【前書き】
 もし、女性向のものは苦手だけど、と読もうとしてくださるかたがいれば、と。
 この世界の簡単な前提を書いておきます。
 オリンピック以後、ケビンはウォーズマンと同居しています。
 クロエ=ウォーズマンに、ケビンは相変わらず絶大な信頼と親愛を持ってます。
 そこに女性向な意味をつけず、「単に師弟として、ヒヨコはまだ巣立ちできてない」
と思えば、普通に読めるかと思います。
 ロビンとケビンの親子関係は、なんとか修復されつつありますが、
わだかまりはまだ、完全に消え去ってはいません。


 

не имейте

 二人でボンドst.に出、壁に飾るのにいい絵の一枚でもないかと、ぶらついていた時だ。
 せっかく俺が話しているのに、ぼんやりと余所見なんかしていたから。
 今にして思うと、たかがそれだけのことでって気もするが、もう喧嘩した後なんだから遅い。喧嘩と言っても、ほとんど俺が一方的に腹を立ててあれこれ言っただけだ。クールダウンしてみれば自分が間抜けに思えてならなくもある。
 ウォーズマンにも考えたいこととかあるだろう。それを無視して、俺の話はいつでも聞かないといけない、なんてのは、さすがにとんだ我が儘だ。カッとなる前にそのことについて考えられれば、と今でも後悔がきりきりと胃のあたりを苛む。
 呆れられているかもしれないのが、一番怖かった。

 謝るしか方法がないのは明白だ。
 人に頭を下げるのは大嫌いな俺だが、本当に自分が悪い時に謝らないのは、最低だ。土下座するより格好悪い。
 ただ―――謝るにしても俺には、一つだけ気にかかっていることがあった。
 それは、
「もう少しロビンを見習って冷静さというものを身につけたらどうだ」
 なんて言うから、つい売り言葉に買い言葉状態で、
「あんたもすぐそうやって親父のことを持ち出すんだな!? あんな親父いなきゃ良かったんだ!」
 なんて怒鳴った時のこと。

 言い過ぎだとは(今なら)思うが、ああしろこうしろ、あれは駄目だこれは駄目だ、俺を自分のイメージ通りの超人にするだけが全てだったじゃないか。
 人は「それも貴方のため」なんて言うが、本当に俺のためなら、俺がどんな思いでいたかだって考えてくれただろう。結局あの親父は、あの当時は、理想通りの息子を作ることだけに一生懸命で、それに外れることなんか許しやしなかった。
 俺が家出せずにハイハイ言うこと聞いてたら、俺は自分の意思なんかない親父のコピー、親父は今も、それで平然とした顔でご満悦だったに違いない。俺が家を飛び出したから、親父の理想の息子育成計画は失敗ってことになった。それでようやく、間違ってたんだと気付いたクチだ。

 あんな親父いなけりゃ良かった、ってのは俺の本心には違いなかった。
 そうすればもっと普通に過ごせただろうし、今も親父と比較されることなんてない。
 親父の影が俺の目の前にちらつくたび、理性では「こだわるほうがみっともない」って分かってても、感情は勝手にヒートアップする。
 邪魔で邪魔で仕方ない。
 いいか悪いか、認められるかどうかなんてことじゃなく、とにかく邪魔なんだ。
 ウォーズマンはそのことを理解してくれていると思ってた。
 少なくともあの人だけは、俺に向かって親父のことを持ち出すなんてことはないと。

 他の誰かに言われるより頭にきた。
 あんたにだけはそんなこと言ってもらいたくなかった、って、少し失望……というより絶望に近いような、イヤな気分になった。あんたも他の連中と同じだなんて思いたくないから。
 けれど俺は、完全に頭に血が昇っていて、その瞬間には無視してしまったけれど、一つだけ、気付いてもいた。
 俺がそう怒鳴った時、ほんの一瞬、ウォーズマンの気配がひどくささくれだった。
 刺々しいとかいうんじゃない。もっと簡単に言うなら、カッとなったような、そんな気配だった。
 俺はてっきり言い返してくるんだとばかり感じて身構えた。けれど、少しだけ怒らせていた肩を落として溜め息をつくように、
「そんなこと、言うものじゃない。なんでこんなことで喧嘩してるんだ。君の話を聞かなかったのは、悪かった。それは謝る。俺に話を聞いてほしい、と思ってくれるから腹も立つなら、ありがたいことだ。ただ、いきなり怒鳴るほどのことでもないと思う。違うか?」
 話はきれいに締め括られてしまった。

