三(孫権)

 

「待て、幼平」
 元のように窓から出て行こうとする幼平を呼び止めた。
 苛立ちや哀しさは消えて、……兄上がいなくなった寂しさも消えて、心は平静で、ただ、自分で分かるほどに冷たく、重かった。
 主の命令なら、どんな理不尽なことでも聞く男。
 全てにただ頷いて、全てにただ従うだけ。
 主の言うことなら仕方ない、と?
 国のためなら仕方ない、と?

 ……こうしてここに来たのも、妙な話だ。
 庭には数人の巡回兵がいる。いくら幼平の武芸が優れているとは言え、戦で戦うことと、人知れず忍び込むこととは別だ。
 ともすると、誰かに私を慰めて来いと、命じられてきたのかもしれない。
 ありうることだ。
 そうだ。
 幼平に、こんな大胆な真似、思いつくはずもない。
 表立って甘やかすことのできない二張あたりが、その役目を幼平に任せただけということは、ありうることだ。

 なんでも言うことを聞くんだろう。
 私の言ったどんな無茶も、困った顔はしても叶えてくれたように、命じられれば断らないだけなんだろう。
 どんな目に遭っても、主のすることなら仕方ないと、溜め息一つでいつもいつも、諦めているだけか、幼平。

 文机の上に出しっぱなしにしてあった、護身用の短剣を取る。
 鞘を払い突きつけると、幼平は何事かと驚いたように少し目を見開きはしたが、ただそれだけだった。
 私が動くなと命じて、ここに忍び込んだ罰だと言えば、今まで飲んでいたのはなんだと反論することもなく、おとなしく切られるだろう。
 そういう奴だ。

 この体の中には、なにも入ってない。
 命令に従って動くだけ。
 優しくしてやりなさい、と言われれば、誰にでも優しくするんだろう。

 差し向けていた刃を引く。
 切り刻んでも、仕方ないと諦めるに決まっている。主の逆鱗に触れたのなら、それがなにか、どうしてかなど分からなくても、諾々と従うだけの男だ。
 意味がない。
 それよりむしろ、私は。
 逆手に持った短剣を、自分の左腕に突き立てた。

「仲謀様……!?」
 そのまま引く。
 袖が切れ、肉が開き、血が滴って落ちる。
 痛い。
 けれどその痛み、疼きが心地良い。

 指先から雫の落ちていくのが、ぽとり、ぽとりとよく分かる。
 血のついた短剣を卓に放り出す。
 茫然としている幼平は放ったまま室を横切り、廊下に顔を出した。
「誰ぞあるか! 捕らえよ!」
 戸の前を離れ、角にまで下がっていた衛兵が血相を変えて駆けつけてきた。
「仲謀様、いかがなさいました」
「私に切りかかってきた。捕らえて獄に落としておけ」
「は……、あ、あの……」
「取り押さえよ!」
「ははっ」

 そう。
 兵などこんなものだ。
 幼平の様子を見れば、私に切りかかった後と思えないことは明白でも、私の言葉に従う。
 主の言葉には、無条件に従う。
 ただそれだけの犬だ。

 笑えと言えば笑う。
 立てと言えば立つ。
 頷くことを期待すれば頷き、断ることを期待すれば断る。
 腹の中でなにを思っていようと、それを出さずに振る舞えるのが利口な奴で、主のために加えて国のためと言えば、忠臣と呼ばれる。
 こいつら皆、ただそれだけの犬だ。
 幼平なぞ―――。

「て、手当てを……」
 幼平を左右から槍で挟み、去っていく二人。残ったり一人が、恐る恐ると、私の機嫌を窺うように言う。
「いい、下がれ」
「しかし」
「下がれと言っている!」
「は、ははっ」
 言うなりだ。
 みんな私の言うなりなる。
 それが主だ。
 この国はもう、私が主という座にあるかぎり、私の思うままだ。
 国のため、民のためと考えることをやめれば、私はいつでも、第二の董卓になれる。
 それが許せない時には、主でなくしてから、処罰するだろう。
 それほどにこの座は、動かしがたいものなのだ。

 人が去ってがらんとした部屋に残された、置き土産。
 幼平の使っていた杯に注いだ酒を煽る。
 つい少し前までは、哀しくて寂しくて、……暖かくて。
 だが今は、兄上が憎かった。どうして死んでしまったのか、今はもう、恋しいのでも寂しいのでもなく、腹立たしくてならなかった。
 兄上さえ生きていれば、私は国の主になどならなくて済んだのだ。

