The Raven(大鴉)

 昔、清涼の夜半のこと。私がやつれ疲れて、既に人の忘れた学問の
 おかしな珍奇な書物をあまた開いて、思いに耽っていた時……
 まるで転寝でもするかのように、私が微睡んでいたときに、ほとほとと音が聞こえた。
 誰かがそっと、私の部屋の戸をこつこつと……叩いてでもいるかのように。
「誰だろう」私は呟いた。「私の部屋の戸を叩いている……。
 それだけだ。何でもない」

 ああ、はっきりと私は思い浮かべる。荒涼たる十二月であった。
 消えかかっている燃えさしはそこここに、床に影を描いていた。
 私は夜明けを焦がれた。……死んだレノアがゆえにこの悲哀(なげき)……
 私は悲哀の慰めを本から借りようと、努めたけれど無駄であった。
 類も稀な輝くばかりの乙女よ。天人たちはレノアと呼んでいるが、
 この世では永遠に名前がない。

 深紅のとばりの、絹の哀しげに、定めなくさらさらと鳴る音が、
 私をぞっとさせ……私の心をこれまでに覚えたこともない異様な恐怖で覆うた。
 それで今、私の胸の動悸を鎮めようと、私は佇んで繰り返した。
「私の部屋の戸を入ろうと懇願している。誰かが。
 ……私の部屋の戸を入ろうと懇願している。ある夜更けの客が。
 それだけだ。何でもない」

 程なく私の心は強くなった。それからもはや躊躇うこともなく、私は言った。
「殿か、婦人か、失礼はお許しくだされたい。
 実際のところ、私が微睡んでいたときに、あなたは静かにおとのわれた。
 いと密やかに、あなたは私の部屋の戸をこつこつと……叩かれた。
 それゆえ私はあなたの訪れを聞いたとも言われないほどに」
 ……そこで私は戸を開けてはみたが…
 ただ闇ばかり。何もない。

 闇のなかをじっと覗いて、私はしばらくそこに立っていた。怪しみながら、怯えながら
 疑いながら、これまでに誰一人、夢見たこともない夢路に迷うこの思い。
 しかし静寂(しじま)も破られず、ひっそりとして音もない。
 そのときに洩れた言葉は「レノア」と囁く声ばかり。
 私がこれを囁けば、木霊も低く呟いた。「レノアよ」と……。
 その声ばかり。何もない。

 それから部屋に入ると、私の思いは私のうちに燃え上がり、
 すぐにまた前よりもやや音高く、ほとほとと叩くのを聞いた。
「おそらく」私が言うのには、「おそらく私の窓の格子に何かがひそむ。
 それならば何ものの隠れているか、その妖怪を探してみよう。
 ……しばらく私の心を押し鎮め、その妖怪を探してみよう。
 ……風吹くばかり。何もない」

 そこで鎧戸をさっと押し開ければ、はたはたと羽撃いて、
 いにしえの神の世に相応しい、堂々たる大鴉、入りきたる。
 大鴉は会釈もしなかった。いっときも立ち止まり、じっとしてはいなかった。
 しかし貴族か貴婦人の風采で、私の部屋の戸の上にとまった。
 ……きっかり私の部屋の戸の上の、パラスの胸像の上にとまった。
 ……とまって座った。何ごともない。

 すると漆黒のこの鳥は、厳しくまた物々しい顔つきで
 私の悲しい思いをまぎらわして微笑へ誘えば、私はたずねた。
「たとえおまえの冠毛は剥がれそがれてはいるけれど、きっと夜の国の磯から彷徨い出た
 臆病な、色青ざめてもの凄い、老いぼれた大鴉ではあるまい。
 ……夜の、冥府の磯でおまえの立派な名前はなんと呼ばれるか」
 大鴉はいらえた。「またとない」

 この無様な鳥のこんなに鮮やかに語るを聞いて、いたく私は驚いた。
 たとえその答えはほとんど意味もなく……また相応しいものではなかったが。
 というのも、まだこれまでに誰一人、その部屋の戸の上に
 鳥を見る幸いを受けたもののなかったことは言うまでもない……。
 その部屋の戸の上の、刻まれた胸像の上に鳥か獣か、
 その名を聞けば「またとない」

