ENEMY

 広々とした、果てしもない海のような感覚だった。
 ガル・ダ・バルの断崖から見た、夕暮れの水平線に似ていた。
 がらにもなく少し見入ってしまって、不覚にも気に入ってしまったあの光景のように静かで、果てしない。
 だからこそ、その男は異様だ。

 赤い髪を腰の下ほどまでものばした優男。
 色白だが背は高く、体つきは細いものの華奢ではない。
 見かけはヒューマンの男だ。
 だが、ただの人間が美しい海のような心持ちでいるわけがない。
(なんだこいつ……)
 しかもその男は、Gの前に現れた時から、Gを真っ直ぐに見下ろしていた。

「こんにちわ」
 ゆっくりとした口調、穏やかな声で言う。無論、Gは答えない。
 男はGに親しみと好意、何故か讃美にも似た感情を向けている。
 何故そんな感情を寄越すのかは謎だ。しかもそれは、初対面の相手に向けるものには感じられなかった。
 こっちは相手のことを知らないが相手は俺のことを知っているらしい、とGは判断した。
 消えてしまった記憶の中にいた男だろうか?
 直感だが、おそらくそうではない。

「……だれだ、おまえ」
 間の抜けた問いだが、牽制には丁度いい。
 すると赤い髪の男は、優しげな顔のままにっこりと笑った。
「今日はほんのご挨拶に出向いたまでです」
「おれは『だれだ』ときいている」
「わたくしは、A.W.」
「えい、だぶりゅー? それがなまえか」
「あなたもGと名乗っておられるではありませんか?」
「ふん……。で、おれになんのようだ」
「今日はとりたてて用というほどのこともありませんが……。そうですね。せっかくお会いできたのですから、一つだけ、確認させていただきましょうか」
 屈託なく微笑み、
「半月ほど前、B地区の工場跡地で、男を一人殺しませんでしたか?」
 そう言いながらも、男の内面はまだ、美しい海原のままだった。

 むしろその光景はより輝きを増し、穏やかになり、神々しささえ覚えるほどのものになる。
 さすがのGも戸惑い、この男はいったい何者か、なにが目的なのかと心底から訝り、警戒した。
「わたくしは、あれはあなたのしたことだと考えています。おそらくテクニックでしょう。実際あなたは、保護者のかたと頻繁に危険指定のある区域に出入りしていますね。しかも、重危険区域はあのかた一人ではとても手に負えない」
(なんだ、こいつ……)
 遥かな海に重なって現れたのは、間違いなくGの保護者(ということになっている)、ボイドのイメージだった。しかもそれを、まるで愛してでもいるかのように思い出す。
 Gの不審に気付いていないわけでもないだろうに、男はそのまま続けた。
「しかし、もし高位補助テクニックがあれば別です。ならば答えは二つの内のどちらか。あなたが補助テクニックを用いて彼をサポートしているか、あるいはあなた自身があの区画で戦えるほどの力を持っているか。ですがどちらにせよ変わらないことが一つ。それは、あなたが相当なレベルのテクニックを使用できるということです。ならば当然、あなたには人一人殺める能力があることになりますね」
 責めるでもなく、むしろ愛おしむように言われた。

 海原以上のものはなにも読めなかった。
 錯覚かもしれないと思っていた読心能力を、意図的に駆使しても引き出せるのは変わらなかった。
 ただ、ボイドの姿が二つと、見知らぬ男の姿が一つ、水底に漂っていた。
(まえのすがたか……。まえからしってるってことか)
 知らない男の姿は希薄だが、ボイドのイメージは大事に大事に包まれている。守るようであり、慈しむようだ。
 だが、こいつは敵だとGは感じていた。
 自分にとっても、ボイドにとってもだ。
 危険な存在だ。
 何故かは分からない。
 だが危険レベルは並大抵ではない。
 間違いない。

 災いの芽は摘むべきだ。
 だが摘んでしまえば分からなくなる。
 この赤毛の男が何者か、何故自分たちを知っていて、なにを求めて接触してきたのか。
 それに、
(やすやすとやらせてくれそうにはない)
「どうなさいました? 怖い顔をして」
「あいにくいつもこういうかおだ。それより、いいたいことがあるならはっきりいえ。おれがてくにっくをつかってひとをころして、だからなんだといいたい」
「恐れないのですね。人にそれを知られても」
「おれがひとを、しかもテクニックでころしたなんて、しんじるやつがいるとおもうか?」
「他人など関係ありません。―――罪。犯した罪のあることを、人に知られる。人は普通、それ自体を恐れます。普通は」
「ふん」
 Gが鼻先であしらうと、男は小さく笑った。

「先程も言いましたが、今日はあくまでもご挨拶にと出向いたまでです。いずれまた、あらためて。彼にもよろしくお伝えください。A.W.が近々ご挨拶にうかがう、と」
 では失礼。そう言って男はふわりと踵を返した。
 瞬間、Gは加減なしのフォイエを叩き込もうとした。
 だが、繰り出す直前に意識そのものがぶつかり合った。
 殺意と、殺意だ。
 A.W.はいつの間にかGに向き直っていた。
 その心象は、いまだ美しい大海のままだった。
 絶景の中から、見えない針が飛来して眉間を貫くような、そんな気がした。
(……かてん……かもしれん……)
 その研ぎ澄まされて美しい殺意がふっと消えると、
「坊やは、早くパパのところへお帰りなさい」
 A.W.はにっこりと笑い、そう言って今度こそ、立ち去った。
 Gは首筋に噴き出した冷たい汗を拭い、しばらくそこに佇んでいた。

 

(終)