ラグオルに初雪が降った。 その日は即座に、国民的どころか惑星規模での祝日になった。 何故ならその初雪は、パイオニア2の人々がはじめて見る、ラグオルの雪だったからだ。
「それじゃあP1の連中の立場がねえなぁ」 初雪記念日の翌日、昨日が「初雪の日」に決まったと報じるニュースを眺めながら、ベータは片手にパンを持ち、逆の手ではPPCを操っていた。朝食をとりながら、二つも同時に情報ソースを確認しているのだが、別に忙しいというわけではない。単に「楽しむためのこと以外の雑事は可能な限り短時間で片付ける」という信念(?)を実行しているだけだ。 パンが片付き、ギルドの最新情報もチェックし終わり、世間一般に起こっている出来事も見終わると、念入りに髭をあたる。これも別に特別なことではない。ファッションとして丁寧にたくわえるのでなければ、無精ひげを生やしたままでいるのが好きではないだけだ。 鏡で様々な角度からチェックを入れ、満足がいったのか、ふん、と小さく笑う。まあ、毎度のことだ。
「さてと」 今日は仕事だ、とドレッサーに向かった。 髪を立てるのは、「前髪が鬱陶しいが短く切ると似合わない」というだけの理由だ。昔はこのセットにずいぶん時間がかかったが、今ではほんの数分で終わる。 一定以上の温度を持つ水、すなわちお湯でなければ溶けない、という強力かつ速乾性のヘアスプレーを駆使して、顔にはかからないように気をつける。手ならお湯で洗えばいいが、顔にかかると、それを洗い流そうとすればお湯の蒸気で髪まで萎れてしまうのだ。 もちろん、三日に二度は行うセットだから、失敗することもたまにはあるが、基本的には歯を磨くのと同じくらい、他愛ないことだった。
装備を確認し、防護スーツの上からプロテクターを着込み、アーマメントパーツに不備がないかを確かめる。 「『レディ』、俺が出たらロックだ。今日は来客の予定はない」 『かしこまりました』 留守を言いつけ、外に出た。
ドアを開けた途端に吹き付けてきた風は、水の冷気を存分に含んで冷たかった。 だが壊れた冷房の寒風と違い、どこか心地良い。 吐いた息が真っ白に色づくのを見ると、無意味に心が浮き立つ。ところどころに残る白い塊と、街路を濡らした雪解け水が、晴れ渡った空からの日差しを弾いてきらめくのは、しばし見とれるほどにきれいな景色だった。
目を細めて、その強烈な反射光を楽しみながら、 (そういや、いつ以来だっけな) テラの地下都市は徹底的に管理され、快適な気温が保たれていた。民間人は、「冬」のテーマパークにでも行かないかぎり、雪を見ることなどできなかったし、白い息を見ることもなかった。 ベータにはそんな遊園地で遊ぶ趣味はない。 付き合っていた女が行きたがることはあったが、連れて行ったことは全員総計で二度ほどしかなかった。 女はストレス解消の運動器具と大差なかった。駆け引きを楽しむゲーム相手でしかなかった。 楽しませてやろうとか、なんの見返りも考えずに願いを聞き届けてやろうとしたことなど、ついぞなかった。 今になって彼女たちのことを思えば、悪いことをしたという気にもなる。 だがあの頃は、恋愛に興味などなかったのだ。言い寄ってくるから相手をしたに過ぎない。利用して、自分が楽しんだだけに過ぎない。
(ま、プレイボーイ気取ってたとこもあるけどな) 雪から連想された過去を、自嘲気味に笑ってかき消した。 歩き出すと、寒さは感じなくなる。防護スーツは、見た目こそ薄くて頼りなさげだが、耐久力にも衝撃吸収力にも優れているし、保温性も高い。早足で歩けば汗ばむくらいで、剥き出しの顔に当たる冷気が丁度良かった。
マンションを出てから人の多い通りを避けて道を行き、早朝の寒々とした公園に入る。ここを突っ切ったほうが、街まで近い。 いつもと同じ順路を歩いていると、ふと、真っ白な道が目に入った。 雪が降ったのは昨日で、道はすっかり人の足に踏み荒らされている。だが公園の奥、閉鎖されたテレポーターに通じる道が一本、真っ白なまま残っていた。足跡はあるが、雪が降り出して間もない頃につけられたのだろう。今ではよく見ないと分からないくらいだ。
時計を確認する。時間はまだある。 悪戯心を起こして、その道へと近づいた。 白く盛り上がり、凍りついた雪に踏み込むと、足の下でザクリと音がした。 我ながら子供じみているとは思いながらも、慎重に、崩れないように、足跡をつけながら歩いていく。 行き止まりまで辿り着いたら引き返し、あとは寄り道せずにポートに向かうつもりだった。
