陽炎の月

 孫策様が亡くなられた。
 慟哭の声が幾千と、空を震わせている。
 泣いて送る礼。
 けれどそればかりでなく、泣かずにいられない者も少なくないようだった。
 けれど俺は、どうしたことか、哀しいという気持ちの欠片すら、心になかった。
 咎められても、言い訳ができない。
 恩知らずと罵られても。
 聞き飽きた罵声だ。
 不敬であると言い渡され、蟄居を命じられたことも、俺にはどうでも良かった。

 与えられた屋敷は広いが、俺が使っている部屋などたかが知れている。自分でできることを他人にやらせる趣味もないから、飯炊きの婆さんを一人雇っているくらいで、あとは誰もいない。
 飯炊き婆は耳が遠く、ほとんど口もきかないが、だから俺には心地良かった。作る飯が美味いのか不味いのかは、よく分からない。食って毒でないならいい。
 なにも尋ねては来ない。俺もいちいち、説明しない。
 夕飯の支度を済ませた婆さんが帰っていくと、俺は一人になった。

 寝台に転がって、天井を見る。
 孫策様には、賊であった俺たちを受け入れてくれ、人並みの暮らしを与えてくれた恩もあった。
 俺には……眩しい人だった。
 いつも笑っていた。深刻な顔など見せず、どれほどの難局にもすぐに笑って向かい合われた。
 俺にも、笑ってくれた。
 ちゃんとした家に生まれて、真っ当に育てられ、名誉な父を持ったかたが、賊上がりの俺を一度も蔑まなかった。
「頼りにしてるぜ」
 と肩を叩かれた時には、驚いた。それほど強く叩かれたわけではないのに、いつまでもその感触が肩に残っていた。

 俺は、あのかたが好きだったはずだ。
 一国の主としては、いくらか血気にはやりすぎるきらいはあったが、ついていけないと思ったことは一度もなかった。なにせ若いのだ。燎原の火に似た気性が、いつも眩しかった。
 先のことなど悩まず、すぐにも動いてしまう。事が悪くなったならば、なんとかするためにまた動けばいいとばかりに、躊躇いがない。
 迷うことはあれど諦めることはなく、動く労を惜しむことがない。
 初夏の風と日差しに似た、心地良い人だった。

 その心地良さのまま、一抹の躊躇と共に、一度だけ口付けられたことがある。
 悪戯だと孫策様は言ったが、その言葉を信じるには向かない、苦しそうな哀しそうな目をしていた。
 今でもその顔を覚えている。
 そんな行為を厭わしく思わなかったのだから、俺が孫策様のことを嫌いでなかったことだけは、間違いない。
 なのに何故俺は、哀しいと思わないのだろうか。

 人は、何故ああして泣けるのだろうか。
 涙は、どうすれば出てくるものなのだろうか。
 哀しんでいいはずの、哀しまねばならない時にさえ、俺には涙の出し方が分からない。
 哀しい―――というのは、どういうものなのか。

 起き上がって窓から表を見ると、月が庭を照らしていた。
 煌々と降る光で、夜は藍色に色づいて、木々の影が黒い。
 月明かりの庭に下りれば、足元に自分の影が刻まれた。
 青白く冴えた月。
 冷たく感じる。
 池に映った月もまた青く、凍りついたように動かない。
 拾い上げた石を投げれば、波紋に崩れて揺れ、やがて少しずつ、元に戻る。

 ……哀しい、というものは分からない。
 だが、こんな意味もないことをする以上、なにかがきっと、俺の中にあるのだろう。
 元に戻った月の中へ、また一つ石を投げた。

 幾つ目の石を投げた時だろうか。
 乱された月を眺める視野の端に、入るものがあった。
 池の端に立つように、朧げな、曖昧な、そこになにがあるとも分からないのに、ほんの微かに、向こうの景色が歪んで見える。
 なにかと目を凝らして見れば、水に映る月の隣。
 水面に、孫策様の姿があった。

 池の傍に立つように、映る姿は池に臨んで、それがやがて、振り返る。
 水の中には後ろ姿。
 だが、陸にはなにも見えはしない。
 目がおかしくなったかと擦るが、その姿はなお、月の隣に映っている。
 近付いて前に立つと水の上で姿は重なり、孫策様の向こうに俺の体が透けて見える、まるで陽炎。
 いるはずの場所へと手をのばせば、虚しく空を掻くばかりで、水面で彼の姿だけ、石に当たった月のように揺れた。


「孫策様……」
 声に出して呼ぶと、後ろ姿が頷いた。
 水に映る像が、俺のほうへと一歩近付く。
 草を踏む音も、息も、声も、なにもない。
 顔も見えない。
 池の中で腕が上がる。
 池を、あらぬ方向を見る俺の顔を、動かそうとするように手で挟む。
 だがなにも。
 俺にはなにも。
 触れはしない。

 肩のあるはずの場所へと、水鏡を頼りに手をのばせば、また水の中の月のように揺れて壊れ……。
 ゆらゆらと崩れたまま、見定めることはできなかったが、孫策様の水像自体が、また少し動いたような、そんな気がして、不意に蘇ってきたのは、唇の上、かするような感覚。
 思わず掻き抱けば、この腕の中にはなにもない。
 池を見れば、その姿もまた、消えていた。

 静まり返った水面に、俺の他にはただ一つ、青い月。
 池から離れたのかと振り返れども、姿など何処にも見えず、あったとしても見ることも叶わず、
「孫策様!」
 呼んだところで、池には月がただ一つ。
「おられるなら、ここに来てくれねば、俺には……!」

 見えない姿を探して庭を、映ることを願って池を。
 月はやがて池の上を去り、朝の光に池の底が透く。

 明日もまた、池の傍に待てば会えるだろうか。
 だが何故か疑いようもないほどに、あれが最後という気がしてならず、俺は初めて、「哀しい」という思いを知った。
 目に焼きついたのは揺らめく背中。

 池の端に立つ。
 映り込む自分の姿の隣に、もう一度彼の姿が現れることを願って。
 月のある日も、ない晩も。
 俺の中から消え去ってしまったその顔を、なんとか取り戻したくて、たまらずに―――。

 

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