Reality

「はあ……」
 こんなに憂鬱で塞がった気分は、もしかしたら初めてかもしれない。ヤンは自分でそう思った。
 いつもなら、終わったことでくよくよしても仕方ないからと、すぐに顔を上げ前を向く。だが今回は、溜め息ばかり重なっている。
 心が重いし、痛い。それに少しばかりイライラしてもいるし、腹も立っている。
(なによ。どうしてよ)
 間違ったことはしていないし、言っていない。なのに何故、あんなことになってしまったのだろうか。
 ヤンは、できるなら忘れてしまいたい、なかったことにしたい記憶、昨日の出来事を思い返した。

 マレーネから頼まれ事をしたのが、事の起こりだった。
 彼女が勤めている運送会社に、一日でいいから手伝いに来てくれないかと頼まれた。急にバイトが二人もいなくなり、人手が足りないのだという。
 ヤンは二つ返事で引き受けた。仕事内容は力仕事、倉庫の整理だが、ハンターズとしてこれまでやってきたため、普通の女の子よりは腕力も体力もある。細かい数字の管理などよりはよっぽどいい。
 時給はさほど良くない……むしろ悪いと言っていいが、友人の頼みなのだ。いくら稼げるなんてことは二の次だった。
 そうしてマレーネと共に職場に行ったのが、昨日の早朝。

 間違いないと思う。朝礼後のミーティングで、倉庫管理部長はこう説明した。
「午前中に届いたものは奥に積み上げておけばいい。午後届くものは、そのまますぐ送り出すから入り口付近だ」
 間違い、ないと思う。たしかにそう言った。
 間違いない。だからみんなその指示に従って作業したのだ。現場チーフのマレーネに細かく指示されながら、あっちへこっちへと荷物を運んで重ねた。マレーネはとりたてて美人でもないし、才能を感じるわけでもない平凡な女の子だが、その指示はてきぱきしててヤンも少し驚いたものだ。

 なのに、みんながそう思うわけではないらしい。特に、ヒギンズという中年のニューマン。マレーネも、彼には頭を下げるようにして「お願いできますか」と下手に出て、それでもそいつは「仕方ないな」と言わんばかりだった。それにサボる。そのくせ、慣れなくて戸惑うヤンに、偉そうに「なにやってんだよ、そっちじゃねえだろ」なんて言う。
 間違ってないと言えば、これだってそうだ。
「あんたねぇ、あたいは今日初めてで、トロいのは認めるけど、これでもがんばってやってんのよ!? だいたいあんたはどうなのよ。偉そうにふんぞり返ってるだけで、他の人よりちっとも動いてないじゃない!」
 もっと言ってやりたかったが、マレーネが飛んできて間に入った。
「あいつサイテーね。よくみんな我慢してられるわよ。人手が足りないって言うけど、あいつがちゃんと働けばどうにかなるんじゃないの?」
 連れ立って歩きながら、ヤンはマレーネにそう言った。

 それから夕方まで、ヤンはその中年ニューマンとは離れた場所でせっせと働いた。どうせまたサボっているのだろうが、それが見えなければまだしも無視できる。
 それでも、あんなサボり魔のせいで自分が借り出されてきたのかと思うと腹立たしい。外から人手を求めて、お願いして来てもらっているのだという意識はないんだろうか。
 普段とは違う体の動かし方で、じわじわと筋肉痛も生まれはじめていた。そうすると、なおのこと恨めしかった。マレーネを助けるためだと思えば、こんな腑に落ちない労働でも我慢できただけだ。