だが、閉鎖され、エネルギーも供給されていないはずのテレポーターには、何故か光があった。 開放されたんだろうか、と思ったが、そんなはずはない。 このテレポーターは、旧セントラルドームの裏手、アルタードビーストが地表にまで溢れ出した危険区域に通じている。戦闘経験のない民間人が入り込めば、生きて帰れる保証はない。 座標を変えるべきなのだが、適当な「出口」がなかった。公園内にある他のテレポーターで、ほぼ全ての安全区域への転送をカバーできているのである。それで、新しい区画が整理され、そこにテレポーターが設置されるまで、ということで閉鎖された。 そういった理由がある以上、もし区画整理が終わるなり、あるいは他の座標が設定されるなりすれば、必ず開放を知らせるメールが住民全員のCCに届くはずである。
とまあ、理屈はそうなのだが、こんな解説は貴方がた読者のため。 ベータはもっと直感的に、 (怪しいな) と思った。閉鎖されているはずのテレポーターが告知もなく活動していれば、そう思うのがこの世界の人間である。
ベータはPPCに触れた。 装備は充分だし、もし危険区域に飛ばされても無事に帰還する自信はある。だが、最も危険なのは、誤作動によって座標がめちゃくちゃになっていることだ。出た先が数千メートルの上空だとか、宇宙空間だということもありうる。座標が「虚数空間」を設定してしまっていたら、転送途中で消されてしまうことになる。安全と安定の確認されていないテレポーターに飛び込むのは、ただのバカだ。 この地区の管理機関に通報するのが、正しい選択である。 滅多にかけることもないナンバーは、たとえ短くても入力しづらい。グラブのせいで小さなボタンが押しにくいこともある。ただでさえ体格のいいベータである。そしてPPCには3Lサイズなんてものはない。 「だ〜っ」 諦めて、右手の指先をくわえてグラブを抜き取った。
途端、光が強くなった。 テレポーターが動いたのだ。 誰かが来る。 それが真っ当な人間である確率は、極めて小さい。このテレポーターを開放するにあたっての、確認のための調査員、というのが考えるかぎり一番まともな人間だが、だとすれば他の調査員もいるのが普通である。 相手は「敵」になる可能性が高い。 噛んでいたグラブはそのまま放り捨て、PPCから即座にブレイバスをコール。右手に実体化させる。 そして、光の前へと突きつけた。
銃口の先に人の形が生まれる。 その姿を確認して、ベータは大きな溜め息と共に右手を下ろした。 「なんだ、おまえかよ」 ベータの前に立つのは、細身の男だ。銀髪に、浅黒い肌、ベータよりはいくらか低いだろうが、それでも並外れた長身。 そして、顔の上半分を隠す黒いマスク。 「も〜、こんなとこでなにしてんだよ、おまえは。頼むから、やばい仕事は引き受けるんじゃないって」 ベータはそう言いながらグラブを拾い、拾い上げて背を起こした時にはもう、しっかりと肩を抱いていた。
仮面の男は一言もなく、ちらりと横目でベータを一瞥したに過ぎない。 彼の性格を知らない者ならば、こんな反応をされれば慌てて距離をとるだろう。だが、こんなものは毎度のことだ。 「なんだよ、すっかり冷えてるな。何処にいたんだ? あー、もう、顔も冷たいじゃないか」 ベータはごそごそと左手のグラブも外し、その手で削いだように肉の薄い頬に触れる。ちなみに、この時点で右手は腰に移っているし、左手のみならず自分の顔までしっかりと寄せているのは、たぶん言うまでもないだろう。 ベータの頭は、プロテクターが邪魔になって思うように接触できないことで、かろうじて仕事を忘れずにいるくらいだ。
