もうやめよう。 夜ごとにそう思いながら、一年が過ぎた。 やめるにもなにか理由が必要だったのだろう。 だが、丁度一年。 孫策様が亡くなり、俺が池の傍に通うようになって、丁度一年だ。 夜半、月が昇るのを待ち、それが池に映る刻を待ち、庭に出る。今日で最後にしよう。そう決めて。
あの日、たとえ夢であれ幻であれ、水に映る孫策様にお会いしてから、俺にはどうしても、あのかたの顔が思い出せなくなった。 どれほど思い出そうとしても、蘇る姿の顔はいつも空白か、さもなければ後ろ姿。 虚栄とは無縁のおかたただったから肖像の一枚もなく、今も顔は抜け落ちたままだ。 こうして通いながら、時折は考えた。 あれはなんだったのか。 幻か、霊魂か、さもなくば、孫策様の姿をとって現れただけの悪霊や妖怪か。 何故俺はあのかたの顔だけを忘れてしまったのか。
考えても分かることではない。 今日かぎりでやめてしまえば、もう考えることもない。 やめてしまおう。 気にかけることなく日々を送れば、ふと気がついた時に、顔も思い出せるようになっているのかもしれない。そんな気もする。
青い月が、池にある。 風は微かに、水面を撫でる。 月明かりの下、映りこんだ木々の枝まで、よく見える。 池の底を泳ぐ魚の、黒い影までも。
城では孫策様を偲ぶため、盛大な宴が開かれている。派手に騒いで飲んで食い、大いに笑い、管弦の音を絶やさずに夜明かしするという。 にぎやかなことの好きなかただったから、湿っぽく厳粛にされるよりはよほど好ましいだろう。 俺は――― 去年のことがある。同じように騒げもしないのに顔を出していても場を白けさせるだろう。去年と同じように、この日は邸に篭もることにして辞退した。
そう告げた時のお偉方の顔を思い出すと、気が滅入る。不忠、不敬ととられて当たり前だと分かっていても。 「おまえに人との調和など説いても無駄か」 などと聞こえよがしに嘆息するくらいならば、いっそ俺など追い出してくれれば良いのだ。 俺は人と付き合うのなど好きでも得意でもない。 一人でいるほうがよほどに気楽だ。 ……月でも、友輩にして。
月はなにも言わぬ。 俺になにも求めぬ。 気にかけもせず、見向きもせず、いつもただここにある。 月のはたにこうして座っている夜が、一番いい。 人の声など聞きたくもない。 風の音と、夜鳥の声と、時折、魚のはねる音。 水の中の月が揺れる。
冷気が空から降りてくる。 薄氷の帳が庭を包む。 季節に見合わぬ肌寒さに、着物の上から腕をさすった。 やけに冷え込む晩だ。 冷えた指先に微かに痺れを覚える。
上に着るものをとりに戻ろうかとも思ったが、今宵一晩だけのこと。 寒さに耐えかねるような身でもない。 月を。 移ろう月がやがて池の上から消えるまで、見送って、見納めにするのだ。 目を離したくはない。
襟をとって喉元から項まで届くように少し引き上げ、暖をとる。 そうして手を下ろすはずみ、ふと目に入った己の甲に、いつの間についたのか定かならぬ痣があった。おそらく、昼のうちにどこかへぶつけでもしたのだろう。触れても痛みはない。ただ少しばかり、月明かりにも分かるほどに青黒くくすんでいるだけだ。数日もすれば、消えているだろう。 そしてまた、月を見る―――。
―――俺の背後に、人がいた。
気配もなく、足音も立てぬまま、水面、俺の背後に、人がいる。 「……孫策様……」 戦装束。 だが、顔が。 眩い月に重なって、顔が、見えない。 「孫策様!」 振り返るが、見えるのはただ庭ばかり。 池に目を戻せば、月を頭に、佇む姿。 ひんやりと、冷たいものが俺の首に触れた。
振り向くことを促すように、ひどく冷たいなにかが顔に触れる。 池から目を離せばなにも見えなくなる。 だが厭おうとも逆らえず、とん、と肩を突かれたような心地がして、草の上に倒れこんだ。 月が―――空の、月が。 だが月しか、空には見えぬではないか……。
