【もう一人の魔法使い】
「わしはガンダルフじゃ」 そう名乗った老人は、明るい灰色の目をしていた。 くたびれた鼠色のローブに銀色のマフラー、青みがかった灰色のとんがり帽子。白に近い灰色の髪と髭。「灰色の魔法使い」とはよく言ったものである。 その魔法使いの話ならば、トーリンもよく知っていた。驚くほどあちこちでその名を耳にするのである。そして大概、困ったじいさんだと笑って語られる。忌々しげな顔をする者も、話の間中に一度くらいは苦笑を見せる。さもなければ、あの魔法使いの話はしたくもないし聞きたくもないと、容赦なく拒まれるかだ。 白のサルマンが、その名を知るほとんどすべての者に畏敬を持って語られるのとは違い、灰色のガンダルフは多くの者に好かれ、そしてごく一部の者に毛嫌いされる魔法使いだった。 その奇妙な老人が唐突に己と同じテーブルに現れたことに、トーリンは少なからず面食らった。 サルマンならば決して、こんな小汚い宿屋の食堂になど来ないだろう。しかしガンダルフはこの風景になんの違和感もなく溶け込んでいた。
ガンダルフの用件は、トーリンの人生の核心に迫っていた。 エレボールを奪還せよと彼は言った。 そのようなことを他人に指図されたくはないが、魔法使いの言葉は一種の預言でもある。たとえ信じてはおらずとも、彼が現れ、言うことには、なにがしかの必然があると感じてしまうのだ。 しかし、トーリンがガンダルフという魔法使いを、いくらかの畏怖を持って見ていたのは、大事な話をしている間だけのことだった。 ガンダルフは、トーリンの命を狙う者のこと、エレボールと竜のこと、アーケン石のこと、そして、竜に抱かれた宝石を取り返すために必要な"忍びの者"のことを語り終えると、 「さて」 髭の中でにっと笑い、 「この三日というもの、ろくになにも食っておらんでな。腹が減って死にそうじゃ」 などと言いながら、粗末なパンとチーズを美味そうに貪りはじめた。口髭にパン屑がつき、ビールの泡がそれにかぶさる。ビールのおかわりをして、パンをもう一切れ追加する。老人とは思えぬ健啖家だった。 食事を終えるとガンダルフは、パン屑を髭から膝、膝から床へと払い落とし、使い込まれたパイプに指先で火をつける。トーリンは、あまりにも無造作に見せられた小さな魔法に唖然とした。 魔法というものはもっと、大事なことに使うべきではないのか? であればこそ、ごく限られた者にしか与えられぬ恩恵なのではないか? それをパイプの火にするとは……。
(サルマンとは大違いだ) あのいかめしい、いかにも賢者らしい老人に比べると、ガンダルフはあまりにもいい加減で凡庸に見えた。 しかし、呆れはしても軽蔑するような気持ちにはなれなかった。 農夫や猟師、酒場の給仕女と、いかにも楽しそうに他愛もないことを話す。それを聞いていると、こんな魔法使いがいてもいい気がしてくるのである。たとえ頼りなく、ありがたみもないとしても。 その内、煙遊びの上手な、あるいは花火の見事なガンダルフ、と知っている者の求めで彼は、パイプの煙を色とりどりの鳥や蝶にして、酒場の天井に舞わせ始めた。 歌が歌われれば、古ぼけたローブの袖を打ち振って体を揺らし、共に歌う。 竜のことに頭を痛めていると言ってからまだ一時間もたっていないのに、そんな悩みなどないかのようだった。
トーリンはその日の宿を、そのまま"躍る小馬亭"に取った。 田舎の小さな宿のことで高が知れてはいたものの、久しぶりにトーリンは敷布のあるベッドでゆっくりと休んだ。それは、目覚めてから思い返せば不用心なほどだった。 昨夜ガンダルフによって理由を知らされたが、ここのところずっと、どこにいても、不意を打って襲ってくる者たちに悩まされていたのである。野宿だろうと宿だろうと油断はできなかった。それを、一晩に一度も目覚めることがないほど熟睡するとは迂闊だった。 不機嫌になって寝台から下りる。宿の下男に言って湯を持って来させると、それで顔を洗い、髪と髭を整えた。 着替えを済ませると荷をまとめ、肩に担ぐ。 そして、今日の己がすべきこと、辿るべき道を考えた。
