序(孫権)
強くならねば。 強くあらねば。 もう父上はいない。 もう兄上はいない。 だからこの国は、そして母は、弟は、妹は、今まで父上がしていたように、兄上がしていたように、今度は私が守らなければならないのだ。 もっと……もっと、今よりもっと、強くならねば。 そして、強くありつづけなければ。 父上のように。 兄上のように。 私も孫家の男なのだから、父上のしたことならば、兄上のしたことならば、できぬと言って良いはずがないし、必ず、できるはずなのだ。
なすべきこと。 とるべき道。 私の思い。 私の考え。 人の思い。 人の考え。 どれが良く、どれが誤りか。 私の目が正しいのか。 誰の目が正しいのか。
父上の成そうとして成し遂げられなかったこと。 兄上が果たそうとして果たせなかった夢。 私が、叶えなければ。 私が―――。
一(周泰)
なにもかもが目まぐるしく移り変わる。 国の「中心」が失われるということは、これほどの混乱と変化をもたらすものなのかと、いっそ他人事のように思う。 伯符様の死去と、仲謀様の後継。 なにもかもが変化していくその中で、俺は右に行けと言われれば右に、左に行けと言われれば左に、そこにいろと言われればこの場にとどまるだけだ。これからどうすれば良いのか、どうなってゆくのか、なにも見えぬ俺は、それの見える誰かの言葉に、できるだけ忠実に従うしかなかった。 無茶も無理もない。 そうすることが必要ならば、可能なところまで、力の及ぶかぎり、やるしかない。 俺には、それしかできなくもある。
その日に命じられたのは、子義殿にかわって騎馬隊の行軍訓練をすることだった。 俺は一昨日も昨日も眠ってはおらず、昨日の昼くらいからも夜行戦術のためとかで夜中に調練をしていた。本当ならばここで半日休めるはずだったが、それが必要なことならば。 おそらく子義殿には、他になにか用ができたのだろう。伯符様のもと、ある意味では最もお傍近くで戦を担っていた男だ。分かっていることも見えていることも、俺よりは格段に多いに違いないのだから。 目端のきいた公奕は、このところ雑務に負われているようだ。俺のように、戦うしか取り得がないのとは違う。たぶん、もうあと二日もすると、愚痴が言いたくなって俺のところにやって来るだろう。酔いつぶれるまで飲みたがるだろうし……俺はまた徹夜になるのかもしれないが、なんとかなる。 俺などまだまだ、楽なはずだ。
一番大変なのは、と考えた丁度その時、急に後ろが騒がしくなった。 館のほうだ。 人が声を上げて騒ぎ立てるなど、めったにあることではない。と思うより早く、俺は走り出していた。もし刃傷沙汰でも起こっているならば、俺にもできることがある。 だが駆けつけた時には逆に静まり返っており、どうしたのかとそこにいた若い文官に尋ねたが、わけは知っているようなのに、答えるのを渋る様子だった。 皆に知らせる必要のないことなのかもしれない。 つまり、俺が知ったところでどうしようもないことなのだろう。 そう思って戻ろうとすると、 「幼平、待て幼平」 聞き慣れた公奕の声がした。腕にあまるほどの巻物を抱えたままやってくると、 「仲謀様が倒れたんだってよ」 ―――と言った。
軽々しく言いふらしていいことではないとは、俺にも分かる。文官が不愉快な顔をするのも無理はない。 だが俺には、伯符様が亡くなられるその時までは、直接の主だったのだ。 何故かはよく分からないが目をかけてもらい、なにかにつけて呼ばれたり、頼られたり、三日に一度は酒の相手をねだられたりもしてきた。 仲謀様が国主となったと同時にそういったことは全て清算され、一から組み立てなおされて俺の配属も変わった。 だが、俺にはやはり、伯符様よりもずっと近くにあった「主」なのだ。 伯符様には拾ってくださった恩があり、賊だった俺たちを分け隔てなく使ってくれたという恩もある。大事なかたには違いない。だが、他愛ない話をいくつとなくしたことはない。 俺には………………。
公奕がそのことを俺に教えてくれたのは、ありがたかった。 だが、どうすればいいのだろう。 俺はもう仲謀様の側近ではない。 用を言い付かったわけでもないのに、傍に行くことなど許されない。 だが、今一番つらい思いをしているのは、あのかたなのだ。それは絶対に、間違いない。兄を失ったのだから当然だ、などというのではなく、俺は知っている。仲謀様がどれほど伯符様を慕っていたか、大事に思っていたか、愛しておられたか。
