「孫策様……」 周泰の目は、どう控えめに見ても、恨めしげだった。 睨まれている孫策は、あさっての方向に視線を飛ばしたまま、渇いた笑いを洩らしている。 「だってよぉ、あんまり必死なもんだから、つい」 ついじゃない、俺はどうなるんだ、と言いたい周泰。しかしどういう事情であれ、相手は主君である。言えるわけがない。ましてや、そこに喜色満面といった様子の孫権が駆けてくると、尚更口は開けなくなった。 「よーへー!」 走ってきた勢いで思いっきり飛び上がって、孫権が周泰の首にしがみつく。素晴らしい跳躍力であるが、これも愛ゆえか。 「けっこん〜♪」 すりすりと、孫権は頬を摺り寄せている。
周泰と結婚したいと言い出した孫権。 孫策は「大きくなったら」などと誤魔化しておいたのだが、そこでふと、孫権が余計なことに気付いた。 「そういえば、わたしはずーっとこんなまんまで、もうなんねんも、ちっともおおきくなってないようなきがする……」 発育不良というより、なんとなく異世界チックに等身も違えば頭の中身も育たない孫権。たぶん今頃十四か十五、それとも十六くらいにはなっているはずなのだが、大人の腰までもないのである。それでちまちま動き回るのが可愛いし、国のことは孫策と周瑜、張昭たちがしっかりとやっているので、誰も問題にしてなかったのだが。 いくらほんわかしているとは言え、「いつまでたっても大きくならないだろうと思って、兄はあんな条件を出したのではないか」、と考える頭はあった。 そして、半泣きで孫策に談判しに行ったのである。
孫策は 「じゃあ、俺に勝ったらだ」 という条件に変更した。これなら孫権も尚一層、真剣に剣の稽古をするようになるだろうという思いもあった。 ところが。 はっきり言って孫策は、この弟が可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて仕方がなかった。 つまりきっぱり言えば、極度のブラコンだったのである。 何度打ち払い、突き飛ばし、転ばせても、必死に立ち向かってくる孫権に、もう泣きながら向かってくる可愛い弟に、心が負けた。 そして、その隙をきっちりと突かれて、一本とられてしまったのである。
約束を破るとなると、たぶん、声が嗄れて喉が破れてでも泣きかねない。 結果、割を食ったのは言うまでもなく周泰。 冗談抜きで、孫権と結婚することになってしまったのであった。 「真似事だって。そういうふり。な?」 孫策に両手を合わせて拝まれると、断ることもできない。まして、嫌だなどと言った日には、孫権が……。 それに、孫権にとって「結婚」とは、「好きな人とずっと一緒にいる」ということなのである。 人にどう思われるかは気になるものの、そこまで一途に慕われれば、無下に突っ撥ねることなどできなかった。 周りの者も、孫権がどういう意味で「結婚」という言葉を使っているかは、よく承知しているのだ。 向けられるのは、苦笑い気味の微笑ましい視線。 まあ、そう悪くはない。 可愛い次男坊にそこまで愛されているのだから。
そんなわけで某年某月某吉日。 身内でこっそりとではあるが、孫権が不服を言わないよう、それなりの作法には則って、二人は無事、結婚した。 ここに一人、悪魔がまぎれこんでいることには気付かぬままで……。 悪魔の名は、……まあ、本人の名誉のために、伏せておこう。
一通りの儀式が終わった後、孫権はこの上もなく嬉しそうな顔をしていた。 文字通り「ずっと一緒にいる」ので、必ず周泰にくっついて動いている。親鳥の後を一生懸命ついていく雛鳥のようで、見ているほうもつい笑みが零れる。 「結婚」した以上、「ずっと一緒」なのだ。 「なあ、周泰。おまえには悪いんだけどな、こいつの気が済むまでは、戦には……」 「承知しています」 戦に出ようものなら、孫権までついてきてしまう。当分は内地勤めにならざるを得ない。 「鈍らぬように鍛錬は続けますし、その時も孫権様が傍におられるならば、お教えすることもできますから」 「そりゃいいな。しっかり仕込んでくれよ。おい、権。ちゃんと教えてもらって、強くなるんだぜ?」 「はい!」 いつもならぶーたれるところが、速攻でこの返事だ。孫策も思わず笑ってしまった。