「孫策様」 水面を拝ませてほしいと、訴えようにも不意に、喉に冷気が触れて言葉を止められる。 氷のような感触が、首を伝い、肩に触れ、着衣など透り抜けて腹に触れる。 冷気がからみつき、指さえまともに動かせない。 なにをするつもりかと、訝る一方でまさかと。 やがてそれを示すように、見えざる手は更に下りてゆき、脚の間に。
何故。 何故このようなことを、何故俺に。 そんな思いに理由などないとしても、何故それほどまでに。 それとも? これは、俺の心を見透かす魔物の手管というものか。 だが俺は一度として、このようなこと、願ったことも望んだこともない。 俺のことなど気にかけず、あたかも真の孫策様の勝手のように振る舞うことこそ、一つ上の手管というつもりか。
だが、たとえそうであれ、やがて食らうつもりであれ、構うことではない。 思えば俺は、孫策様の気性に触れて、このかたの駆ける天下であれば面白そうだと、従ったのではなかったか。 弟御の孫権様は俺を重く扱ってくれ、力になりたいとも思うが、それは、俺でなくてもできること。 この一年、俺が見たいと望んだのはただ孫策様の顔ばかり。 最早天下にも未来にも、思いを馳せることなどなかった。 このまま食われたとて、なにが悪かろうか。
芯に触れ、奥に入り込んでくる氷の指先に、俺の手指まで感覚をなくしていく。 熱いのは体の深奥のみで、嬲られる体に分かるのは、ただ焼けるような冷気の痛みと、高ぶりだけだ。 「は、……ア……」 愚かにも、誘うように脚を開く。 着物などあろうがなかろうが構わない様子。 己の立てる衣擦れの音と声が、やけにうるさい。 息が白く、空の月にかかった。
「孫策様……」 なんとか口を動かして呼ぶ。ここにいるのは、あるいは孫策様ではないのかもしれぬが、構うことではない。 「顔を……。顔を見せてください。あれから俺には、貴方の顔が、分からなく……」 訴えると、冷たいものが両側から俺の顔を挟んだ。 氷のような心地だけは紛うこともなく分かるのに、手を添え俺の目でも覗いているのかと目を凝らせども、見えるものはただ空ばかり。 「孫策様」 呼べども返る声はない。
「顔を……」 もう一度訴えると、途端、信じがたい力で押し上げられ、そのまま顎を掴まれて、池に頭を沈められた。 胸までが水の中に押し下げられ、激しく揺らめく泡と水の上に、空ではないものが歪んで見える。 空でないもの。 なにかの形。 人の貌だ。 揺れながら、やがて水面が鎮まるにつれ、ようやく顔が―――孫策様の顔が、見えた。 眉を寄せ、泣く直前のように笑っていた。
力は緩まず、月明かりのせいで明るくも冷え切った水の中は音もなく、水面越しに見上げる空に月。その脇にかろうじて、光に消えかかりながらも孫策様の顔がある。 もう忘れるまい。 目を閉じる。 目蓋の裏に、消えずにある。 ああ、これでいい。
孫策様。 俺の命など、塵芥のようなもの。 そこにいるのが悪霊や魔物ではなく、もしか真の貴方であるならば、貴方がほしいと言うならば、俺の命など造作もない。 このまま好きに、消すなり、奪うなり。
まだ息は続く。 だが長引かせることもあるまい。 己の吐いた息が白い泡の塊になって視界を塞ぐ。 冷たい水が口にも鼻にも流れ込んで、白い泡の合間になんとか顔が。 喉を掴む手の力が一際強くなって、更に深く水の内へと押さえつける。滑り落ちて、脚まで池の中に浸かった。 見えない指が喉に食い込み、微かに痛む。 そう深くはない池のはずが、何故か、何処までも沈んでいくような心地だ。 冷たい手に、喉をとられたまま。
月光は翳り、辺りは闇。 魚も空も月も水も、なにも見えない。 無論、俺の命を握る手の主も。 だが目を閉じれば思い出せる。
……孫策様。 これが真の貴方であるならば、俺で良ければ、お供します。 何処へでも、何処までも。 だから、そんなに苦しそうな顔など、もうなさらずに―――。
(終……?) |