茶の相手、酒の相手に話される内容の大半は、伯符様のことだった。 烈風のようであり燦然と輝く陽のようでもあった兄君は、あのかたの憧れであり自慢であり、理想でもあったのだろうと思う。 「それで兄上がね」 「だから兄上は」 「でも兄上は」 「そこで兄上はな」 何度聞いたろう。 仲謀様の心の七割までも占めていると思われる、伯符様のお姿。
それが急に消え去って、どれほど哀しく、寂しく、心細いことか。 それも、大好きな兄が死んだのだと泣き暮らすことなど許されない身になってしまった。 この国を、これからは伯符様にかわり、仲謀様が率いねばならないのだ。 「これからは私が」 と皆の前で宣言した仲謀様は、立派だった。 毅然とし、それまでの甘さは消えてしまったようだった。 だが、人はそうも急激に変われるものだろうか。
泣く暇があったらすることがある。 哀しいと言うならば仇を討つなり、故人の夢を叶えるなり、してやれることがある。 過去を振り返り、過去に埋もれていることの許される時代ではない、と誰かが言っていた。おつらいだろうが、こうであってもらわねば困るのだ、と。
道理だろう。 だが、押し込め続けた思いは、いつかきっと、こんなふうに溢れることがあるのではないかという気がしていた。 こうしてほしいとか。 こうするべきだとか。 そんなものは全て、勝手にあのかたへと押し付けた我が儘ではないか。 それで一人、誰よりも悲しいのに泣くことも許してもらえず、国の未来、民の未来、我々部将や兵たちの命といった、誰よりも大きなものを背負い、それに耐えている。
なにか俺に、できることはないだろうか。 何様だと言われてもいい。 俺がなにか言われるなら、それはどうでもいい。 俺に何かしてさしあげられることはないのだろうか。 とても……伯符様の消えてしまった心の空洞を、埋めるには足りないだろうが。
だが今、俺には命じられた仕事があった。 仲謀様の容態を窺いに行く許しなどない。 たとえ見に行ったところで、なにもできない。 心配でならずとも、俺には他にできることもして良いこともなかった。
子義殿の代理というものは生半なことで務まるものではなく、行軍訓練は日暮れまでだったが、終わった時にはもう腹も減らなかった。どころか吐き気がひどい。 俺には、伯符様や子義殿のように、大勢の人を動かすことなどできないのだ。行き届かないところがあれば侮られる理由になり、それでまた上手く動かなくなる。臨時のことだから仕方がないと思う者半分、これは助かる。だが、未だ伯符様を失った動揺の消えない者は容易に苛立ち、足並みはまるで揃わなかった。 そこをなんとかするのが将たる者のつとめなのだろうが、俺にはやはり、こんな大役は向いていない。 ずっと―――本当は、仲謀様のお傍で他愛ない雑役などしながら、必要であれば孫策様のもと、戦に加わる。そういったことがずっと続いていくのだと思っていたし、そうであったらいいと思っていた。 もう、そんなことは言っていられない。 仲謀様の背負わされたものを思えば、俺の苦労など、たかが知れているではないか。
せめてなにか、束の間でも心を慰撫してさしあげることはできないかと考えて、俺は、見咎められれば罰されるのは分かっていたが、一つ、思いついたことを実行することにした。 公奕はよほどに俺のことを分かっていると見えて、仲謀様がどうであったか、どうしておられるかを、事細かに教えに来てくれた。医者の診察を受けてからはずっと眠っておられたというから、逆に夜、眠りが浅くなるに違いない。 夜を待った。 いつか、公奕と飲んだ時に封も切らなかった小ぶりの酒樽があるのを用意して、待っていた。 夜陰に乗じて官舎を抜け出し、仲謀様のおられる奥の屋敷へと入り込む。 特に呼ばれるのでもなければ、決して立ち入ってはならない場所だ。以前は、俺はほとんどこの屋敷にいた。仲謀様のお傍に。だから屋敷の造りはよく知っているし、見回りの来る頃合も分かっている。
まるで暗殺を狙う賊だ。 孫策様が刺客に襲われて亡くなられてまだ間もないというのに、こんなところを見つかれば、誰何されることもなく射殺されかねない。 だが、まだ。 帰りならばまだしも、行きに見つかってはならない。 二度、植え込み一つ隔てたきりで見回りの兵をやり過ごし、なんとか仲謀様のおられる離れに辿り着く。 窓の下へと這い込めば、丁度その窓から、仲謀様のお顔が覗いた。
