今にも倒壊しそうな石造りのバーを迂回して路地に出たところに、彼がいた。
 地元の不良チームを全員叩きのめした後で、もう完全にグロッキー状態になっている者にマウントして、まだ殴りつづけていた。
 まあ、そのあたりの詳しいことはいい。ただ、その時まず驚いたのが、力とか残酷さより、その格好のほうだった。
 いくらそこで生まれ育ったと言っても、他の者は皆、分厚いコートを着るなり、厚着するなりしている。薄手のシャツ一枚なんて格好でいるのは、他に一人もいなかった。こいつは寒さを感じないのか。それが、一番最初に思ったことだった。

 そのシャツもズボンも、もうボロボロでな。一目で浮浪者の類だろうと分かった。
 私にとって肝心なのは、そいつが強いかどうか、強くなれるかどうかだけだ。むしろ浮浪者であったほうが都合は良かった。
 声をかけて、まあ、少しは争ったが、その時の彼は単なる乱暴者でしかなかったからな。いくらリハビリ中でも私の相手ではなかった。
 捻じ伏せて、連れて行った。
 強くなれるなら、気に入らないものを叩き潰す力が手に入るなら、教わる相手など誰でも良かったんだろう。私の言うこと、教えるものに価値があるかぎり、文句も言わず黙って従っていたよ。

 ただ、困ったのは口がきけないことだった。
 あの頃の彼は、喋ろうとしても体が……いや、心がか。それを拒否して、声が出せない状態だった。おそらく、なにを言っても無駄だと、徹底して刻み付けられてきたんだろうな。
 しばらくはイエス・ノーだけ分かればいいと思っていたが、だんだんそれではコンタクトがとりにくくなった。
 仕方がないから、筆談させようとしてな。
 ―――読み書きができないことを知ったよ。

 分かるまでも一騒動だ。
 喋れない、文字も書けない。それでは、文字が書けないんだということさえ伝えようがないだろう?
 書いてみろと私が机に置いた紙を前にして、躍起になったように首を振るだけでな。理由が分からなくて、反抗する気かと殴ったような覚えもある。……最低だな。
 何度か揉み合って、破いた紙を塗りつぶすようにしたのを見せられて、やっと気付いた。こいつは読み書きができないんだ、とな。

 ショックだった。
 文字を読み、書く。私たちには当たり前のことだ。今まで身の回りに、文字を書けない、読めない者なんて一人もいなかった。
 だが最北の最果ての村では、珍しいことじゃなかった。道理でバーにあるメニューが陳腐なわけだ。客はみんな常連で、どんなものがあるかは口伝えで知ってるんだ。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 ともかく、私は文字を教えるところから始めるしかなかった。
 そうしながら―――少しだけな。自分の思い上がり、傲慢さに気付いた。確かに私はキン肉マンに負けて屈辱は味わったが、どれほど恵まれていたのか、それを当たり前としか思わないほどいろんなものに恵まれて、安穏と生きてきただけなんじゃないかとな。
 それからかな。少しばかり、本当の師匠らしいことをしてやれるようになったのは。

 だがな、本当のショックは、もう一つ後に来た。
 さすがにコンピューター性の頭脳の持ち主だから、一度教えれば完璧に覚えこむ。三日もすれば、そのあたりの本なら読めるようになったし、文字も活字のように整ったものを書けるようになった。
 それで、私は聞いたんだ。
 それまでずっと気にもしなかったことを、初めてな。
「おまえ、名は」
 と。

 分かるか? 分からないだろうな。
 私が少しでも変わったせいか、本当の意味で私の言うことを聞いてくれるようになった気がしたのに、突然動かなくなるんだ。いったいどうしたのかと思って、書いてみろ、書けるだろうと言えばまたひどく嫌がって、怒鳴りつけて引きずって、無理やり書かせれば……、殴りつけるようにして書いたのは、
не имейте」、「ない」だった……。

 

†   †   †   †   †

 

「分かるか? 私は本気で、ロシアにはそういう名前があるのかと思ったんだ。だがいくらなんでも、そんな名前をつけるのはひどい。いや、信じたくなかった。もしかしたらと思っても、まさかそんなことはないと思いたかった。だが、本当になかったんだよ、名前なんて……!」

 俺は、言葉が出なかった。
 小声だが叫ぶように言った親父、同じように、まさかと信じられなかった、信じたくなかった。
 組み合わせられた親父の指が、微かに震えていた。
「死ぬほど後悔した。だが、その時の私は折れるわけにもいかなかった。今思えば愚かだが、それくらいキン肉マンを沈めたい一心で狂っていたんだ。何事でもないように『そうか』と言って、ウォーズマンというのは私がやった名だ」
 強く握り締められた指先が白く変色し、食い込んだ手の甲は、今にも皮が破れそうだった。

