窓から吹き込んでくるそよ風が、遠くから水の香を運んできた。 いい天気だった。 ふと、出かけたくなった。 特に目的もないが、今日は屋内にいるよりは外にいたい。そんな気分だ。 専門書のディスクを何枚か持って、研究所を出た。
最近作られた自然公園の真ん中には、樹齢三百年ほどと思われる巨木がある。 その木陰に腰を下ろして、やることはいつもと大差ないが、流れつづける空気の中で読書に耽る。 夕暮れくらいまでここにいて、それから直接家に帰ろうと思っていた。 いつもはなんだかんだで帰宅は夜になるが、たまには早く帰って、ライと共に夕食の支度をするのもいいだろう。 他愛ないことだが、それは我ながらいい提案で、一人満足する。 その時だった。
いきなり頭上で枝の折れる音がして、木の葉が降り……ついで、私の上になにか大きなものが落ちてきた。 もちろん避けようとしたし、避けられたはずだったのだが、芝の上に置きっぱなしにしたディスクが目に入った。 借り物だ。 壊すわけにはいかない。 それをとろうとしたせいで、間に合わなかった。
以前の私ならばともかく、今はそう即座に動けるようになっていない。 そのうえ、私の真上に落ちてきたそれは、やたら重かった。 重い上に大きい。 見れば、白いヒューキャストだ。
「すまん」 彼は淡々と詫びて、私の上から退いた。 「気にすることはないが……」 私は樹上を見上げる。 彼が落ちてきた径路を示して、枝がごっそりなくなっている。その穴から空が見えた。 「なにをしていたんだ?」
誰がなにをしていようと構いはしないが、よりにもよって私の上に落ちてきたのだ。なにかとろうとしていたのか、それとも他に目的があるのか、聞いておきたかった。 だが、質問には答えは返らなかった。 白いヒューキャストは私を見ているだけで、答える様子はない。 言いたくないのならばそれでもいいのだが、どうやらそういう様子にも見えない。
追及するほどのこともないことだ。少しは自分の体重を計算して行動してくれたほうがいいが。 災難なのは、この大樹のほうだろう。 「見事に……」 折れたな、と言いかけたと同時に、 「あんた、いい声してるな」 唐突に言われた。
そう言われることは、珍しくない。 ただ、そういう場合はいつも、私の声を聞いてからなにかのリアクションを先に見ることができる。マンならば表情。アンドロイドであっても、気配で分かる。 なんの予兆もなかったことに、少し驚いた。
「こういう声は、今まで聞いたことがない。もう一度なにか喋ってくれ」 「なにか、と言われても困るがね」 「なんでもいい。そんなことでいい」 「では、話のタネに聞いてみようか? 木の上でなにを?」 「俺か? 昼寝だ」 「昼寝?」 「ああ」 「木の上でか?」 「ああ。それがどうかしたか?」
マンでもあるまいし、なかなか酔狂なことをするものだ。 「私はどうもしないが、この木にとっては、災難ではないか?」 「折れるはずじゃなかった。俺の体重くらい、ちゃんと支えられる枝を選んだ」 「計算ミスか。まあ、仕方ない。もう折れてしまったものは、どうしようもない。……で、満足したか?」 「満足……。よく分からんが……もう少し聞いていたい気もする。が、あんたにも予定はあるんだろう?」
どうやら、感情レンジを縮小されているようだ。 フォルムから見ても、おそらく5年ほど前に流行った「ツール」タイプのヒューキャストだろう。情動プログラムを縮小し、戦闘アルゴリスムの拡大に努めたというが、結果は命知らずに自滅していく愚か者を大量生産しただけにとどまった。 生き残ったのは、中でも能力の秀でた者だけだ。 おそらくだが、彼もその系統に生まれているのではないだろうか。
なんにせよ、もし私の推測に誤りがなく、彼が5年間、生き残ってきたのならば、感情が乏しいなりに知識も経験もある。実績もあるだろう。 名を聞けば、私も知っているのかもしれない。 あえて聞くつもりもないが……
「特に予定はないな」 「それなら、もう少し付き合ってくれ」 「構わんよ。それなら、名くらい聞いておこうか?」 話の流れ、だ。聞かないでいるのも不自然だろう。 「俺はフェンリルだ」
フェンリル。 ハンターズとしては聞いたことのない名だが、その名そのものは、はるか昔、三千年ほども遡った時代に生まれたという神話の、獣神の名だ。 神々に反旗を翻す「悪神」の側に位置する巨大な狼。 製作者はなにか意図を持ってつけたのかどうか……。
「あんたは?」 「私はラッシュ。ラッシュ=スラッシュだ」 「ふ、ん……。ラッシュ、か。ラッシュ……。……まあ、いいか」 ? なにが「まあいい」のやら。
「俺は昼寝をしてたが、あんたは? なにをしてたんだ?」 「読書だよ」 「それは?」 「説明しても分からんと思うが」 興味を持ったらしいディスクを、PPCのスロットに差し込む。フォロモニターに映し出されるのは、ほとんど専門用語の羅列だ。
「……あんたは、こんなものが分かるのか?」 「まあ、な」 「ヒューキャストじゃないのか?」 「引退したよ」 「今は?」 「ある研究所で働いている」 「研究所? どんなところだ?」
質問に適当に答えながら、私はいくらか、このフェンリルというヒューキャストに関心を持ち始めていた。 感情が乏しいにしては、好奇心は強いのか、質問が途切れない。 どういったプログラムを組み込まれて起動させられたのか、……かなりつまらない興味の持ち方だろうが、面白くはある。 結局、他愛のないことを話しているうちに時間は過ぎ、いい時刻になってしまった。 話に付き合っていることもできるが、早く帰られる時には、帰っておきたい。一応私には、自分で決めた予定もある。
そろそろ帰らなければならない、と言うと、フェンリルはあいまいにニ度ほど頷いた。そして、 「またここに来るのか?」 面白いことを言う。 私と話すのが気に入ったのだろうか。 「仕事があれば、そんな暇はなくなるがね。良かったら遊びに来るといい」 「ランドルフ……研究所だったか」 「ああ。もし本当に来るつもりがあるなら、守衛に話しておくが」 「……そうだな。行ってみよう」
それを汐に、フェンリルは素っ気ない別れの言葉だけ残して、去っていった。
(END)
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