発表は次々に行われる。
 それを聞きながら、人の父とはなにかを考えながら、ラッシュの意識は半分以上、時計に向いていた。
 時間が尽きるまで、ラルムが当たらなければいいと思えば思うほど、時の進みが遅い。
 とても我慢できず、一人あたりの発表に何分ほどかかるかを思い出し、合計で何人が当てられることになるか、当てられる確率はどれくらいかを考える。
 そんなふうに思考はしていたが、それとは別に現状は的確に把握していた。
 今、光の止まった升目がラルムの席であることに、ラッシュは光の停止と同時に気付いた。
 四分の一の確率は、決して低くはなかったのだ。

「はい、次はラルムさんね。今日は……お父さんがきてらっしゃるのね。さあ、読んでください」
 明るく快活。不快感はない。だが教師として、子供の心まで配慮しているわけではないらしい。
 それを不満に思うのは、たぶん、間違っている。世の中はこの程度の思いやりでさえ、ありがたいと思わねばならないものだ。
「どうしたの? 書いてきてないのかしら?」
 言われて、ラルムが立ち上がる。震えているのは目に見える。それでもやめさせず、彼女の心境を推測しようとしない教師に、ラッシュはいくらかの苛立ちを覚えた。
「はい、読んでください」
 追い立てられるようにして、ラルムは
「わ……わたしの、おとうさんは……」
 蚊の鳴くような声で、作文を読み始めた。

 実際に父親がそこに来ている前で読むことになり、緊張しているのかと皆は思っていた。
 父親が来るかもしれない授業参観で、読むかもしれないと分かっていて書いたものならば、まさか聞かれてまずいものは書くまい。
 だが、そんなものはなにも知らない者の、勝手な思い込みに過ぎない。
「しょ、植物園で、はたらいています」
 その一言で、教室はシンと、気配まで静まり返った。

「毎日お仕事に出掛けます。でも、お仕事のない日には家にいて、わたしとたくさん遊んでくれます。長いお休みには、おかあさんもいっしょに、外へ旅行に行きます。わたしはいつも、それをたのしみにしています。でもおとうさんは、花をそだてるのがとても下手です。お仕事ではちゃんとしているのに、家にある花はすぐに枯らしてしまいます。だからおかあさんは、おとうさんには鉢植えをさわらせません。おとうさんも、どうしてなんだろうといつも不思議がっています。おとうさんが好きなのはエアモーターです。もっと大きくて新しいのを買って、そうしたら遠くまでドライブしようと約束してくれました。わたしもたのしみにしています。お、おとうさんはとても力持ちです。わたしが、うでにつかまると、力こぶをつくって、ぶら、さげて……」

 ぐぅ、と言ったきり、ラルムは顔を覆うようにしていたシートを机に下ろして、うなだれてしまった。
 教室は静まり返ったまま、誰もが、呼吸音を聞かれるのさえ恐れているような雰囲気だった。
 恐る恐るラッシュを顔をうかがった父兄は、その、まるで変化のないアンドロイドの顔に戸惑ったように、慌てて顔を背けた。苦笑しているのか、苦虫でも噛み潰したような顔になっているのか、それが分かればフォローのしようもある。だが、アンドロイドの顔は変わらない。
 当のラッシュは、怒ってもいなかったし、哀しんでもいなかった。
 考えたのは、この宿題を出された時、あの子はどれほど困ったことだろう、ということだった。

 父と呼ぶには付き合いの短すぎる自分のことを、はたしてどう書こうとし、諦めたのか。そして、もう死んでしまった実の父のことを書こうとした時、どれほど寂しく哀しい思いをしたのか。
 つらかっただろう。
 適当な事実だけを書いてしまえば、目の前で読むことになってもまずくはなかっただろう。だがおそらく、どんな言葉も出てこなかったに違いない。「父」を考えれば思い浮かぶ人はただ一人で、ラルムは本当に「父」と感じられる人のことを書いたのだ。
 書こうとしてもなにを書いていいのか分からない相手に、それでも書かなければならないと自分に言い聞かせ、たった一つの言葉すらまともに出てこず、本当に書ける「父」について書きながら、思い出して哀しいだけでなく、どんなに恐ろしかっただろう。
 きっと一人で、ずっと泣きながら、どれほどの時間をかけたのか。
(私に気付かれまいと、必死だったろうな……)
 それを思うと、ただラルムが可哀想だった。

 怒られまいとして、ただそれだけのために、傍を歩くことさえ恐る恐るといった有り様なのだ。不運にも当てられてしまい、「今の父」の前で「実の父」について読み上げる気分は、最悪に決まっている。溢れ返る思い出の温かさは今の寒さに変わり、優しさはそれが消えた後の孤独に変わる。背後を意識すれぱ恐怖と不安が襲ってくる。
 なにをどう言えば一番いいか。
 嘘は一つもつきたくはない。
 言えることは、限られていた。
 決して冷たくも刺々しくも聞こえないよう、間違っても自分の意思を誤解されないよう、
「どうした? 続きを読んではくれないのか?」
 できるだけ優しく、静寂を壊した。

