまま手や足を少し動かしてみた。サルマンはなにも言わなかった。これもまた魔法に違いない。あれだけの傷の痛みや疲労は、普通であればこうも早くなくなりはしないだろう。 少し腰の位置を移し、岩壁に背を預ける。 寒さを感じて近くを見回すと、破れた外套や上着がそこに畳まれていた。手当のため、下に着込んでいる薄物一枚になっていたのだ。武具は発つ前で良いとして、ともかく今は上着だけでも身につける。火の傍、魔法使いの傍には近寄りがたかった。
沈黙の内に時が流れた。 トーリンはその間に、座ったまま二度ばかりの短い眠りを過ごした。 やがて風が弱まり、薄金色の光が表の雪を照らした。 魔法使いは水も使わず踏みつけることもなく焚き火を消すと、 「ではな」 と、長い杖を取って身を屈め、岩穴を出て行こうとした。
「待ってくれ。白の賢者、サルマンよ」 その背をトーリンは呼び止めていた。 雪に映った眩い朝日の中、振り返ったサルマンの顔つきはまったく分からない。 サルマンが仮にも賢者と呼ばれる者ならば、その智より生まれるなにがしかの助言をもらいたかった。頭を下げて教えを請うのは苦手だが、己の来し方、行く末を思う今、ささやかな自尊心を捨てるのはずいぶんと容易だった。 「教えてくれぬか。王とは、どうあるべきだ。なにを見、なにを聞き、どう考えて、いかに道を見出せば良い?」 トーリンは尋ねた。 不躾な願いにサルマンはしばらく黙っていたが、 「国なき民の、小さき王よ。なにに惑う」 そう問い返してきた。
「私には分からぬのだ。どうすれば良いか、どうすべきか。右の道と左の道、どちらを取るべきか。だが私が選ばねばならぬ。それを選べるのは王だけだと。だが私には、どれほど考えても正しい道が分からぬ。そしてもし誤れば、多くの民が苦しむことになる」 祖父の選択、父の選択。それらを思い返してみても、正しかったのかどうかが分からない。モリアの坑道を奪い返したのは正しかったのか。そのために払った犠牲に見合うだけのものだったのか。王を失い、数多の戦士を失っただけの価値があるのか。 では、エレボール、かの地は。奪い返さねばならぬと皆言うが、それが叶うとは思えない。これという手立てもない。にも関わらず挑むのが正しいのか、それとも、いくらかの者が言うように青の山脈に安息の地を見つけたことで良しとすべきなのか。我が甥のようにエレド・ルインに生まれた者にとっては、エレボールなど異国であろう。それでも、己の血の湧き出だした地への憧れは尽きぬものなのか―――。 己の選ぶ道一つで、数百、数千の民の命運が決まることもある。歓喜が生まれれば、それはすべて己への賞賛と尊崇になろうが、もし生まれたのが怨嗟や悲嘆であっても、やはりすべて己のものとなる。 それを投げ出そうとはもう思わない。 だからこそ、より賢明に、正しい道を選ぶすべを知りたかった。
サルマンの視線を感じた。その目の在り処は影となって見えないが、探るような視線が己の顔の上から動かぬのは感じられた。 やがて老賢者は、 「正しき道などない」 と答えた。その声は厳然と、薄暗い岩室の中に響いた。 トーリンは思わず片膝を立てる。そんな答えが真実であるなら、どこにも救いはないことになる。しかし見えない力に縛られて、それ以上には動くこともできず声も出なかった。 「トーリン=オーケンシールド。良いことしかない道などない。道を選ぶということは、益を選び、その益とともに害を選ぶことに他ならぬ。ゆえにわしはこう答えよう。王は、己の歩んだ道を正しきものとせよ。雑音はどこへ行こうとついて回るもの。惑わされてはならぬ」 そうして白いその姿は、雪を踏む音もなく光の中へ見えなくなった。
→つづく |