「あっためてやるから、もーちょっとこっち来いよ」 「……仕事だろう」 突き放すこともないが、その声音は果てしなく淡々としている。知らない者ならば(以下略)。 「いいっていいって。早く取り掛かれば夕方に終わるってだけだ。昼からでも充分間に合う。気合入れてやれば昼からやっても日暮れまでには片付く。だから、な。おまえのうちまでけっこうあるだろ。俺んとこ寄って、少しはあったまっていけよ」 頭の中には、あたためてやる、とどさくさまぎれにアンナコトとかコンナコトとかできたりして、とどうしようもない妄想が超高速でよぎっている。 ここのところ発散もしてなかったし、仕事もスリルに欠けたものばかりで(同行した他のハンターズは顔面蒼白になるくらい楽しんで(?)いたようだが、ベータにはつまらなかったのだ)、なにかモヤモヤしたものが溜まっていたせいで、余計にオカシナ気分になるのが、ベータ自身にも自覚はできていた。 もしかすると、今日こそは行けるところまで行けたりして? と思うと、仕事はキャンセルしてもいい気分になってくるのだから危険だ。
他に行くところがあるとか、あるいは帰ってすることがあると断られることも予想したが、返ってきた答えは 「分かった」 だった。そのかわり、 「歩きにくい。放してくれ」 しっっかりと腰を抱き寄せたまま歩き出そうとし、すげなく言われる。 ここは我慢だ。 今ここで少しくらい我慢したところで、部屋に入ってこんなプロテクターは外してしまい、ロングコートなんかはさっさと脱がしてしまえば、あとはもう(以下自粛)。 「ああ、そうか。悪い悪い」 素直に離れるベータである。
だが、離れたはいいが、隣を歩く足取りがどうにも慎重なことが気にかかった。 仮にも一流のハンターズである。まして、いかなる状況においても存分にその能力を発揮できるよう、極限まで鍛えられてきたはずだ。雪のせいで足元が、ということもあるまい。 「どうしたんだよ? 怪我でもしてるのか? あ、いや、そうか。これか」 急に心配になりかけて、気付いた。マスクを押さえた手がヒントだ。 雪の反射である。 ただでさえ光に弱い目だ。そのために常にこのマスクをつけている。ほとんどの光をカットしてしまうというマスクだが、これだけ鋭く鮮烈な光では殺しきれないのかもしれない。 まあ、理由なんかどうでもいい。一歩一歩が慎重で、足元ばかり見て、危なっかしい。その事実だけで充分なのだ。 「ほら、危ないだろ。そこは段差だぜ」 エスコートしてやる、という建前のもと、もう一度肩を抱いた。
歩きにくいのはどちらでも同じだと思うのか、今度は拒まれなかった。 そのまま、他人から見れば何事だあの二人はというところだが、幸いにして誰ともすれ違わず、マンションに辿り着く。 ここまで来たら、中に入ったところで放すベータではない。 他愛のないことを、まるで無反応の相手に向かって、そんなことはちっとも気にせずに話しながら、まんまと部屋にまで連れ込んでしまう。 連れこんだ後は、あれこれ世話を焼くような口ぶりでコートとジャケットを脱がせ、二人掛け用のソファに座らせるまで、全く無駄のないプロ(何)の動きである。 そうして温かいコーヒーを入れてきたあとは、もちろん、座るのは向かい側ではなく、隣だ。
「あんなとこで何してたんだ? またなんかやばいこと頼まれてんじゃないだろうな」 心配しているのも心底の本心だが、そういったこととは別に、左の腕は自動的に目標を捕捉して、自分の胸に抱き倒さんばかりにしっかりと抱き寄せている。 手を温めるつもりなのだろうが、両手でカップを握り締めているところが可愛い、などと思うあたり、末期というか、極まっている。 「言えないことなら、無理に聞こうとは思わないけどな。人に堂々と話せる仕事だけしててほしいんだよ、俺は。……くそ。寒いな。『レディ』の暖気はスローだから嫌いだ。あ、そうだ。なんならバスても使うか? 服なら貸してやるぜ?」 体を温めるため、と思いついたところまでは純粋な好意なのだが、その後の想像は、 (俺も寒いし、とか一緒に……) などというところから始まって(以下web倫によりカット)。
頭の中はそんな感じだから、プロ(謎)としては、条件反射として体も動いている。 マグカップを持っている右手はともかく、左手は、単に温めるために摩擦してやっている、とは到底言えない活動を開始している。 いくら感情が乏しく、感覚すら容易に無視されるとしても、さすがにそれは届いたのか、小さな身じろぎがベータの腕に伝わると、脳はヒートアップとクールダウンの間で目まぐるしく揺れ動いた。 (今キスしたら、コーヒー味……) 歓迎されもしないだろうが、拒まれもしないだろう。 そんな楽観が、行動を後押しする。
