甘い毒 後編

 口付けて、抱きとめる。
 腕に加わる重みと温かさが、心地好く胸を圧す。
 冷たい手で髪を梳いてやって、もう一度瞼の上に。
 そしてもう一度、しっかりと抱き締めた。

 

 熱は引いたが大事をとらせようと、全員一致であと一日の静養を言いつけた。
 さすがに丸二日身動きもままならない状態だったのだから、本人も少しは反省したらしく、不満そうではあったが、文句は言わなかった。
 その夜のことだった。

 影慶がもうそろそろ寝ようとして、書きかけの書類をまとめていた時、辺りを憚るような小さなノックが聞こえた。
「なんだ?」
 気配さえひそめられていて、誰かも分からない。それでも、誰か知った者であることは間違いない。
 ドアの外へと言うと、隙間を作っただけのドアからするりと滑り込んできたのは、センクウだった。
 椅子にかけたまま、体をそちらに向ける。
「どうした、こんな夜中に」
 治ったと思って油断すると、またぶり返す。
「治りかけが一番危ういんだ。用があるなら明日にしたらどうだ」
「用、か」
 前に来たセンクウが、微かに笑った。
 何故か、何かを諦めたような、おかしな笑い方。
 影慶がそれを訝る間に、のばされた腕が肩に触れる。
「おい」
 触れて抱き、しなだれかかるように、両足の間に膝を落とす。
「何を考えている」
「何? 一つだけだ」
 椅子の背ごと抱くように、センクウは影慶の腹に顔を近づけた。

「いい加減にしろ」
 肩をとり、引き離す。
「いきなり押しかけてきて、何をくだらんことを」
「俺ではその気にならん、ということは、ないんだろう?」
 暗に示される、数日前のこと。
 やはり勘付いていたか、と影慶は苦々しく舌を鳴らす。
「その気になるとかならんとか、そういうことじゃない。やっと今朝になって出歩けるようになった奴のすることか」
 強く言いつける。だが、
「ああ」
 あっさりと答えられた。
 その顔に、笑みはなかった。

 あまりに真摯すぎて、影慶は言葉に詰まる。
「我慢したんだ。本当はあれからすぐにでもしたかったんだがな。それはさすがに無茶だろうから、今日まで待った。だが、もう限界だ」
 肩を掴んだままの影慶の右手に触れて、頬を寄せ、目を閉じる。
「冷たいな」
 浮かぶのは、痛み混じりの微笑。
 開いた目の中に見えたものに、影慶は、何故センクウがここに来たか、その本当の意味を知った。
「馬鹿かおまえは」
 それしか言えない。
「馬鹿でいい。利口になって失くしたくはない。影慶。キスしていいか?」
(また、それを言うのか。今……)
 答えに言える言葉を知って、疼く胸の痛み。
「やめておけ」
 だが、許諾を得ないまま近づけられる顔から、逃れることもできなかった。
 頬を両手で包まれるまま、その微かな力に抗わずに背を屈め、触れ合わせる。
 諦めて、教えるために、口を開き導く。
 センクウの顔が驚きに跳ねたことを知り、影慶はそのまま笑った。
「やはり、まともじゃないんだな」
「影慶。……待て。おまえは、気付いてなかったのか? じゃあ、まさか」
「どんな味がした。俺には……もう分からん」
 そう言って、影慶は笑って見せた。

 右手で、金色のはずの髪を梳く。
「味覚だけじゃない。舌の感覚もほとんどない。目も、あまり色をはっきりととらえられなくなっている。おまえの髪の色など、白くしか見えん。その目も、灰色だ」
「影慶」
「この手のせいだ」
 開いて見る、黒い布に包まれた手。
 からんできた白いものは、金色をしているはずの、センクウの髪か。
「今の俺の体は、毒の塊だ。リスクが大きすぎる。……そのために、来てくれたんだろうが」
 毒に染めた右手。
 それは命は奪わなかった代わりに、他の様々なものを奪い取っていった。
 今の影慶の目には、元から色の薄いものは白くしか見えず、黒に近かったものは黒くしか見えない。鮮烈なほどの赤や緑、黄色でさえ、グレーがかって曖昧だ。
 八連制覇が終わって死の淵から生還した時は、これからまだできることもあるのかと、生き長らえたことを喜べた。
 だが口に入れたものに味がなく、次第に視界から色が薄れ、自分のしたことのもたらしたものを知った時には、笑うしかなかった。
 生き延びた代わりに、人生の楽しみの大部分を失ってしまったのだ。
 おそらく、と水槽に落とした己の血で魚も死んだ。
 無論、そんな体で、女は抱けない。

