今にも倒壊しそうな石造りのバーを迂回して路地に出たところに、彼がいた。 そのシャツもズボンも、もうボロボロでな。一目で浮浪者の類だろうと分かった。 ただ、困ったのは口がきけないことだった。 分かるまでも一騒動だ。 ショックだった。 だがな、本当のショックは、もう一つ後に来た。 分かるか? 分からないだろうな。
† † † † †
「分かるか? 私は本気で、ロシアにはそういう名前があるのかと思ったんだ。だがいくらなんでも、そんな名前をつけるのはひどい。いや、信じたくなかった。もしかしたらと思っても、まさかそんなことはないと思いたかった。だが、本当になかったんだよ、名前なんて……!」 俺は、言葉が出なかった。 名前がないということ。 日曜のハイドパークは親子連れが目立ち、それは街中でも同じこと。 俺は、最低だ。 親父の手を肩に感じた。 大きくなりたい。
(終) |
【余談】
ちょっと可哀想すぎる設定ですが、必然ではないかと思ってます。
なにも歪んだファン心理で過剰な悲劇背負わせているわけではありません。
だって、ロボ超人ってどうやって生まれるんでしょう?
もし両親(あるいはそのどちらか)がロボ超人なら、さほどの悲劇にはならなかったはず。
どんなにいじめられても、家に帰ればいいわけです。
同じ悲劇背負った子を、それゆえに(見ていられなくて)疎んじるとか捨てるって可能性も
ありますが、それならやはり親はいないも同然。
ロボットが親、というのはありえませんし、超人同士、あるいは人間との間に
機械混じりの子が生まれるというのもおかしな話。
しかも、年とらないときました。
子孫を残すことは、イコール遺伝子を残すということ、という観点に立てば、
年をとらないなら、子孫を残す必要もなく、すなわちロボ超人・機械超人には生殖能力は
必要ないことになりますから(そのかわり己という個体が生存するためにより強靭な生命力・能力は持つ)、
なおのこと、同種族の親、というのは出てこなくなってしまいます。いつの間にかこの世界にいて、自分がどうしてこんな姿なのかも分からないし、
誰か「親」という人がいるのかいないのかも分からない。
これは充分にありうるし、むしろ「親」なる存在がいるより自然ではないかと思います。
そんなわけで少年時代、いつも一人ぼっちで、いじめられても庇ってくれる人もなく、
寒かろうと服を買ってくれる人もなく、たぶん橋の下ででも丸くなって寝てたんじゃないかなぁ、と。
それなら、名前がないのも自然です。
罵られたりする「呼びかけのための言葉」はあっても、名前はないはず。
「おい」で事足りてしまいます。あれだけ捻じ曲がってたバラクーダとの間に「強い師弟の絆」を作り出すにあたっても、
今回書いたような展開は「あり」かなーとか思ってます。
ムチ振り回して残酷なことさせようとするバラクーダを、それでも敬愛させるには。
膨大な優しさを設定するしかありません。
さんざんな目に遭って生きてきたにも関わらず、ムチ振り回す男の傷ついた心を思いやれる優しさ。
私の思う師弟コンビと親子は、ウォーズマンはロビンに恩を感じていますが、
ロビンは彼に、莫大な借りを作ったと感じているという形。なにかしてやらなければならないと、
切実なのはロビンのほうだったりします。
だからケビンには、恩と借りの二重の負債を返せるだけの、立派な男になってもらいたいのです。