唇と唇の距離は、数インチ。 やがて、インチよりセンチで言ったほうが分かりやすいまでに縮まる。 そこでふと、手が間に割り込んできた。 さすがにこれは、「やめろ」と押し戻されるのかと内心で舌打ちするベータ。 だがその手は、ベータの顔にではなく、自分の顔の、マスクに触れた。 位置がずれたのだろうかと、思いきや、眼鏡の位置でもなおすように、マスクの上にかかった手が、それを押し上げるのではなく、下へと引きずり下ろした。
その下からベータを見ていたのは、小鹿ちゃんのような(とベータの思う)真っ黒な瞳ではなく、面積の大半が白く塗りつぶされたものの見事な三白眼だった。
三白眼が、上目遣いに人を睨みつけるとどうなるかと言うと、虹彩の部分がほとんど上瞼にめり込んでしまって、恐ろしく凶悪なのである。 それも、虹彩の色が透き通るほど薄いアイスブルーとくれば、際立つのは針でついた傷跡のような瞳孔。
……まあ、ともかく。 ベータは完全にフリーズ状態である。 「げえっ」とくらい言いそうなものだが、それすらも凍りついたままの笑い顔の奥で冷凍されている。 「貴様はあいつに毎度こんなことをしてるわけか」 声も全く同じ、この双子。口調は違うのだが、そこに感情がなければ、限りなく似てしまう。そして、感情を殺して振る舞う程度、造作もない兄貴のほう。 そして、あっさりとPPCから銃を取り出し、室内だということも無視して発砲するのも、兄貴のほうである。 咄嗟に飛びのいたベータだが、せっかくセットした髪の上部がチリチリと微かな音を立てている。
「な、なな、なっ、なんでおまえがそんなもんつけてんだよッ!?」 「やかましい」 これが弟でなく兄のほうであるということは、彼がその気でさえあれば、ベータの思考は全て読まれていたということである。アンナコトとかコンナコトとか、全てだ。 ちなみに三白眼は、下目使いに見下ろすと更に凶悪になることもつけ加えておこう。
銃声も、隣の部屋までは届かない。 「レディ」は異常を感知しているが、設定されたキーワードを言わないかぎり、通報はしてくれない。 そしてベータには、通報する気はなかった。 殺さなければ終わらない、のではないということを感じ取っている以上、可愛い(?)ジーンの兄上を、警察の手に渡すことはできない。というか、そんなことをしたところでまるで無駄だとも分かっている。 それに、ガッシュにも、本気で殺すほどのつもりはないはずなのだ。いつもこのパターンなのだから。
ベータの部屋が穴だらけになり、家具も軒並み壊れた後で、ようやくガッシュの気も済んだのか、彼はPPCにガンをおさめた。 逃げ回ってへたばっているベータは、それでもなんとか、疑問を繰り返した。 「な……なんで、おまえが、それ……」 壁にもたれて座り込んだまま、ガッシュが左手に持つマスクを指差す。 「ふん。……こいつのせいだ」 彼はそう言って、窓のほうへととがった顎をしゃくった。
雪だ。 弟のジーンの目は、メカニズムが不思議になるほどの視力と暗視能力を持っているが、同時に、異様なまでに光に弱い。日常の自然光ですら耐えがたく、いつも遮光レンズの入ったマスクで目をガードしている。 対して兄のガッシュは、視力についてはいいところが一つもない。 室内光、自然光、その程度で眩しくてたまらないとは言わないが、少し光が強くなっても駄目。逆に少し暗くても駄目。近視ということはないが、あまり良い視力も持たない。 つまり、とりあえず今回の場合、雪の反射がひどくて、それがあまりにも強烈で市販のサングラス程度では防げず、弟のマスクを借りて出かけたのだ。快適な視界には程遠い、かなり暗い景色を見ることになっただろうが。
閉鎖テレポーターの先でなにをしていたのかはともかく、どうせ一から十まで「真っ当な生活」とは無縁な男である。別に不思議がるほどのことはない。 昨日から出ていて、今戻ってきたところで、ベータと鉢合わせた。彼が自分を弟と勘違いしているのをいいことに、自分のいないところでなにをしているのか、確かめる気になったに違いない。 不埒なことも、想像しているだけでまだ実行はしていないからだろうか。 ガッシュは部屋を破壊するだけすると、冷めたコーヒーを悠然と飲み干して、「安い豆だな。不味い」と文句はきっちり言い置いたうえで、帰っていった。 ベータはよろよろと仕事に向かったが、今はまだ昼前でも、夕方までに終わらせるような気力は欠片も残っていなかったとさ。
(おわじ) |