 影慶の自嘲、自制の理由と意味を、センクウは察してしまったのだろう。
 確かに、少し考えれば想像はつく。ただ誰も、こんなことを深く考えようとはしないだけだ。
 だが怪訝に思ったことで、センクウは考えてしまった。
 そして、やってきた。
 だが彼が想像していたよりは、遥かに毒に冒され、毒に馴染んだ体。
「やめておけ。命に関わる」
 影慶はもう一度言いつけた。
 黙って聞いていたセンクウは、眉を寄せ、そのまま首を横に振った。
「だったら尚更だ。俺の体ならいくらかは耐性もある。それに、勘違いするな。おまえを憐れと思って抱かれに来てやったわけじゃない。それでもこうして生きているおまえを、抱きたくて来ただけだ」
 センクウはそのまま伸び上がって影慶の唇に軽く口付け、椅子の上から軽々と抱き上げた。
「お、おい!?」
「心配するな。本気で抱こうって意味じゃない。ただ、気分的にな」
 沈んだ雰囲気を払拭するように、悪戯めいた笑みを見せる。
 病み上がりの弱さは何処へいったのか、影慶はそのまま寝台の上に放り出される。
「退屈はさせん。覚悟だけ決めてくれ。俺のことは、案じるな」
 傍らで上下とも衣類を脱ぎ捨てて裸になるセンクウに圧倒されて、影慶は逃げることも制止することも、できなかった。

「よせ。いくらそう強くないとは言え、毒は毒だぞ」
「そう強くないなら、効かん可能性もあるな」
 撫でるようにして影慶のシャツのボタンを全て外し、ベルトを緩める。
「センクウ!」
「心配するな。ちゃんと用意もしてきた」
「用意って」
「言ってやらんと分からんか?」
 艶めいた笑い方にぎくりとすると同時に、センクウの意味するところも分かって、影慶は呆れ果てた。
 そこまでしてしたいと思うことか、と思うと、呆れて力も出ない。
「……羅刹はさぞかしあっさりと食われただろうな」
 思わずそう皮肉を聞かせる。
「おまえはどうだ?」
 だがそう問い返されて、嫌味も皮肉も通じないことを悟った。
 滅多に我を張らないが、張るとなれば他の誰よりも頑固なのがこのセンクウだ。
 ここまで腹を決めて来てしまっている以上、何をどう言ったところで引き下がりはしないだろう。
「相手はしてやる……、いや、してもらおう。だが、それなら。そこの机の引出しに薬が入ってる。毒性が強くならんよう、抑えるためのものだ。おまえも飲んでおけ。いくらか中和剤として効くはずだ」
 センクウの言うとおり、覚悟を決める他ない。
 毒の災いに巻き込む覚悟を。

 センクウが薬をとりに離れた間に、影慶もシャツとランニングを脱いで上半身を露にする。
 脚は、まずい。
 半ば自棄だったといってもいい。
 ただ戦うため、それも相手を死なせることを前提として戦うためだけの、喜びのない体。
 それならいっそ徹底的に戦いの道具にしようと、足まで片方、毒に染めた。
 これは王大人を説き伏せて彼の協力で行ったもので、毒性は手ほど強くはないが、やはり血に混じれば深刻なダメージをもたらす。
 ただ、察しのいいセンクウは下を脱がないことの意味に気付いてしまいそうで、それだけが気掛かりだった。

 水もなしに錠剤を飲み込んで、振り返ったセンクウが何かに気付いたのかどうか。
 気付いてそれを見せたところでなんの良いものもないと、あえて問わなかっただけかもしれない。
 戻ってくると、寝台の端に腰掛けて身をひねり、影慶の首に腕を回す。
 口付ける代わりのように、頬に頬を合わせ。
 ゆっくりと吐かれる吐息の音に、影慶は思わず肌を粟立てた。
「色気の塊かおまえは」
「感じるか、これだけで? うろたえるな。可愛いじゃないか」
「俺は羅刹ほど朴念仁でもないが、おまえや卍丸ほど達観もしてないんだ」
「達観なのかな、これも」
「悟りの一種だろう。命懸けになってまで、俺の相手をしようなどと」
「馬鹿だな。好きだからに決まってる」

 さらりと。
 だがすっと心の奥に滑り込み、響く。
 見つめた目が、緑に見えた。
「人を好きになるだけで悟れるなら、色も欲も断った坊主の生涯なんて、無意味の極地だな」
 その目が近づいて伏せられ、唇が合わせられる。
「っと。忘れてた」
 歯列に触れて離れ、センクウが苦笑する。
「どんな味がする」
「苦い。良薬口に苦し、とかいうレベルに苦い。薬臭いというか」
「これで良薬なら我慢もさせるところだが」
 影慶は唇だけを目尻から耳へと滑らせ、息で触れる。
 耳にかかった髪の流れを舌で辿る。
 風呂上りなのか、洗髪料の柔らかな香(あじ)がする。