闇の空を見上げて、じっとしているだけだった。ない月の在り処でも探すように、所在無く。 真下にひそんでいる俺になど、まるで気付いてもいない。 もし俺が刺客であったならば、ここから剣を突き上げるだけで喉笛を貫ける。……ということは、もしここまで入り込んでいる刺客がいれば、そういうことも実際に起こりうるということだ。 気付かれるわけにはいかなかったというのに、俺を見過ごしにした見回りに腹が立った。 人のことなどどうでもいいと思って来たが、そんなことで見回りが務まるのかと問い詰めたい気分だった。
俺がそんなふうに暗がりの庭、見回りの持つ灯りを睨んでいると、ぽつりと、なにかが鼻の脇に落ちてきた。 触れた指先が濡れる。 見上げると、一筋だけ、仲謀様の右目の下に涙の痕があった。 仲謀様は袖口で目元を押さえ、やがて上を見上げる。大きく息を吸って吐く。強く歯を噛み締めて、顎が強張るのが分かった。 一人でおられる時にくらい、泣いてしまえば良いものを。 だが、たとえ一度でも泣くと、脆くなってしまうものかもしれない。それは、分かる気がする。張り詰めて立っていないと、一度座ったら二度と立てず、意識も急になくなってしまうことがあるのは、知っているから。
だが、そうして張り詰め続けて、今日のようなことを繰り返すのだろうか。 ……いつかは、そうして耐え抜いたことを力にして、より大きく強く、国を支えていかなければならないのかもしれない。 それが孫家に生まれたこのかたの、さだめなのかもしれない。 伯符様が父君の後を継がれたのも、同じくらいの年頃だったと聞く。 だが、あのかたと仲謀様は、違うのだ。 よくは知らないが、伯符様の追われた父君の背よりも、仲謀様の追われた伯符様の背のほうが、ずっと大きく大切なものだったように思えてならない。
他の誰が、どういう理屈でなにを言おうと。 ……仲謀様自身にすらいらぬ世話だと言われるかもしれずとも。 俺は、一度きりでもいいから、国のこととか先のことなど忘れて、思う存分に伯符様を思い、哀しまれてもいいのではないかと、言いたかった。
余計なことかもしれない。 必死に立っているところを、後ろから膝を突くような真似なのかもしれない。 俺には……その肩を支えて差し上げるような力もなく、そんな真似は出すぎたことと許されないとしても、しろと言うことがあるならばなんでもする。無理も無茶もない。そうすることで少しでも貴方が楽になるのならば、できないことなどない。きっと。
「仲謀様」 俺が下から小声で呼ぶと、仲謀様は背後を振り返った。当然、普通ならばそこから聞こえるはずだろう。 「下です。下にいます。今の俺は、そこから訪ねられる身ではないので」 言うと、 「何故ここに……!?」 身を乗り出して見下ろしてきた目元から俺の目に、雫が一つ落ちて入った。 「無礼は承知の上です。公奕の忘れていった酒があることを思い出しました。俺一人では飲みませんし、公奕もなにかと忙しく、他に誘ってくれる相手もいません。……本当ならここに入ることも咎められる身で、気安く話し掛けていいはずのないことはわかっていますが、もう一度だけ、一緒に飲んでもらえませんか? これを最後にしますから」
ご自分の立場。 兵として守るべき秩序。 そういったことを考えれば、俺のしていることは咎められる一方のことだ。呑気に酒など飲んでいていい時ではない、ましてや勝手にこんなところに入り来るとは何事か。仲謀様のお立場としては、そう叱り、相応の罰を言い渡さなければならない。 そうされても、俺は構わない。 ただ……息苦しくないのならば、いいのだが。
「……馬鹿だな、おまえは」 仲謀様が室内へと振り向きざま、呟く。 「部屋の前に見張りがいるのを退かさないとな。静かに入れよ」 遠ざかるのへ、ほっとすると同時に、酒樽だけでも取り込んでもらえないかと思ったが、仲謀様の右腕が顔の前へ行くのを見て、分かった。 ―――これでいい。 束の間でも休むことで、再び立つ時により強くあれる。そういうことは、きっとあるはずだから……。
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