二(周泰)

 

 どういう理由を告げたものか、無事に見張りを遠ざけることに成功し、俺は窓から入り込んで、久しぶりに仲謀様と向かい合った。
 ただそれだけのことで、言葉もなくなる。
 仲謀様のお傍にいるのだ、という実感だけではない。久しぶりではあれどそう長い時間でもないはずなのに、頬がいくらか削げてしまっていて、それが胸に痛かった。
 だが今日は、そんなことは話さないようにしよう。
 国とか、なすべきこととか。そんなことは、決して。

 俺は今更になって気付いたが、そうすると、話題など一切なくなってしまうのだった。
 なすべきことばかりに追い立てられて、庭の花一つ眺める時間もなかったはずなのだ。俺のしていたことは軍事関連ばかりで、やはり国や未来を思わせる。仲謀様がなにより好まれた伯符様の話題は……口にするには、思い切りが必要だった。
「ずっと顔も見なかったが、元気そうで良かった」
 あまりにもありきたりな言葉。誰にでも言える、上辺だけの話題だ。乾ききって空々しい。
 そんな思いは仲謀様も同じようで、言ったきり、口をつぐんでしまわれた。
 憤りをまぎらわせるのか、一息に杯を呷られる。たて続けに、一杯、二杯、三杯と。俺が止める暇もない。
「お体に障ります。加減して飲まれたほうが」
「いいんだ。そうでもしないと、言いたいことを言う度胸もない」
 涙目で苦笑いして、仲謀様はもう一杯、飲み干した。

 御酒は好きであれど、そう強いおかたではない。たちまちに泥酔し、杯を持つ手も危うくなる。
 そうなってやっと、言葉より先に、蒼味がかった褐色の目から、涙が零れ落ちた。手が震え酒面が波立つ。溢れる寸前まで注がれていた酒は、縁を乗り越えて仲謀様の手へとかかった。
 それを拭うこともせず、握り締めた拳を震わせて、ただ声もなく。
 まるで、もうとうに壊れた堰を、なんとか修そうと必死になっているようだ。

 失礼かもしれない。
 無礼だと思う。
 俺に、そんなことが許されるのかも分からない。
 けれど、なにもかも、貴方お一人でこらえられることはない。
 貴方は、決して一人ではない。たとえ頂点に立たれようとも。
 卓を回り込んでお傍に行き、

「……?」
 背を屈めて、強張った肩を抱き締めた。

「う……」
 食いしばった歯の合間から小さな声が洩れ、……その後は全て、俺の着物に吸われて篭もる。
「兄上……兄上ぇ……っ、どうして……っ」
 吐かれる息と滲む涙の熱が、瞬く間に染みていく。
 ほとんど咆哮に似た慟哭の声が、押し付けられて鈍くなり、切れ切れに続く。掴み締められた着物は、縫い目がほころびる音を立てていた。

 俺がお傍にいます。
 そう言いたかった。
 だが、俺などこのかたにとって、どれほどのものだというのか。
 俺がいたところで、なんになるというのか。
 せいぜいで手足となって動いてさしあげられる程度。
 俺が傍にいるからどうだと。……自惚れるにも、程がある。
 けれど俺は、貴方のしろと言うことならばなんでもする。どんなことでも。それくらいしかできないから、せめてそれだけは、どんなことでも。

 大事な人を失った嘆きはそう容易く去らず、長いこと、仲謀様は泣きつづけていた。
 それほどに深く強い思いを向けられていた伯符様を思うと、羨ましかった。そして、それほど一途に兄君を慕われていた……今も慕われている仲謀様を、愛しいと思った。
 命にかえても、貴方だけは守りたい。
 いつかの城で共に戦った時も、俺を蔑まず慕ってくれる幼い主のため、傷も痛みもどれほどのものかと思ったが、今はあの時よりも更に強く、守りたいと思う。