 そして、それが起こった。
 5時過ぎだ。大型トレーラーが到着し、輸送予定の荷物を搬出することになった。
 ところが、その荷物。倉庫の奥に仕舞った午前着のものこそが、今すぐに出荷すべきものだった。
 おかげで入り口付近の荷物をどかし、奥からまた運び出さなければならず、ひどく時間がかかった。待たされることになったトレーラーの運転手からは不手際を責められるし、時刻どおりに到着しないかもしれないと搬入先からも文句を言われる。しかも、スタッフは予想外の労働に動きも遅い。現場チーフのマレーネはあっちで頭を下げこっちで励ましと、見ていても大変そうだった。
 ところがだ。
 その不手際に気付いてやってきた部長は、
「おまえらなにやってんだよ。なに逆にしてんだよ」
 と大声で嘆息し、先方には
「申し訳ありませんねぇ。うちのチーフもまだまだ頼りなくて」
 などと媚びた笑いを見せていた。

「あんたがこうしろって言ったんでしょ!?」
 ヤンは爆発し、マレーネのせいにするなんて卑怯だと罵った。自分がアンドロイドなら会話記録も残っているだろうけど、それがないのが悔しいくらいだった。
 ヤンはその場からすぐに追い出されたが、会社の傍の路地でマレーネの出てくるのを待っていた。
 腹が立つ。こんな時には、せめて愚痴でも文句でも思う存分言い合って、少しはすっきりするしかない。そう思ったのだが……。
「お疲れ、マレーネ」
 呼びかけたヤンに、マレーネは涙目できっと睨みつけ、
「もうあんたなんか知らないわよ!」
 と吐き捨てた。

 ヤンは面食らい、しばらくその場に立ち尽くした。我に返ったもののわけが分からず、足早に先を行くマレーネを追いかけた。
「ちょ、ちょっとちょっと! なによ、なんでそんな」
 言い募り、引きとめようと肩に手をかけると叩き払われた。
「あんたのせいであたしまでクビになったのよ! あんたがあんなバカだなんて思わなかったわ! どうしてくれるのよ!? あの仕事だってやっと見つけたのに!!」
 口も挟めないほどすごい怒りようだった。
 どうしてマレーネがクビに?
 ヤンには理解できなかった。
 何故それが自分のせいなのかも、マレーネが何故これほど怒るのかも。
 マレーネは、叩きつけるような勢いでヤンに背を向け、走り去っていった。

 ぼんやりと帰宅して、それでもしばらくは放心していた。
 我に返ると、ヤンはマレーネにメールを出した。タイトルは
『お願い、教えて』
 にした。
 どうしてあんなに怒ったのか、自分のなにがいけなかったのか。
 返事は来ないかもしれない。自分からだというだけで読まずに消されてしまうかもしれない。
 恐る恐る送信し、祈るような思いで待っていると、やがて返事は来た。

『あなたは今日一日だけのことだから、だれを怒らせても気にならないでしょうが、わたしは明日からもおなじ職場で働かなければなりません。ヒギンズさんとも、部長ともです。
 わたしのような若輩者がチーフになって、ただでさえ面白くないヒギンズさんが、明日からわたしの言うことを聞いてくれると思いますか? あなたを連れてきたわたしと。取引相手の前で恥をかかされた部長が、わたしに八つ当たりすることが分かりませんか?
 ヒギンズさんも恥をかかされたとゴネてて、みんな迷惑しています。明日からの仕事もうまく回るかどうか。
 こんな常識知らずを連れてきたわたしが悪いということになり、クビにされました。もっとも、あなたをもっと常識的な人だと思い込んだわたしの間違いでもあります。
 あなたの言ったことは、正しい。そんなことはだれだって思ってる。でも、それが言っていいことかどうかくらいわかりませんか。あなたみたいなハンターズには、わからないことかもしれませんが。
 もう二度と、メールもコールもしないでください。してきても、返事はしません。』

 その言葉は淡々としていて、冷たくて、今までのメールとはまったく違っていて、もうそこにはどんな友情も好意もないのだと、嫌になるほどよく分かった。
 慌ててコールしようとしたら、回線不通になっていた。拒否登録されたのだ。おそらく、マレーネのPPCからヤンの名前もデータも消されただろう。
 その夜、久しぶりにヤンは泣いた。

 

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