 自分のものに触れてくる手を感じながら、センクウの下肢へと手を這わせた。
 やけに大きく反応するのは、温度のせいかと思ったが、
「影慶……。その手でするなら、少し加減してくれ」
 影慶の手を上から軽く押さえて、センクウが囁く。
「ん?」
「手袋のままだと、痛い」
「ああ、そうか。しかし、俺も加減がよく分からんしな」
 直接肌に触れるわけでもない上に、微妙な感覚は把握できない。
 しかしこの態勢だと左手では不自由が大きい。
「センクウ」
「うん?」
「俺の好きにさせてくれるんだろう?」
「え?」
 問い返すのを無視して、影慶はセンクウの体を完全にベッドの上に引き上げ、自分の前に座らせた。

 背中から抱いた形で、回した手をからめ、首筋にかかる髪を舌先で払い、唇を押し当てる。
「お、おい。俺は、いいが、これだとおまえが」
「センクウ。俺に触れず、俺をその気にさせてみろ。どうだ、できるか?」
 左手はセンクウ自身に置いたまま、温度のない右手を下腹から腰と脇、胸から首、口元へと這い上げる。
「この体と、声だけでな」
「エ……ケイ……っ」
「羅刹では、こうはいくまい?」
 耳元に囁く、この場にいない人間の名。
 それに嫉妬や焦燥を覚える関係ではそれぞれにないが、何か漠然とした背徳の気配が漂う。
「おまえでも……、こうくるとは、思ってなかったが……」
「もっと堅いと思ったか?」
「あ、あ……っ」
「それは返事か?」
「その、つもりだ」
 小さく、笑いあう。
 それからは、言葉が失せて、潤む吐息だけ。

 隣は卍丸の部屋で、物音も聞こえる。
 逆側は空き部屋を挟んでいるが、突き当りに邪鬼の私室。
 多少の話し声程度ならば通る心配はないにせよ、声を立てるのは憚られる。
 左手だけを敏感な部分へ這わせ、その場所を変え、センクウを煽りながら、影慶の右手は口を覆い、指を噛ませていた。
 隙間から洩れる微かな声と、間断なく吐かれる熱っぽい息。言葉の代わりに語るのは、指に伝わる感触。
 軽く噛まれているくらいでは痺れに近いが、さすがに時折、それが痛みに変わる。
 その反応を確かめながら、少しずつ高まってくる自分の感覚に意識を任せる。
「どうだ。イイ、か?」
 問うと、頷かれる。
 ちらりと覗いた横顔の、汗に濡れ、うっすらと涙の溜まった目に背筋がざわめく。
 右手をセンクウの口から離して下ろし、左手の在り処より、更に下へと潜り込ませる。
「は、ア……ッ!」
 し、と耳に吹く。
 センクウは自分の手で口を覆った。
「噛むなよ。おまえの手は、傷がないほうがいい」
「無茶、言う……ッ……!!」
「さすがに、きついな」
「影慶……っ、手袋の、まま、は……、痛……」
 本当に痛いらしく、目にあった涙が流れていく。
「少し我慢してくれ。乱暴にはせん」
 それを唇に受けて舐め、甘いような潮。
 感覚が一時的に鋭敏になっているのか、そんな味がするような、気がする。

 顔が見たい、と思って、そのまま横に身をずらし、影慶は寝かせたセンクウに半身をかぶせた。
 これまでに一度でも、そんなことを思いながら女を抱いたことがあっただろうか。
 いくらか苦しそうなセンクウを見下ろす。
 ゆっくりと、慎重に、身の中に埋めた指に力を加える。
 その力に押されたかのように、浮き上がる腰と、しなる背。
 それを上に置いた体で押さえ、より深く、強く、悦楽の在る場所を探る。
「や……っ、あ……」
「気付かれるぞ」
 そう囁きながら、口を押さえようとする手をとって阻み、指の脇からもう一本、指を増やす。
「影慶……ッ」
「シッ。……痛くはないだろう?」
 もう答えない。
 口を開けば出るものは一つしかないと分かっている。
 声を出せないこと、それはそのまま、すぐ傍にいる三番目の人間の影。
 それを証明して、静かな部屋に届いてくる音。椅子を引いたのか、それとも棚の扉でも閉めたのか。
 朱を帯びて上気した顔を見つめると、胸が詰まる。