エレボール。 重く懐かしい名がよぎる。 だが今やっとそれは、ほんの僅かに近づいてきた。 ガンダルフが探すと約した忍びの者。その者がいれば、スマウグのもとからひそかにアーケン石を取り戻しうる。アーケン石さえこの手にあれば、七部族に号令を掛けられる。であればあの竜を討ち果たし、故郷を取り戻すことも夢ではなくなる。危難はいかに大きくとも、まるで手の届かぬ夢物語ではなくなるのだ。 今はまだ微かだが、希望の灯る道へ一歩を踏み出した。 であれば。 (エレド・ルインに戻ろう) はなれ山までの旅は決して安全ではない。それにもし、"あの者"か、それに類する者が己の命を狙っているとなれば危険はいや増す。 危険な旅にひるまず同道できる者を探さねばなるまい。その意志のある者を募るのだ。いや、その前に一度くらいは、他の部族の長たちに助力を願えぬか、あまり期待はできぬとしても、打診してみるべきであろう。 己のやるべきことを考えながら、トーリンはむっつりと黙り込んだまま宿を出た。
途端に、 「昨夜はよく眠れたかね」 白い煙とともにしわがれた声が流れてきた。 見やればそこに灰色の魔法使いが佇んでいた。 そのときふと、昨晩の不用心な眠りはこの魔法使いのせいではないか、という考えがよぎった。 確証はなく、トーリンは答えぬことを選ぶ。大きなお世話である。 「なんじゃ、返事くらいしても良かろうに」 ふっと吹き出された煙が、羽ばたいてトーリンの顔にぶつかった。 それを乱暴に手で払い、 「貴方も今朝発つのか、ガンダルフ」 不機嫌な声で尋ねてやる。この程度の社交辞令は、我慢できる。 今度はガンダルフが空とぼけて無視をした。 トーリンは溜め息をつく。 ガンダルフは面白そうに笑い、 「途中までは一緒に行こうじゃないか。おまえさんはエレド・ルインに戻るのじゃろうからな」 さすがは魔法使い、ただ妙な老人というだけではないようだ。
ガンダルフは宿の厩に一頭の馬と古ぼけた馬車を預けていた。 分かれ道に差し掛かるまでは乗っていけと言うので、トーリンはその申し出を受けることにした。気分的には余計なお世話だと言いたかったが、そうするのはどうも子供じみている気がしたからだ。それに、この無駄に高名な魔法使いは、賞金稼ぎたちを遠ざけておく役にも立つ。 ことことと馬車が進む間、ガンダルフは斜に加えたパイプの煙を浮かべるだけで無言だった。 あれこれ話しかけられるよりは無言のほうが心地良い。トーリンはガンダルフの横に座り、ゆっくりと流れていく景色を眺めた。 このあたりは昨夜歩いた。緑の草と木々が茂る、あまりにものどかな田舎道。 ここにも、この付近にも、少し離れたところにも、父の足跡はなかった。 (父はもう、見つからぬのか) エレボールへの旅を決めたからには、父を探すのはやめる他ない。 己が王に相応しいか否か、まことに試されるときが来たのだ。
薄曇りの空、白い太陽がほぼ中天に差し掛かったとき、馬車は四つ辻の脇に停まった。 トーリンはここから北へ行く。ガンダルフはどちらへ行くのだろう。北以外のどこかなのは確かだ。 「助かった」 これは社交辞令ではない。たとえ束の間でも、歩かず体力を温存できたことは真実ありがたい。 ガンダルフは大きな帽子の下で一つ頷いた。 「忍びの者の手配がついたら、報せをやろう。その前に、わしもちと疲れておるのでな。一服し、それから一働きせねばならんので、ふたつきか、もう少し過ぎた頃になろうがな。では、気をつけてな」 ありきたりな別れの言葉。威厳のない、好々爺とした笑顔。
