3

 

「おいでなすったのねん」
 小声になり、アズはフェンリルの耳元で囁く。だがすぐに声の調子を元に戻し、
「その、顔を裂かれた女の幽霊って、見た人は同じようになって殺されてるって話よねん? 逃げてもどこまでも追いかけてくるって。この噂を調べてて、あたし、変なことに気付いたのよぅ」
 むしろ前よりもはっきりと、フェンリルよりも少し遠くにいる誰かに聞かせるように続けた。
「変なこと、とは」
 フェンリルの問う後方で、また、ばしゃ……、と音がする。だがアズにそれを恐れる様子はないし、フェンリルなど、まるで平気な顔だ。
「あのねん、誰かが『そんな女の幽霊がいた』って話したことになるわよねん? なのに、その体験をしたっていう本人がいないのよぅ。俺が見たんだって言っている本人が、どこをどう探しても引っかからないのよぅ。ね、変でしょ、ぽち。もしみんな逃げ切れなくて殺されてるんだったら、誰がそんな女の幽霊がいたって、伝えられるの? あるのは死体だけで、噂なんか出ないはずよぅ?」

 フェンリルは同じペースで歩きながら、言われたことを整理した。
 顔を切り裂かれた幽霊が出る、と分かるためには、誰かがそれを伝えなければならない。つまり、誰かその幽霊を見た者が、生き残って存在しているはずである。だが、アズが調べてもそんな人間は見つからなかった。
 もし幽霊を見た全員が死んでいるのであれば、幽霊が出たということ自体、伝えようがないはずである。
「……理解できる。だが、可能性はまだある」
「そうねん。死にきれないうちに発見されて、誰かに伝えたとか。あるいはこういうお話の定番通り、見た人も原因不明の死を遂げたとか。あるいは、メッセージパックが残されていたとか」
「ああ。そういう『怪談』もあるようだ」
「あたしはぜーんぶ調べたのよぅ。一人じゃちょっと量的にも質的にも無理だと思うから、人手を借りてねん。でもねん、そういう噂や、あるいは事実は、全然ないのよぅ」

 ぱしゃ……、ぱしゃ……。

「つまり、この話は嘘だということか」
「そーなるのねん」
 ぱしゃ……、とまた背後で音がする。
「でも、顔を裂かれた死体は本当に見つかってるのねん。おかしな話よぅ、ぽち。こんなことが『たまたま』だと思う? 顔を引き裂かれた幽霊と、同じような姿にされた死体。これを合理的に説明するならば?」
「……顔のない死体から思いついて、顔のない幽霊の噂が生じた」
「ピンポ〜ン♪」

 ぱしゃ……。

「ぽち。あたしが思うに、幽霊の話は、この奥に近づけないためのただの嘘。こんな水音なんて、ちょっとした仕掛けで簡単に作れるのねん。つまり」
「この奥には、人に見られたくないものがある、ということか」
「ビンゴ!」
 アズの声と共に、フェンリルは一息に大きく飛び下がった。
「ぽち、逃げるのよぅ! 剣は捨てて!」
「分かった」
 安物の大剣はあっさり水の中へ投げ捨てて、水草で滑る海底をものともせず、フェンリルは元来た道へと走りだした。

 その後方から聞こえてくる音は、最早、けたたましいほどに水を蹴立てる音である。
 片手でフェンリルの首を抱き、片手に炎を翳しながら、アズが言う。
「あたしがぽちを相棒に選んだのには、ちゃんと理由があるのよぅ。それは一にも二にも、この逃げ足なのねん」
「逃げ足……」
「言い方が悪いなら、機動力って言ったげるのねん。いい? この話がおかしいことなんて、少し考えれば誰にだって分かることよぅ。でも、歴戦のハンターズが、いくら油断していたって、顔ばっかりずたずたにされて見つかってるようなのが相手なのねん。相手がどんな奴か、なんのためにしていることかも分かんないのが問題なのよぅ」
 岩を蹴る。背後から耳障りな音と共に光の粒が追い越していく。
「アズ、火を消せ。Sメモリーから道の記憶は呼び出した」
「りょか〜い!」
 途端、闇。後方からはかすかな明かりが届くが、アズとフェンリルの姿は、完全な闇の中だ。
 水の音だけが激しく続く。