「私には、子供を持つなんてことは初めてだからね」
 神の声、とさえ呼ばれた過去の美声。それを自分のものにしたのには、わけがあった。
「私につとまるかどうか、それすらも分からない。けれど、おまえの本当のお父さんを見習って、ちゃんとしたお父さんになれるよう頑張るよ」
 かつてこの声をもって歌った男は、その歌声と言葉で数千の聴衆の肩を抱いたという。時に優しく、時に力強く。
 それには彼の才能があり、努力もあったろう。声さえあればいいというものではない。
「だから、ほら」
 せめて、あやかりたかった。
 だからラッシュは、己の声を決める時、膨大な計算と実験を繰り返し、データ再生ではなく可能な限りリアルな「神の声」を再現したのだ。
「思い出すのはつらいかもしれないが、続きを」
 手が届かない場所へでも、声ならば届くことがある。
「教えてくれないか?」
 今はただ、自分の「娘」にした一人の少女の肩にくらい、届くよう願った。

 

 わたしのおとうさんは、植物園ではたらいています。毎日お仕事に出掛けます。でも、お仕事のない日には家にいて、わたしとたくさん遊んでくれます。長いお休みには、おかあさんもいっしょに、外へ旅行に行きます。わたしはいつも、それをたのしみにしています。
 でもおとうさんは、花をそだてるのがとても下手です。お仕事ではちゃんとしているのに、家にある花はすぐに枯らしてしまいます。だからおかあさんは、おとうさんには鉢植えをさわらせません。おとうさんも、どうしてなんだろうといつも不思議がっています。
 おとうさんが好きなのはエアモーターです。もっと大きくて新しいのを買って、そうしたら遠くまでドライブしようと約束してくれました。わたしもたのしみにしています。
 おとうさんはとても力持ちです。わたしがうでにつかまると、力こぶをつくって、ぶらさげてくれます。わたしはおぼえていないけれど、もっと小さいときには、わたしをほうりなげてうけとめたりして、おかあさんにおこられたこともあったみたいです。今のわたしはもう大きくなってしまったから、きっとそんなことはできないけれど、もう一度してもらったら、きっときもちいいだろうなと思います。
 わたしは、おとうさんが大好きです。ずっと、いつまでもいっしょにいたいと思います。

 

 ずっといつまでも一緒にいたいと願う。
 一緒にいたかった、ではない。
 まるでまだ生きているかのように、いつまでも過去になってくれはしない。
 それが、愛する人を失ったということなのだ。
 その傷はきっと、永遠に埋まらない。
 ラルムは必死にこらえている。
 涙はひっきりなしに机に落ちているが、声も上げず、懸命にこらえようとしている。
 隣の席の少女が、ハンカチを差し出した。受け取るために手を動かすこともできないのだろう。机に突いた手は強く握り締められて、震え続けている。

 続けようのなくなった授業は、終業を告げるベルに救われた。
 それでも誰も、どう動いていいのか分かりかねていた。
 ラッシュは先に戸口へ向かい、
「いつか、もしおまえが私を父だと思える時がきたら、空を飛ばせてあげるよ。なにせ私はヒューキャストだ。おまえが大人になっていても、投げ上げるくらい簡単にできる。いつか……おまえの父が二人になる、そんな時が来たらね」
 それだけ言って教室を出た。

 来たことを間違いだったとまでは思わなかったが、少なくとも正解ではなかったような気がしていた。
 授業の内容が、作文のテーマが「父」でさえなければ。
 そう思っても、もう遅い。
 だがいくらなんでも、そこまで事前に情報を手に入れてから動こうとは思えない。そんなことまで気にしていたら、一日の七割までが情報収集と整理で終わってしまう。
(思っているより、はるかに難しそうだな、これは)
 校舎から出たところで、ラッシュは上を見上げた。映像の「空」には雲が流れている。いい天気だが、実は金属の天井があるだけだ。風はファンの回転の強弱で生まれ、意図的に風らしく変化させられているに過ぎない。
 どれほど似ていても、なにかが違う。
(鋼の空、か。私も似たようなものだな)
 本物を知らなければ信じる者もいるが、本物を知っている者には、永遠に馴染めない蓋の裏のフェイク。
 本物はもっと遥かに高く深く遠く広く、果てしない。

 なんとなく憂鬱になった時、突然、背後から肩を組まれた。
 驚いて顔を横に向ければ、グレンがいた。
「ご苦労さん」
「……来てたのか」
「クダ巻くなら付き合ってやるぜ?」
「覗きか。悪趣味だな」
「奢ってやるよ」
「人の話は聞いたらどうだ?」
「暴投はお互い様だ。まあ、子育ての先輩から一つだけ言ってやるとだな、一生懸命ってことさ。自分のことに真剣になってくれてるってことを子供がちゃんと感じられれば、きっといつかはつながるよ。だから大丈夫だ、『先生』」
「また難しいことを。こっちがそのつもりでも、感じてもらえないなら意味はないし、子供のためと思ってしていることが、実は自分のためでしかないこともある。難しすぎる」
「大丈夫だって言ってるだろ。自分が信じられないなら、とりあえず大丈夫だって言ってる俺を信じとけよ」
「まったく……。いい友人を持ったよ」
「自慢しろよ? さあ、飲むぜ〜」

 

「ラルムちゃん」
「もう授業終わったよ。帰る準備しなきゃ」
「なあ、泣くなよ。悪ィのは先公だって。こんな作文にするから悪ィんだよ」
(「わたしの『おとうさん』は、とても優しいです。」……「わたしは『おとうさん』の声が好きです。」―――「とてもきれいな声で、大好きです。」……。「ずっと、いっしょにいたいと思います。」)
 書けたこと。
 たったそれだけだけど、書けたこと。
 きっと増える。
 増えていく。
「ラルムちゃん。今日ね、一緒に帰ろう?」
「……うん―――」

 

(fin)

相変わらず砂甘でゴメ……