 名前がないということ。
 それは、名前をつけてくれる人に、その時までずっと出会わずにいたということ。
 名前をつけてくれる一番普通の人、親というもの自体、いなかったのかもしれないということ。
 名前をつけられることもなく、そして呼ばれることもなく、問われることさえずっとなく、たった一人で生きてきたということ……。

 日曜のハイドパークは親子連れが目立ち、それは街中でも同じこと。
 あの時ウォーズマンは、ともすると、仲の良さそうな親子を見ていたのかもしれない。
 あの瞬間、言いたかったのかもしれない。思い通りには愛してくれなかったとしても、こんな親父がいることがどれほど幸せなことなのか。親がいるだけでもありがたいじゃないかと言おうとして。
 けれど親父が言ったように、いればいいというものでもなく。
 頭のいいあの人は、だからなにも言わないで、哀しい話はやめにしたのかもしれない。

 俺は、最低だ。
 俺も親父と同じように、後悔していた。
 俺の名前は親父がつけてくれたもの。
 俺には家があり、たしかに円満な家族じゃなかったかもしれないが、今はもう、いつでも帰ってくればいいと言ってくれる人が、こうしてここにいる。
 かつてはもらえなかったかもしれないが、今はこうして、くれる人がいる。
 俺は、どれほど甘えていたんだろうか……。

 親父の手を肩に感じた。
「こんな話を聞いたことは、言わないほうがいい。分かるだろう。他人に同情してもらうつもりがないなら、知られれば恥ずかしいだけだ。だから、おまえはすぐに帰って、他愛ないことで腹を立てたことだけ謝るといい。そして、もう二度と」
「ああ」
 傷つけたりしない。
 俺はベンチを立つと、真っ直ぐマンションに向かって走り出した。

 大きくなりたい。
 そう思った。
 強くなりたい。
 苦しくても痛くてもなにも言わない人を、そのまま全部包めるように。
 俺のことなんかなにも心配しなくていいように、なにかあれば頼れるように。
 大きく強く。
 もっともっと、もっと―――。

 

(終)

 


【余談】
 ちょっと可哀想すぎる設定ですが、必然ではないかと思ってます。
 なにも歪んだファン心理で過剰な悲劇背負わせているわけではありません。
 だって、ロボ超人ってどうやって生まれるんでしょう?
 もし両親(あるいはそのどちらか)がロボ超人なら、さほどの悲劇にはならなかったはず。
どんなにいじめられても、家に帰ればいいわけです。
 同じ悲劇背負った子を、それゆえに(見ていられなくて)疎んじるとか捨てるって可能性も
ありますが、それならやはり親はいないも同然。
 ロボットが親、というのはありえませんし、超人同士、あるいは人間との間に
機械混じりの子が生まれるというのもおかしな話。
 しかも、年とらないときました。
 子孫を残すことは、イコール遺伝子を残すということ、という観点に立てば、
年をとらないなら、子孫を残す必要もなく、すなわちロボ超人・機械超人には生殖能力は
必要ないことになりますから(そのかわり己という個体が生存するためにより強靭な生命力・能力は持つ)、
なおのこと、同種族の親、というのは出てこなくなってしまいます。

 いつの間にかこの世界にいて、自分がどうしてこんな姿なのかも分からないし、
誰か「親」という人がいるのかいないのかも分からない。
 これは充分にありうるし、むしろ「親」なる存在がいるより自然ではないかと思います。
 そんなわけで少年時代、いつも一人ぼっちで、いじめられても庇ってくれる人もなく、
寒かろうと服を買ってくれる人もなく、たぶん橋の下ででも丸くなって寝てたんじゃないかなぁ、と。
 それなら、名前がないのも自然です。
 罵られたりする「呼びかけのための言葉」はあっても、名前はないはず。
 「おい」で事足りてしまいます。

 あれだけ捻じ曲がってたバラクーダとの間に「強い師弟の絆」を作り出すにあたっても、
今回書いたような展開は「あり」かなーとか思ってます。
 ムチ振り回して残酷なことさせようとするバラクーダを、それでも敬愛させるには。
膨大な優しさを設定するしかありません。
 さんざんな目に遭って生きてきたにも関わらず、ムチ振り回す男の傷ついた心を思いやれる優しさ。
 私の思う師弟コンビと親子は、ウォーズマンはロビンに恩を感じていますが、
ロビンは彼に、莫大な借りを作ったと感じているという形。なにかしてやらなければならないと、
切実なのはロビンのほうだったりします。
 だからケビンには、恩と借りの二重の負債を返せるだけの、立派な男になってもらいたいのです。