 言うことに納得したというより、イライラと向かい合っているのが嫌で、俺はそれっきりなにも言わず一人で先に歩き出した。
 苛立ち任せの早足ででたらめに歩き回って、公園のベンチに腰を下ろした途端、気が抜けた。そうするとにわかに、怒らせなかったかとか、呆れられていないかとかが心配でたまらなくなってきた。
 やっと冷静に、自分の我が儘加減というものについて考え直した。
 そうして、あの瞬間、普段なら冷静に俺を宥めるか、苦笑しているか困惑するだけのあの人が、なんであの一瞬だけあんなにカッとなったような、そんな気配になったのかと不思議になった。

 やっぱり、親父なんかいなけりゃ良かった、なんて言われたのが頭にきたんだろうか。あの人にとればあの親父は恩師で、大事なんだろうから。
 なんとなく分かる。自分が罵られるなら我慢できても、大事な人が罵られることは我慢できない人だ。怒りはしなくても、諭そうとはしたんじゃないかという気がする。
 それに、怒るのをやめて気を鎮めたウォーズマンの様子は、今思い返すと、ひどく苦しそうで、傷ついているようにも思えた。

 いったいなんだったんだろう。
 考えても俺には分からない。
 俺が機嫌を直してマンションに戻り、「さっきは悪かった」と謝れば、それっきりになるに違いない。
 俺はそれで―――良くない。
 あの人がなにを考えてなにを思い、どんなことになにを感じるのか。
 それは、そんなふうに後ろへ流していいことじゃない。
(もしかして、傷つけたのか?)
 俺は心の中で言葉にして自分に問い掛けた。
 もしそうだったとしたら、なにに傷ついたんだろう。何故なんだろう。
 親父のこと、つまりは師匠のことを悪く言われるのは、我慢ならないんだろうか。
 俺だったら……怒鳴る前に殴るだろうから、当たっていないとも言えない気がする。
 本人に尋ねるのが手っ取り早いが、まず間違いなく、気のせいだとかなんとか、さらりとかわされてそれっきりになりそうな予感があった。

 そんなふうにあれこれ考えている俺の肩を、気安く叩く手があった。
 いったいどこのどいつだと顔を振り向けると、そこにいたのは親父だった。
「親父……」
「私の散歩コースにいるから悪い」
 さすがにもう、顔を見るのも嫌だということはなくなった。なんとか歩み寄ろうとしてくれていることだけは、分かったから。
 それでも、「よう、元気にしてたか」なんて笑える相手では、まだない。
 ぎこちないのは仕方ない。
 少しわざとらしいのも。
 それでも、
「先に声をかけたんだが、気付かなかったな。考え事か?」
 昔、俺がガキだった頃にもらえていたらと思う、そういった気遣い。俺も少しは大人になったのか、それはいくらかありがたいと思い、応えたいとも思えるようになっていた。

 日曜のハイドパークには、親子連れの姿が目立つ。
 その中でも、この鉄仮面二人連れは注目の的だろう。いちいち人の視線なんか気にしてられないが、仲が悪いはずの俺たちがこうして並んで腰掛けているのは、ちょっとしたスクープかもしれない。
 少し前までなら、ありえなかった光景だ。
 だが今は、親父に相談するというのは、それなりに仲のいい親子の形式のようだと思った。
 だから、そうしてみるのもいいかと。
 それに、俺は話すべきなのかもしれない。俺が親父をどう思っているか。親父が悪いと責めるんじゃなく、あの頃の俺にはそう感じられていた、それがつらかったんだと伝えるのが大事なんだと、そんな気もした。

 俺は思い切って、ついさっき起こった喧嘩のことを、包み隠さず話した。ただ一つ願うのは、頭ごなしに大上段に、俺が悪いと決め付けないでほしいということ。あんたは俺の親父なんだから、どんな馬鹿で不出来な息子でも、仕方ないなとどこか許してほしいということ。
 親父の返答は、できるならぎりぎりまで聞きたくなくて、俺は親父に口を挟ませず、一気に喋り通した。
 全て話した後は、頼むからと祈るような思いで、親父の言葉を待っていた。