「用意した装備で応戦できるかどうかも分からないなら、逃げるしかないのねん。だから、あたしを抱えてでも逃げきれる相棒じゃないとダメなのよぅ。分かった?」
「理解した」
「頼りにしてるわよぅ、ぽち。洞窟を抜けたらこっちの姿も見えるようになるし、たぶん、あちらさんはこの辺の地理には精通しているはずよう。でないと、逃げた相手に確実に追いつくことなんてできないのねん。今のうちに引き離すのよぅ」
「だがもう外だ」
「ぽち、速すぎ」
 アズの溜め息と共に、二人は光の中に飛び出した。

 崖を上ってはいい的になる。海岸線を駆けながら、少しでも身を隠せる密林の中へとフェンリルは道を選ぶ。
 その腕に抱えられたままで、アズは見慣れない指輪をいじっていた。
「もしもーし。あたしよ〜ぅ。そうよぅ。食いついてきたわよぅ。捕捉してよ〜ぅ」
 アズが指輪に話し掛ける。するとその小さな金属から、応答する声が聞こえた。
「……ラッシュか」
「そーよぅ。データ集めとこのトラップの大元締めは先生よぅ」
『進行方向右手に折れる道がある。そこを逃せば海岸線の終わりにまで追い詰められる。だが、死体の発見位置からして、右に入った道に通じる近道が存在しているはずだ。充分注意してくれ』
「らじゃ!」
「道……あれか」
 引き離したはずの追っ手がまたすぐ背後、あるいは前方に出現する可能性はある。だが、他の道があると言われなかった以上、そこに行くしかない。
 フェンリルは真っ直ぐに獣道を駆け上がっていった。

 鬱蒼と生い茂る樹木の、絡まりあった根が、時折地面の真ん中にまで張り出し、大きく捻じ曲がっている。それを飛び越え、時には頭上の枝を手刀で落とし、可能な限りのスピードで走っていく。
 やがて後方、思いがけないほど近くに、人の声がした。
「嘘だろ!?」
 聞こえた声を引き離す。フェンリルの俊足は、追っ手の想像をはるかに越えていたに違いない。前に回って待ち伏せがかなうはずだったのだろう。
 その代わり背後から、再び銃弾の雨が来た。
「ぽち、道はこのまま真っ直ぐよぅ!」
『500m先で左に飛び込め。プラスマイナス20m以内なら、間違いなく間道に出る。そこからだと450だ。出たら左へ。いったん引き返せ』
「分かった」
 カウントを開始する。
 襲ってくる弾を避けるために左右へと蛇行せねばならないが、±20m以内ならばなんとかなる。

 右へ行け、左へ行け、と言われるままに走り回っていると、
『フェンリル、アズ。増援が来ている。別の場所にいた連中だ。気をつけろ。すぐ背後に出るぞ』
「どーすんのよぅ、運を天に任せるしかないとか〜!?」
『あと少しだ。道はもう……来るぞ!』
 ラッシュの切迫した声がした直後、フェンリルの足元すれすれに散弾が炸裂した。
「ひぃ〜、ぽち、スピードアップップ〜!」
「これ以上は無理だ」
「あん、左右に動いたってショット相手じゃダメよぅ! 真っ直ぐ真っ直ぐ〜!!」
「分かった」
 幸いなのは、下り道に差し掛かったことだ。上りほど無防備にはならなくて済む。
 だが、駆け下りたそこは道らしい道も途絶えた木々と草の中だった。
「先生、まだ真っ直ぐ!?」
『真っ直ぐだ。すぐに抜ける。抜けさえすれば、あと一つ、幸運を祈るだけでいい』
 バサバサッと大きな葉が音を立てた。

 


      4

 

 せいぜいフェンリルの体の影に隠れていようとはしても、後ろに回れば弾が飛んでくる。前に抱えられているかぎり、後頭部や背中、肩には枝や葉が当たる。
 だが、痛いのなんのと言っている暇はなかった。
 見えなかろうが知ったことかと、むやみやたらに弾が飛んでくる。
 フェンリルは二度ほど被弾したようだが、シールドユニットのおかげでダメージには到っていない。せいぜい外装が傷んだ程度だ。
 ゆっくりと考える暇はなかったが、何故ライトの一つも持ってこなかったのかは、フェンリルにも理解できた。
 可能な限り軽量化するためだ。たとえ端末一つでも、重量はある。交戦した時のために捨ててもいい武器が一本、逃げる時のことを考えてシールドユニット。それ以外は、逃げる時には無駄な負担になる。