 しかし大鴉はひとり静かに胸像の上にとまり、
 その魂を一言にこめたごとくに、あの一言を吐いたばかり。
 それからは何も言わなかった。またいささかも羽撃かず……
 やがて私は僅かに呟いた。「他の友達は昔去っていった……。
 明日になれば、あれは私のもとを去るだろう。私の希望が昔去っていったように」
 このとき鳥は鳴いた。「またとない」

 こんなにうまく洩れた答えに静けさの破られたのに驚いて、
 私は言った。「疑いもなく、鳥の述べた言葉はある不幸な人から聞いて
 忘れ得ないものである。その人に無慈悲な災難は次々に、
 続いて起こり、やがてその歌の一つの繰り返しを添えるまで。
 その希望を悼む挽歌(ひきうた)が、『またと……またとない』という
 陰鬱な繰り返しを添えるまで」

 しかし大鴉はなお、私のうら悲しい魂をまぎらわせて微笑へ誘えば、
 私はまっすぐに寝椅子を鳥と胸像と戸の前に動かした。
 それから天鵞絨の上に身をうずめ、それからそれと
 空想の糸を辿った。いにしえのこの不吉な鳥が……
 いにしえのこのもの凄い、無様な、色青ざめて、やつれた不吉な鳥が
 「またとない」としわぶくとき、何の意味かと考えながら。

 これを判じようと私は座っていたが、しかし一言も呼びかけず
 鳥の火のような目はいま、私の胸の奥処(おくが)に燃えついた。
 あれやこれやと思いまどいつつ私は座っていた。私の首を安楽に
 灯影のしめやかに照らしている寝椅子の、天鵞絨の裏張に寄せ掛けて、
 しかし灯影のしめやかに照らしている、あの天鵞絨の色は菫の裏張に、
 あの女の、ああ、もたれることはまたとない。

 それから私が思うのに、天人の振る目には見えない香炉から、香はのぼり
 空気はますます濃くなった。天人の足音は床の絨毯の上に響いた。
「薄命者よ」私は叫んだ。「おまえの神はおまえに与えた……これらの天使をつかいにし、
 彼はおまえに送った。休息を。レノアを思い出しての、愁いを忘れる休息や憂さ晴らし。
 飲めよ、飲め。ああ、このやさしい憂さ晴らしを。そして死んだレノアを忘れよう」
 大鴉はいらえた。「またとない」

「預言者よ」私は言った。「魔物よ。……鳥か悪魔かは分からぬが、さあれ預言者よ。
 ……悪魔がおまえを送ったのか、狂嵐がおまえをこの磯に放り上げたのか。
 魔の、このさびれた国に。わびしくしかも臆せずに
 恐怖のうろつくこの郷(さと)に。……まことに告げよと私は願う。
 ギルアドに香油があるか……ないか、告げよ。……願わくば、告げておくれ」
 大鴉はいらえた。「またとない」

「預言者よ」私は言った。「魔物よ。……鳥か悪魔かは分からぬが、さあれ預言者よ。
 我等を覆う天上に誓い……、我等の崇める神に誓い……
 悲哀をになうこの魂に告げよ。遠いエデンの苑で、
 天人たちのレノアと呼んでいる聖なる乙女を、
 天人たちのレノアと呼んでいる、類も稀な輝くばかりの乙女を抱き得ようか」
 大鴉はいらえた。「またとない」

「この言葉を別れの印とせよ、鳥か魔か……」と私は立ち上がり、叫んだ……。
「おまえはかえれ。狂嵐と夜の冥府の磯にかえれ。
 おまえの魂が語ったまどわしの名残に、いささかも黒羽を残すなよ。
 私の寂寥を乱すな。……私の戸の上の胸像を去れ。
 私の心からおまえの嘴を抜け。そしてこの戸からおまえの姿を消してくれ」
 大鴉はいらえた。「またとない」

 かくして大鴉は、飛び立たず、じっととまっている。……じっととまっている。
 私の部屋の戸の真上の、パラスの青ざめた胸像の上に。
 彼の瞳はさながらに、夢見ている悪魔のよう。
 そして灯影は大鴉の上に流れ、その影を床に投げている。
 そして私の魂が、床に浮かんでいる影から、
 のがれることも……またとあるまい。

 

エドガー=アラン=ポー