 俺は、貴方のためならなんだってします。だから……

「え?」
「は?」
「今、なんと言った」
 涙で真っ赤になり、腫れた目を向けられた。
 俺は今、なにか言っただろうか。なにも言っていないはずだが。
「なにも言っていないと思いますが」
「いや、たしかに聞いた。……誤魔化すな。私の聞き間違いか? もう一度言ってくれ」
「誤魔化していません。本当に覚えがないのです」
「本当に覚えてないのか? ……だが、それならそれは、おまえの本心と信じていいんだな」
「あ……、もしなにか失礼なことを言ったのであれば、お許しください」
 思わず口を突いて出てしまったのならば、おそらくは本音だろう。俺はいったいなにを口走ったのか、それを思うと背筋が冷たくなったが、
「『私のためならなんでもする』。そう言ったんだ」
 仲謀様はようやく笑って、その顔を俺の腹へと押し付けた。

 あんなことを口にしていたのかと思うと、落ち着いてもいられない。
「俺にできることなど高が知れていますが、それでも良ければです」
 押し付けられたままの顔が、左右へと振られる。
「なあ、幼平。分かるか? おまえがいてくれると思うだけで、私がどんなに心強いか。……今夜おまえが来てくれてどんなに嬉しかったか、分かるか、幼平」
 ……俺を、それほど思ってくださるのか。
 仲謀様を包む腕に、思わず力が入りそうになった。

 だが、きっと、俺が役に立つからだ。
 それはつまり、今夜ここに来てくれる者があれば誰でも良かったということ、同じことをできるなら誰でもいいということ。
 俺は、一介の部将に過ぎない。
 自惚れてはならない。
 図に乗ってはならない。
 踏み込みすぎて何様と遠ざけられるよりは、こんな曖昧な腕の力同様の距離のほうがいい。
 俺はこのかたの抱える将の一人で、このかたは一国の主なのだ。

「勿体無いお言葉です。これからも、ご主君のためにできることがあるならば、命を賭してでも」
 俺に言えることはせいぜいでそれだけだ。
 それで少しでも仲謀様が安堵してくれれば、と思ったが、不意に押し離された。
「……おまえらしい。見上げた忠義だ」
 何故、苦笑いなのだろう。
 何故、
「宣城でも、そうだったな。それこそ命懸けで戦ってくれた」
 また涙など、それも苦しそうな顔で。

 溜まっていた涙が落ちる。
「私が主の弟だからか。私が主だからか。今日ここに来たのは、倒れたまま潰れられてはたまらないと、そのため、国のためか」
 突然なにを言われるのかと、俺は混乱した。
 何故そのようなことを言うのかが咄嗟には理解できなかった。
 なにかと思っていると、仲謀様は突然、卓にあった杯を取り上げ、俺へと投げつけた。間近からのことだったが、酔った仲謀様の動きは緩慢で、反射的に避けてしまう。壁にぶつかった杯が、固い音を立てて落ちた。
 挙げ句、
「もういい。出て行け。おまえの顔なぞ見たくもない」
 ……突然そんなことを言われて、ますますわけが分からなくなった。

 なにに腹を立てられたのかが分かれば、それはたいていもっともなことで、そのとおりに従うしかない。
 だが、何故急にそんなことを言うのかが分からず、離れようとする仲謀様の手を、思わず掴んでしまった。
「何故急にそのようなことを言われるのですか」
 俺の言うのと同時に、
「放せ、気安く触れていい手と思うか」
 仲謀様が。自分の言葉に邪魔されて、なんと言われたのかがすぐには分からなかった。だがはっとして手を放す。
「……申し訳ありません」

 その手にも肩にも、触れていいはずがない。
 相手は、貴いかたなのだ。
 「距離」を思い知らされて、胸の奥が痛かった。

「御酒は置いて行きます。気晴らしにでも使ってください。迷惑でしたら、捨ててください」
 窓から出て行く時点で礼もなにもない。それでも辞去の前には、主君に対する相応の礼をとった。
 なんとなく、これまでのことが夢だったのだと思った。
 腕に残る感触も、目が覚めた今、もうすぐ消える。
 俺にはどうするすべもない、これが現実の、俺と仲謀様との正しい距離。
 今更気付いた自分が、まるで馬鹿のようだった。

 

→NEXT