『あと少しだ。道へ出たら右!』
 無線から聞こえるラッシュの声も緊迫している。
「いたぞ、あそこだ!」
 背後の声も、思った以上に近い。
 ジャングルを抜けると、再び道があった。飛び出して着地すると同時に、右へ跳ねる。元いた場所の泥が無数の銃弾に叩かれて飛沫を上げた。
 フェンリルの肩越しに背後を見たアズは、そこに武装した一団が現れるのを見つけた。
 どこかで見たような装備だが、どこで見たのかはとっさには思い出せない。だが、決して平穏無事に暮らす人間の味方ではなかったはずだ。なにか権力と通じた、そのくせ、闇の力。
「きゃい〜っ」
 銃を構えるのを見て足を引っ込めると、裾を弾が破った。

 遮るものがなにもない。ここが絶好の場所だろう。
 だが
(あり?)
 一瞬だが、追っ手の動きが緩んだ。
 なにかある。そう直感し、アズは進行方向を向く。
 道を右から左へと横切って、大きくうねる太い根がのびていた。見た瞬間、閃いた。
 閃くなり、
「ぽちッ、下ッ!」
 怒鳴った。
 フェンリルは頷きもせず、倒れ込まんばかりに前傾し、地面を蹴って前へ跳んだ。
 ぬかるみの地面に右手をつく。その手で、更に体を前へと押し出す。
 アズの背を、なまぬるい泥がかすった。

 根の下、僅か50cm足らずの空隙を、フェンリルは駆け抜けていた。
 根の上を、意味もなく銃弾が飛び抜けていく。
 飛び越えていれば、空中では身をかわすこともできず、まさに絶好の的だっただろう。彼等はそこに狙いを定めて待てばいいはずだった。的がフェンリルでなければ。

 一度動きを止め、更には思いがけない出来事に浮き足立った追っ手との間が開く。
『上手く引き離したな。最後だ。フェンリル。道を抜けると広場がある。広場に、三つ石を並べて置いた。いいか? その石から10m、跳ぶんだ』
「10m……」
『現在の装備品と所持品、アズの体重その他、君の運動性能まで含めて、不可能ではない数値だ。一歩なら踏み越えてもいい。いいか、10m以上だ。ただし、できるだけ低い軌道で。さもないと撃たれる』
「分かった」
「むかーしオリンピックってゆー国際的なスポーツ試合があったのねん。マンだって8m9mは跳んでたのよぅ。ぽちならいけるわよぅ」

 道が途切れた。
 石が三つ。
 一歩だけ踏み越えて、跳んだ。

 軌道を低くとったため、あと1mが足りなかった。
 フェンリルは腕をのばし、指を立てて地面を掴んだ。
「オォ!!」
 消え行く推進力に腕で引く力を加えて、前へと体を持ち込む。
 バランスを失って横転した場所は、10mラインの向こう側だった。
『よし! そのまま走れ!』
 泥まみれのまま、更に進む。
 やがて後方で、悲鳴が生まれた。

 幅10mの、落とし穴。
 前の一人が手前で落ちかけて、後の者が飛び越そうとしても、どだい無理な幅である。20人ばかりの人間が次々に穴の中へと落ち込んだ。
 ぐるりと広場を取り囲むようにして、武装した軍人たちが現れる。踏みとどまった者も、完全な武装と圧倒的な銃器の前に、抵抗などできるものではなかった。
「原始的なトラップだが、侮ったものではないね。お疲れ様。おかげで幽霊を捕まえることができたよ」
 ようやく走ることをやめたフェンリルの前に、ラッシュが立っていた。

 


      5

 

 古来から軍というものは、戦闘のスペシャリストを育てることに余念がない。
 その中には必ず、ゲリラ戦を得意とするようなタイプの部隊も必ず用意する。
 彼等は、テラの国際社会では名の知られたチームだった。
 彼等のコードネームが「GOST」だったのは、偶然なのか、悪いシャレなのか。
 パイオニア2の搭乗名簿に名前のないところからして、なんらかの理由で乗せられたことは間違いない。政府がらみの胡散臭い「裏」があることは、言われずとも分かる。

 しかし、そういった具体的なことは、ハンターズには関わりのないことだ。
 幽霊の 正体見たり 枯れ尾花。
 腹立たしくまた残酷な事件ではあったが、人間の仕業と分かれば、噂になったのもニュースになったのも、ほんの二日程度。

 路上のカフェテラスでは、また新たな怪談が囁かれている。
「それでね、『貴方は誰?』って聞いたら……」
「も、もぅやめてくださいです〜〜〜っ」
 夏は怪談の季節、まだまだこれからである。

 

(The end)

元ネタと言いますか、まあ、あれです。
あれ見て、勝手に作らせていただきました。
「あれ」が気になる方は、rai様の「ECLIPSE」をご覧くださいませ。