おとなしく寝ているように言いつけて、邪鬼を含め全員、その日の日程をこなすべくセンクウの部屋を出た。
 昼にまた見に来てやらねば、と思いつつ、影慶は羅刹を窺う。
 あまりにも日頃の彼と違いすぎる。
 これがもし、何か大きな問題の前兆だとすれば、今の内に問いただしておくべきかもしれない。
 だが、その「違い」というのは明らかでありながら、さして大きくはないのだ。
 どうするべきか、と悩んだものの、結局は聞けないまま、それぞれの場所へと分かれることになった。

 朝の一件で懲りたのか、昼休み、センクウのもとを訪れたのは影慶だけだった。
 今朝よりは少し落ち着いたようだが、まだ返事も曖昧な病人ぶりに、あらためて呆れる。
「少しは方法の改善に努める気になったか?」
 枕もとに寄せた椅子に掛けて問うと、「いや」とこそ言わないが、不服そうな顔をされた。
 ややあって、
「今更、無理だ」
 と言われる。
「何が今更だ」
「いや、本当に。これは、昔っからで……誰に教わったというより、こうするしか、なかったからこうなった、だけで」
「こうするしかなかった、って」
「食わずにおこう、としたことなんか、なくてな。本当にただ、胃が受け付けなくなるだけなんだ。何度も、試してはみたんだが……食っても吐くだけで、それでまた、疲れるし……。だから、最小限のエネルギー代謝で、なんとか体調を整えようと……」
「おい」
 切れ切れに喋るのを、影慶が不機嫌に遮る。
 心底、呆れ果てた。
「何百年の昔でもあるまいに、今は栄養剤だのなんだの、便利なものがあるだろうが。そんな一見まともな理屈こねて、なにを馬鹿げたことをしてる」
「う……」
 さすがに、反論できなくなったようだ。
「それは……なんとなく、ずっと、こうしてきたから……」
「五歳や六歳の子供でもあるまいし、そんなくだらん言い訳が通じると思うな。安易に薬に頼るのはまずいだろうから、三日程度ならそのやりかたも認めてはやるが、いいか。今度からは三日過ぎたら自分で処置するなり、誰かに頼むなりしろ。今度またこんなふうに倒れたら、簀巻きにして川に捨てるぞ」
「なんなんだ、その発想は……。だいたい、こうなったのだって……」
「あと一日や二日はもったかもしれんがな、どうせこうなったに決まってるんだ。がたがたぬかさずに黙って『分かった』と言え」
「……黙ったまま『分かった』なんて、言えるわけない……」
「センクウ!」
「わ、分かった……」
「よし」
 矛盾を無理やり通し押して、影慶は浮かせかけていた腰を落ち着けた。

 影慶には昼以降の予定はない。
 放っておくとまた何か馬鹿な理屈で馬鹿なことをしかねない、と、このまま見張るつもりでいる。
 最初こそ影慶の監視が気になる様子だったセンクウだが、諦めたのか慣れたのか、やがて目を閉じた。
 それでやっと一安心して、影慶は書棚から適当に一冊、ペパーバックをとる。
 カバーがかけられていたせいで分からなかったが、開いてみれば洋書だ。
 英語くらいならば苦もなく読める影慶は、そのまま、安っぽいヒューマン小説らしきものを読み始めた。

 一時間ほどかけて、半分ほどは読んだだろうか。
「影慶」
 呼ばれて、活字から目を上げる。
「手を貸してくれ」
 と言うので何かと思いながらも、起こしてやる。
 起き上がると、眩暈でもするのか、センクウは俯いて手の中に顔を埋めた。
 うめきのような喘ぎのような、洩れた声がやけに苦しそうにも聞こえる。
「なんだ。俺で片付けられる用なら、遠慮するな。寝ていろ」
「いや、汗が……気持ち悪くて、寝苦しいから、シャワーでも」
「阿呆か貴様」
 皆まで聞かず、顔を押して寝台に押し付けた。
「何するんだ。乱暴な。病人なんだぞ」
 たしかに、ひどい汗でこれではさぞ寝苦しいだろうとは思う。
 しかし発汗はそのまま体温調整のための現象で、それだけ体に異常が起こっているということの証だ。
「病人が馬鹿げたことをぬかすからだ。その熱で湯だの水だの浴びてみろ。夜には二度増しだ。年くってからの高熱はな、脳に多大なダメージを与えることくらい知らんのか。これ以上おかしくなられてたまるか」
「なんなんだ、それは……。俺は別に、そうおかしくも」
「黙れ。寝苦しいなら拭いてやる。これからしばらくはおまえの専属看護人だ。ありがたいと思ってよく感謝しろ」
「どうせなら、美人の看護婦のほうが」
「そういうくだらん馬鹿をほざける余力があるなら、浪費せずに蓄えて、黙って寝てろ」
 もう一度力をこめて枕に押し付けておいて、影慶は椅子から立った。