そうして日は暮れて宴も終わり、月も中天を越えた頃。 少し前まで眠そうな顔をしていた孫権だが、眠気の頂点をこえたのか、急に元気になってきた。 しかし、酒を飲んでいた大人たちは逆に、そろそろ休みたい時間である。 引き上げていく周泰の後に、孫権はやっぱりちょこちょことついてくる。 もちろん、長身の周泰とちっこい孫権とでは、歩幅は四倍ほども違う。 ゆっくり歩くのもいいが……、と周泰は少し周囲を見回して、 (喜ばせて差し上げるのも、いいか) 孫権を抱き上げた。 驚いた孫権だったが、すぐに嬉しそうな顔をしてしがみついてくる。 「よーへー」 「は」 「ずーっといっしょだぞ?」 「はい」 「ずーっとずーっとだぞ?」 「はい」 「えへへ……」 普段は無表情な周泰の顔にも、微笑が浮かぶ。
周泰はそのまま、母屋に向かった。長い廊下の突き当たり、離れとを隔てる大きな扉の前で孫権を下ろす。ここから先は、孫家の者と一部の侍女のみしか入ることを許されていない。 「では、おやすみなさいませ」 よって、当然ながら周泰は引き返そうとしたが……。 「?」 着物の端を引っ張られた。 顔だけ後方に向けて見下ろせば、孫権が頬を膨らませている。 どうやら「ずっと一緒」らしい。 「孫権様。ここから先に入るわけには」 「じゃあ、わたしがよーへーのところでねる! いっしょなんだぞっ」 「それはいくらなんでも……」 「う……。いやなのか?」 うるうるうるっ、と涙ぐむ大きな目。 「……孫策様に、お許しをいただいたこなければなりません」 周泰がこれに勝てるはずがなかった。
孫策の返事など聞くまでもないが、それでもちゃんと聞きに行くのが周泰である。 なお、周泰が予想していなかった言葉がくっついてはきたが、 「言っておくけどな、周泰。おまえに限ってまさかということもないとは思うが、権に妙な真似しやがったら……」 と怖い顔で警告したことからも分かるように、弟の身のほうを案じたのは、たぶん、至極順当な発想だと言えよう。 (俺がなにをするというんだ……) 孫策の言わんとするところは分かるが、主である。こんなに小さいのである。更に言えば、その辺は極めて一般的な感覚しか持っていないのである。 なんにせよ、周泰の感覚としては「子守り」だ。「結婚」などという言葉さえ忘れればいい。
「あ、よーへー。ちょっとまって」 「は?」 「さっきたのんでおいたもの、もらってくる」 孫権が方向転換を求めて服を引っ張った。周泰が言われるままに厨房に向かうと、そこには料理長が、杯を一つ捧げて待っていた。漂ってくる匂いは、酒だ。 「孫権様。お酒はまだなりません」 「わたしじゃなくて、よーへーのだぞ」 「私の?」 「うん。おしえてもらった♪」 なにを、と思ったが、孫権は盆ごとそれを受け取って、さあ行こうと最早聞く耳を持っていない。 嬉しそうな顔を見ていると、深く追及しても仕方がないかと思えてくる。 周泰がそれを後悔するのは、間もなくのことである。
逆らう理由もなければ、逆らう権利もない。 言われるままに、妙に甘ったるい酒を飲み、入れてくれというので寝台の隣にまでいれてやった。いきなり子持ちになった気分だなどと周泰は思っていたのだが……。 (なんだ……?) やけに暑い。 汗が浮いてきて、 「孫権様」 このまま傍にいるのは失礼だろうから、体を流すか、せめて着替えようと考えた。 すると尋ねる前に、 「あつくなってきたのか?」 先手を打たれる。 「は。それで……」 「ふーん。いってたとおりだ。じゃあ、もういいな」 「え?」 孫権はやおら起き上がると、にぱっと笑って体を反転させた。周泰の腹の上に跨る。
「孫権様……?」 「けっこんしたら、しなきゃならないんだぞ。よーへー。しらないのか。だめだなぁ」 「な、なにをです」 「わたしがおしえてやるからな」 その前に俺の質問に答えてくれと思う周泰。 孫権は、嬉しそうに周泰の寝巻きの襟を寛げ始めた。 「孫権様!?」 周泰は体を起こそうとした。が、力が入らない。 (な……) 頭はなんとか上がるが、異様に重く感じる。腕もだ。まして重量のある上半身など、錘でもつけられているかのようである。 「えーっと……」 あどけなく思い出す顔をして、孫権は、周泰の体にくっきりと浮かんだ筋肉の溝を、小さな手の指先で辿り始めた。 「なっ、なにをなさるんですか!」 くすぐったくてたまらない。それのみならず、ただ触られているだけで肌が粟立つのは、どう考えても異常だ。心当たりはただ一つ。 「孫権様。先ほどの御酒はいったい……」 「んーと、『しょや』におよめさんにのませるといいっていってた★」
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