「ガンダルフ」 そんな頼りない魔法使いに、何故問おうと思ったのだろうか。 「貴方は王というものを、いかにあるべきと考える」 唐突であることを気にかけず、トーリンはだいぶ昔にした問いを今一度口にしていた。 この変わり者の魔法使いは―――魔法使いとして変わり者なのか、人として変わり者なのかは定かではないが―――、どんな答えを持つのだろうか。 トーリンの問いに、ガンダルフは皺に埋もれた目を瞬いた。 その目を斜め上へ上げ、考えこむ。 そして、 「分からん」 と答えて笑った。
なんと頼りない答えか。 どれだけいい加減なのだろうか。 トーリンが渋面になると、ガンダルフは灰色の目を僅かに煌めかせる。 「ではトーリンよ。おまえさんがわしに尋ねたように、わしもおまえさんに尋ねるが、おまえさんはどんな王になりたいのじゃ?」 灰色の髭が動き、その下の口が大きな笑みを作っていた。 思いがけぬ言葉に、トーリンは魔法使いの顔を見上げる。 ガンダルフはパイプを咥えたままの口をもぐもぐと動かした。 「さあ、どうじゃ?」 「それは―――民に約束のできる王だ。豊かで、安心のできる暮らしを約し、それをもたらせる王だ」 答えるとガンダルフは小首をかしげひょいと肩を竦めた。 「それ。王がいかにあるべきか、今おまえさん自身が答えた。なりたい姿とあるべき姿は、ほとんど同じじゃないのかね? どちらも理想を語るのじゃからな」 ガンダルフの言葉は小さな落雷のようで、トーリンは小さくうめいて口籠り、返す言葉を失った。
古びた小さな馬車が、少しだけ傾いて軋みを上げる。ガンダルフが御者台から身を乗り出して顔を近づけ、トーリンを見る。 「トーリン。なにに迷っておる?」 この問い。 サルマンにも問われた。 過去と今が入り交じるような、奇妙な目眩を覚える。 その幻惑の中、また答える。 あるべき王がそれだと言うなら、それを果たすための正しい道の選び方を知りたいと。 そうだ。 たとえガンダルフの言うように、あるべき姿となりたい姿が同じであったとしても、思い描くだけでは無意味なのだ。本当に知りたいのは、そこに至る道。かくあるべき王に相応しく、正しき道を選ぶすべ。
サルマンの答えは聞いた。それは道理であり、トーリンはその助言を受け入れて、くよくよと他者の思惑に思い煩うことをやめた。困難な決断を下す勇気を覚えた。 ではガンダルフの答えは。
座りなおし、空を見上げて考えた灰色の魔法使いは、 「正しい道だの、その選び方だの、そんなものがあるなら、真っ先にわしが使ってそこへ行くわい」 と嘯いた。 またはぐらかされて、「このくそ爺」とトーリンは内心に呟く。しかし今は、続く言葉を素直に待ち受ける気持ちがあった。 ガンダルフは、しばし空に向けていた目をトーリンに合わせると、明るい眼差しを優しく細める。 「答えを知らんですまぬが、ま、思い悩んでも仕方ない。なにせ道などというものは、選ぶまでもなく歩いているものよ。たとえ立ち止まっているつもりでもそれは、立ち止まるという道を歩むことに他ならぬでな」 ぱちりと右目を閉じて見せて、「それじゃあの」とガンダルフは手綱をさばいた。
ぽくぽくと、古い馬車が西へ遠ざかっていく。 トーリンは、ガンダルフの姿が森の端を回りこんで見えなくなるまでそこに佇んでいた。 我に返り、 (騙されるな) と思う。 なにやら大層なことを聞いたような、サルマンよりも深いことを言っていったような気がするが、こんなものはまやかしだ。 かくあるべき王の姿と、己がなりたい王は決して同じではない気がするし、正しくより良き選択についてだって、「そんなものは知らん」と投げ出しただけではないか。歩いてるんだから仕方ない、などと、そんなものは答えになっていない。 とんだ魔法使い。 そして時間の無駄遣い。 「はあ……」 溜め息をついてトーリンは、荷物を担ぎなおし北の道へと踏み出した。 その口の端に小さな苦笑が浮かんでいることに、彼は気付いていなかった。
(おしまい) |