 長いこと、返事は聞こえなかった。
 まさか居眠りでもしてやがるんじゃないかと思って隣を見ると、別に寝ているようではなかった。
 顎の下に片手を添えて、ずいぶん難しい気配だ。
「なにか言えよ」
 たまりかねて俺が言うと、
「うむ……。いや、理由は分かったんだが……」
 と、親父はらしくもなく言葉を濁した。
「なんだよ」
 分かったなら話してくれないと困る。更に言い寄った。

「それなら、一つだけ、最初に言わせてくれ。今更なにをと思うかもしれんが、口を挟まず黙って聞いてほしい」
 親父はやけにあらたまった調子で、背筋までのばしなおした。そして、
「私はおまえの父として、ともすると本当に、いなかったほうがマシだったのかもしれない」
 と言った。

「Dad……」
「聞いてくれ。世の中には本当に、こんな親ならばいないほうがマシだ、という者も存在する。たとえば、自分の子をストレス発散の道具くらいにしか見ず、虐待する親がいる。私はそうまで露骨であからさまでなかっただけで、子供にしてみれば、ストレスの原因でしかなかったのかもしれない。―――そうかどうかは、私にも分からない。ただ、そうかもしれない、とは思うようになった。もちろん、そこまでひどくはないし、これでもいないよりはマシだったはずだ、とも思う」

「親父……」
 頭の中で、何度も繰り返した恨み言。
 なのに何故、親父の口から聞くと、そんなことはないと言いたくなるんだろう。
 まだ心のどこかで、そうだと非難がましく罵る声もしているけれど、心の大半がおろおろしているのが自分でも分かった。
 俺は今、もしかすると初めて、親父と会話をしているのかもしれなかった。

 親父は足の上で組み合わせた指を見るようにして、自嘲気味に続けた。
「それでも、おまえが小さかった頃のことを思い出すと、なにも言えない。かわいくてたまらずに、抱き締めたくなるようなことがあったかと問われると、言葉が出なくなる」
「………………」
「そんなことはないはずだと思うんだが、自信がなくてな。たった一つだけ覚えているのは、自信が持てるのは、おまえが生まれた時のことだ」
「俺が生まれた時?」
「ああ。医者から、無事に生まれたと聞かされて、アリサとおまえのいる部屋に入って、アリサの腕の中にいるおまえを見た時には、どういうふうに育てようとか育てねばとか、そんなことはなにも出てこなかった。もしかすると、私が夢中でおまえを抱き締めたのは、その時だけだったかもしれない」
 その腕の中に、赤ん坊だった俺の感触でも探すんだろうか。親父は組んでいた指を解き、上等なスーツに包まれた腕を見た。

「……悪かった」
「親父!」
「おまえを愛していると、自信を持って言えるのがその一度きりではな。おまえが傷ついても、腹を立てても、仕方がない。ずいぶんつらい……いや、嫌な思いをさせただろう。悪かった」
 親父が俺に、少しだが確かに、頭を下げた。

 どうしていいか分からずに、俺はなにも言えなくて、どうすることもできなくて、ただ狼狽していた。
 すると親父は、真正面から俺を見た。
 その視線は、厳しかった。

「それでも、ウォーズマンにその言葉は、駄目だ」
 と、親父は言った。
「え?」
 ようやく出せた声は間抜けな問い返しで、俺の頭は空っぽだった。
 そういえばその話をしてたんだったと思い出した頃には、親父は顔を上げ、俺ではなく正面の木立を見ていた。
「どういう意味だよ」
 俺が言ったこと。あんたも親父のことを持ち出すんだなってことと、あんな親父ならいなきゃ良かったってこと。それとも、俺の話を聞けってこと?
「私があれに初めて会った時―――」
 親父は答えず、木立の向こう、三十年以上も昔を見やった。

「真冬でな。シベリアの寒村だ。その日も氷点下をだいぶ下回って、空気全体が凍りつき、それが砕けて粉雪が降っているような、寒い日だった。よく覚えている。乱闘の音がして、覗きに行った。使える奴がいるかと思ってな。その頃の私は、キン肉マンへの恨み、それも逆恨みで完全にのぼせ上がっていたから、血なまぐさい気配は大歓迎だった」

 

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