 着替えの寝巻きの在り処は、朝にタオルを探した時に見つけて知っている。
 タオルを二枚、湯に濡らして固く絞ると、それと共に持って戻った。
「美人の看護婦さん……」
 妙な呟きが聞こえた気がしたが、熱でおかしくなっている、ということにしておいて、影慶は無視することに決める。
 しかし、
「……男前の看護人も、悪くはないか」
「ぶっ」
 面と向かって言われて、照れる以前に呆れた。
 見やると、面白そうに笑われる。
 まるで興味のない外見のことだ。何を言われても大したことではないが、さすがに、よく知った者の口から聞かされると、揶揄されているようで落ち着かない。
「くだらんことを。そんなことはいいから、ボタンくらい自分で外せ」
「サービスの悪い看護人だな、まったく」
 付き合ってやるだけ馬鹿らしい文句は聞き流し、影慶はタオルを広げて畳みなおす。
 そしてふと。
「センクウ」
「ん?」
「心配されるのが鬱陶しいというなら出て行くが、もし単に遠慮してるだけなら、軽口など叩いてないで、おとなしくしててくれ。どうも、おまえが本当に平気で口をきいているようにも思えんのでな」
 ノリに任せて応酬していると、本当のことをつい見失いそうになる。
 自覚してやっているのか、無意識にとっているのかは分からないが、それがセンクウの手だ。
 普段ならそれに合わせてやるのは楽しくもあるが、今は、そういう場合でもない。
 はっきりと牽制する。
 少し呆気に取られたような間があったのは、たぶん、無意識にしていたことだったせいだろう。
「ああ、分かった。すまん」
 それでやっと、センクウは本当に口を閉じた。

 起きているのがあまりにもつらそうなので、とりあえずは寝かせたまま、顔や首を拭いてやる。
 袖を抜かせて腕を。少し抱き上げて肩を。それから自分に寄りかからせて、背中。
 その間にまた額を濡らしはじめた雫を、タオルを取り替えてもう一度。
 今朝よりはましになったが、それにしても、寄りかからせた左半身に伝わってくる熱は、影慶まで汗ばむほどのものだ。
 そもそも四十一度もあった高熱が、二度ばかり下がったところでまだ三十九度である。
「ほら。次は脚だ。脱げ」
「……そう言われると、何か妙な気分だな」
「勝手に一人で妙になってろ。それとも脱がして欲しいのか」
「影慶。そういう台詞は、こういう時じゃなくて」
「ああ駄目だ。おまえと話していると余計なことにしかならんな」
 だから喋るな、と言いつけて、影慶はウェストを締めている紐を解きにかかった。

 ところで「ノック」というものは、欧米ではそれは「入っていいか?」という問いかけであり、返事を待ってしかるべきものだが、日本では「入りますよ」という合図と変わりない傾向がある。
 だから、ノックされて返事をする前に、ドアが開くことがある。
 そして今も。
 ココン、と軽いノックが聞こえた後には、ノブが回っていた。
 もちろん、よく知った間柄であり、そうしても失礼にはならない、問題はなかろうという親密さがあればこそなのだが。
 入ってきた羅刹は、目を見開いてしばし硬直し、
「すっ、すまんッ!!」
 と真赤になって逃げ出していった。
 バタバタと遠ざかっていく足音まで聞こえる。
 呆気にとられていたセンクウは、やがて仕方なさそうに溜め息をつく。
 それを聞いて影慶は、事の次第を把握した。

 今のこの状態が、かなり誤解を招きかねないことは客観的に分かる。
 センクウの性分というか、ものにこだわらない性格については羅刹も知っているはずだから、もしこれが何事もなかった時であれば、「こんな時に何をバカなことをしている」と怒鳴りそうなものである。
「センクウ。無闇に色気を振りまくな。大事になってから慌てても知らんぞ」
「やはり、バレるか」
「あれを見て気付かんわけがあるか。ああいう堅物は事を遊びにしておけん。おまえの性分を知っていればこそ、勘違いすることもないだろうが……」
「まあ、な。俺も、少し早まったかとは、思った。が、ふざけたつもりは、ないぞ?」
「分かってる。払いに見合うと思えばこそだろう。自粛してほしいところではあるが、説教は後だ」
 もう上体を起こしている必要はない。
 影慶はセンクウを寝かせてやってから、残りに取り掛かった。