 顔が見たいとか、もっと感じさせてやりたいとか。
 それほど執着や、あるいは愛情を覚えた女というものが、果たしてあっただろうか。
 心を許すほど真剣に恋したことなど、おそらく一度もない。
 おざなりに触れてきた女たちに比べれば、今こうして共にある仲間たちのほうが、はるかに強く思いに響く。
 さして苦もなく自制してきたものが、何故センクウの姿一つで揺らいだのか、これがそのわけのような気がした。
 裸の熱に触れてあまり違和感のない、綺麗な容貌をしているというのもあるだろうが、掛ける心がなければ、求める気にもならないというものだ。
 今この目に映る色も舌に触れる味も、全ては記憶の成せるわざなのだろう。
 忘れがたく染み付いた、記憶の中の存在。
「センクウ」
(こんな時に名を呼ぶのも、初めてだな)
 自分の声が、耳に甘い。
 名に応じて向けられた、快楽にこらえの効かなくなった眼差しに、制御を振り切るまでに高まる衝動。
 だが、それはまずいと理性の手綱を引き絞った。

「センクウ。持ってきたんだろう。何処だ」
 体液に毒性があることを察して、用意してきた、とセンクウが言ったもの。
 それを使わずには危険すぎる。
 在り処を言わせようと尋ねたが、返った答えは、
「いい。もう、そのままでいい。いいから、来てくれ……」
 離すまいとするほど強く、抱いてくる腕の力。
「待て、それは」
「いいから……! そのまま、早く……」
 哀願の緑。
 一度として見たことのないそんな目を、本当にただ記憶だけで再現できるのだろうか。
 その色に手綱は切れて、ただ、もっと深く、強く、触れることしか考えられなくなった。

 聞こえる声が隣の部屋にどれほどの大きさか。
 考えはするが、分かりはしない。
 繰り返し呼ばれる名に溶けていく。
 背に回され首を抱き、撫でるように彷徨うセンクウの腕が熱い。
 けれどそれは、自分を抱く男に縋る弱さゆえの力(つよさ)ではなかった。
「抱きたくて来た」
 そう言った。
 その言葉どおり、それでも抱いているのはセンクウのほうなのだろうと思い、影慶は彼の頬に口付ける。
 抱き締めて、包み込んで、受け入れて。
 どんな大魚も、海に抱かれて生きている。
 そのことと同じだ。

(おまえにしか、できないことなのかもな)
 ここにいるのは皆、女にそれを求めて安んじていられるような、素直な、あるいは弱い男ではない。
 力に自信があればあるだけ、捨てられないくだらない自尊心。
 強くありたいと願う。
 だから、その力に劣りその心に劣るとしても、おまえならば構わないと許せるほどの者にしか、自分を投げ出せない臆病で、不器用な男のプライド。
「エ……ケイ……」
 青褪めていく頬を撫で、焦点の定まらなくなった目を覗き込む。
 と、その影を感じたのか、センクウが安堵に似た笑みを見せた。
「大丈夫か?」
「この、まま……ちゃんと、最後まで、して、くれよ……?」
「ああ」
「影……慶……」
「うん?」
「キス……、して、くれ」
 ねだって、閉じられる目。
 その目元を撫でて頬に添え、深く口付ける。
「あ」
 と小さな声が喉に触れる。
「どうした」
「変、だな……。甘……ぃ……」
 悪戯な笑いを洩らして、その頭は後ろに落ち、腕は滑って投げ出され、肩下に入れた腕にかかる重みが増した。

 閉じた瞼に口付けて、頬に張り付いた髪を手櫛で払う。
 一度強く抱き締めてから、影慶はできるだけそっと、身を離した。
 重く残っている快楽の名残を自分の手で放つと、ざっとシャワーを浴びて寝巻きを身に着け、濡れたタオルを手に戻る。
 丁寧に隅々までセンクウの体を拭いてやりながら、三日前のことを思い出して影慶は一人笑った。
 あの時にはさすがに、あまり際どいところには触れられなかったし、半端にやめることにもなってしまった。
 全裸を曝すことにも思い切りがいるが、それを他意なく自然なまま見ることにも、思い切りはいる。
 躊躇いもなく、無論ながら欲望もなく、こうして触れられるのことそのものが、何か温かく心を満たすようだった。
「すまんな。……いや。むしろ、礼を言うべきか」
 顔色こそ悪いが、穏やかに目を閉じたセンクウに言う。
 首に触れ脈を確かめると、いくらか乱れて弱くはなっているが、危険はなさそうだった。
 センクウがここにいることを人に知られれば、何か言われるだろうが、体裁を取り繕うことでこの空間を壊したくはない。
 そんな気がして、そんなことを思う自分に苦笑した。
 一度センクウの身をソファに移してシーツを取り替え、また戻してやったその脇に椅子を寄せる。
 朝までに気がつけばいいが、もしこのまま誰かに見つかったなら、どう言っておこうか。
(……食中毒、か?)
 自分の思いついた言い訳に、つい笑いを零す影慶だった。


(後編・終)

やはり影慶、死天王最強か?(滅
なんか、この話にはいろんなもの詰め込んでしまった気がするので、
コメントはこの辺にしとこう。
かなり私の価値観や発想が……出てます、ええ。