 ずっと描いていた。
 兄上が走る道、手に入れる国、そして民。
 私は兄上が集めてきたものを預かり、走りつづける兄上がいつでも戻ってきて安らげるよう、守っていくのが役目なのだと、そう思っていた。
 なのに突然いなくなる。
 私には天下など何処にあるどんなものかも分からないのに、兄上にかわって手をのばさなければならなくなってしまった。
 何処に行けばいいのか。
 なにをすればいいのか。
 まるで分からない。
 分からないのに、皆が期待する。

 冗談じゃないと捨ててしまっても、私が主なのだ。誰にも文句は言わせない。
 けれどきっとそうなれば、私を主でなくするだけのこと。
 そうして、主でなくなり、ただの愚か者と化した私のことなど、誰も見なくなってしまうだろう。
 それは……あまりにも、怖い―――。

 私は兄上にもなれなければ董卓にもなれない。
 ただの臆病者だ。

 それでも私が主であるかぎり、きっと幼平は、道理もなにもよく分からないから、引け目だか負い目だか知らないが、自分を賤しいと思い込んでいるから。そして私を、貴い主だと……いや、主というものは尊いものなのだと思い込んでいるから。
 どんなことにも従うだろう。
 理不尽でも無茶でも。
 あの男の中には、首を横に振るといったことそのものが、入っていないに違いないのだ。

 この夜のことは翌朝には知れ渡り、騒ぎになった。
 私が幼平を室に入れ、衛兵を遠ざけたことを軽率だと言う者はなかった。
 まさか幼平がそんなことをするなどとは、誰も思わないのだ。だから、私もまたそう思い、安心して招きいれたとしても仕方ない。皆がそう言った。
 何故そのような暴挙を働いたのか、当然、幼平は問い詰められたろう。
 だが、今もって誰も、私のところに確かめに来ない。
 いかにも幼平らしい。
 わけも分からないくせに、私が自分で切ったのだとは言わないでいるのだ。
 さりとて嘘もつけない男だから、ひたすら黙り込んでいるだろう。どんな目に遭おうとも。
 明日になったら首を切ると言いつけても、きっと黙ったまま、おとなしくその首を差し出すに違いない。

 腹が立って、半日で残りの酒をほとんど飲み尽くしてしまった。
 張昭は自重しろと言ってきたが、私が幼平を重んじていたことは彼も知っている。勝手に誤解して、
「明日からは、職務にお戻りくださいませ」
 と出て行った。
 仕方ない仕方ない仕方ない。
 なにもかもがその言葉で片付いてしまう。
 卓を蹴り倒そうが窓を壊そうが、面と向かって叱ってくるのは、父上の代から仕えている忠義の塊だけだ。けれどそれも全て国のため。
 誰も私の胸の内など分かるまい。

 私が樽一つ分の酒を空にした頃、公奕が蟄居を命じられたという報告を聞いた。
「幼平がそんなことをするはずがない。もししたのなら、仲謀様に非があるはずだ」
 と誰に憚ることもなく断言し、そのせいで言いつけられたものだという。
 それを聞いて私は、思わず笑い出していた。報告にきた文官が、ぎょっとした顔で、そして心なしか気の毒そうにも見える、そう、憐憫の顔になって、出て行った。いきなりげらげら笑い出せば、気が触れたと思われても仕方ない。今はまだ酒を飲んでいるから、そのせいとくらいは思われただろうか。
 公奕が一番正解に近い。なのにその指摘を、主を非難したとの罪にして、罰を与える。
 主というものは、大事すぎて目が見えなくなるほどに、何処までも何処までも大事なものらしい。

 笑いすぎて、涙が出てきた。
 そう言えばこの酒も、公奕が幼平のところに置いていったものだと言った。
 ここに来る前から共にいて、兄弟のように仲がいい。幼平が遠慮して一歩下がるのを、公奕は自然に一歩踏み出して間を埋めていた。
 獄の中の幼平が本当のことを語るとしたら、公奕にだろう。彼が行き、どうしたのだと問えばきっと、幼平は本当のことを言うだろう。
 いや、私の主としての立場とか体面を考えて言わないかもしれないが、もし言うとすれば、公奕以外の誰かではない。
 なのにその公奕は獄に近づくこともできず、蟄居中。今頃、なんなんだこの国は、主ってヤツはそんなに大層なのかと腹でも立てているだろうか。
 公奕にとってはきっと、私より幼平のほうが大事だろう。真実を知れば、平気で私を殴り飛ばしかねない。幼平の、兄のようなものだから。
 幼平にとっても、大事な大事な、ほとんど唯一の、心を開ける友達だろう。

 おかしくておかしくて―――掴んだ空き樽を窓へと叩きつけた。

 

please wait