 ただ、そんな話をしたものだから、余計なことを意識せざるをえない。
 だからそれがなんだ、というようなことなのだが、考えるつもりもなくふっと頭の中に浮かんできたことがあまりにも馬鹿馬鹿しくて、影慶は一度その場を離れた。
 タオルを洗いなおしに行き、今しがた思い浮かんだくだらないことを頭の中から追い出すように努める。
 センクウの、性にこだわらないある種の淡白さについては承知していたが、そのことをこれまで、リアルに考えたことはなかった。
 好きだと思えば男も女もなく、また触れることにも抵抗がない。
 それが身に流れる西洋の血や遺伝子のせいなのか、それとも育った環境に何か関わりがあるのかは知らない。そもそもお互い、男塾に来る以前のことについてはほとんど知らないままなのだ。

 何があってどういう話をしていたのかは記憶にないが、二年ほど前だったか、
「いい男だな。キスしていいか?」
 と言われたことなら、影慶もある。
 何事かと思ったが、あまりにも自然に笑っているものだから、ついOKして、唇に、キスされた。
 頬くらいを予想していたせいで驚きはしたが、気持ちが悪いとは思わなかった。
 むしろ、粘りつき絡み付いてくるような、それを当たり前だと信じて疑わない女との口付けのほうが、影慶にはつらいものがある。
 比べて気付いたのは、センクウのそれは、入り込もうとも奪おうともしない、本当にただ触れるためだけのものだ、ということだ。
 何も押し付けない、何も求めない。
 ただ触れて確かめる。
 顔立ちや雰囲気もあるだろうが、嫌悪感はなく、むしろ心地好い。
 以来、この男はそういう奴だと了解して、特別何も思ったことすらなかった。
 だが、今頭の内に沸き起こったものは、あまりにも生々しかった。
 ―――この体が羅刹に、どういうふうに触れたのか。
 ―――この体に、羅刹がどう触れたのか。
 思いがけず湧いてこようとする感覚を、影慶は急いで押しとどめる。
 苦く、虚しくもあるもの。
 自覚はしたくなかった。

 ベッドサイドに戻ると、放り出されている間に寒くなったのか、センクウは引き上げた毛布にくるまっていた。
 ただ、余計なことを察してしまったらしい彼の目に、影慶はぎくりとする。
「おまえでも、その気になるか?」
 椅子に腰掛けると、そう問われた。
 せっかく洗ってきたタオルだが、使うことはなくなったようだ。
「俺は駄目だな」
 答えに混じる自嘲を消せない。
 毛布の下から現れた手が、脚に触れる前に掴み止める。
「よせ。病人がくだらんことを考えるな」
「……冷たい手だ」
「まあな」
 咄嗟に出した手は利き手、右。
 人といる時には決して外すことのできない、頑丈な金属繊維の手袋だ。
 その温度はほとんど外気と変わりなく、たとえ夏でも冷えているのは、体温のため。
 血が凝らない程度ではあるが、おそらく右手は二十度ほどしかない。
 センクウの意思を確かめて手を放し、代わりに、黒い繊維に包んだ手で額に触れてやる。
「しばらくこうしていてやろう」
「……首のほうがいい」
「我が儘だな」
 苦笑しつつも、言われるとおり、首筋に触れる。
 ぬるんだら、甲に代えて。

 やがて眠ってしまったセンクウに気付き、影慶は人の体温に染まった自分の右手を見た。
 こんなことになら役立ちもするのか、と思うと笑いがこみ上げてくる。
 こんなことにしか役には立たないのか、と。
 けれど、こんなことでも、役立つこともあるんだな、と。
 そしてもう一度、熱を放つ首と頬に触れる。
 薄く開いた唇に、ふと口付けたいような衝動を覚える。
 触れるだけ。
 何も押し付けず、何も奪わないキス。
 ただ愛しくて触れるだけの、親愛の口付け。
 だが、吐息が触れる距離にまで近づけながら、影慶は背を起こし、椅子から立った。
 用意してやるべきものを考える。
 もう氷枕の中はただの水だろう。
 夜にはもう一本栄養剤でも与えたほうがいい。
 水差しの水を取り替えて、飲むものは飲めるというなら、何か果物でも買ってきて搾ってやるのもいいかもしれない。
 影慶はセンクウの部屋を出て、後ろ手にドア閉めた。


(前編・終)

ここまででも一つの話として完結するので、あえて分けることにした。
▼2程度になったと思われる『甘い毒・後編』へはタイトル(←)からどうぞ。
これくらいの「テイスト」が好きなかたはお戻りを。
……って、そんな人はハナからここ見てないネ(笑