狂気

 

 この心の高ぶり、乱れようは、恐怖でも不安でもない。
(あのかたのお役に立てる)
 彼女の心を占めるのはその一事だった。

 彼女たちは皆、市民として名乗っている本名(あるいは偽名)とは別に、専用の名前を持っていた。
 彼女はイオという。
 本来の名前の頭文字をとったものだ。
 この名を彼女は気に入っていた。
 いや、大事にしていた。
 おかしな名だなどと言われれば、それだけで目の前にいる相手を殺す理由になる。
 何故ならこの名は、「あのかた」のつけてくれたものだからだ。

 仲間―――同志の中でも地位の高い者は、相応に立派な名を持っている。「あのかた」の右腕と左腕とも言うべき男と女は、陽光と月光を意味する名を持っていた。
 しかしイオのような最下部の同志は、いくら好きに名乗れるとはいえ、そんな大層な名を名乗ることはなかった。相応の実力もないのに名だけが立派というのは、彼女たちにとっても恥ずかしいことだった。
 だから皆、分相応な名前を考える。
 しかしイオは、自分で自分の名を決められなかった。

 昔からそうだった。
 ああしなさい、こうしなさいと指示を出されれば動ける。その途中で躓けば、状況を説明して打開策を求めることもできるし、最終的な目標に向かって、どうすればいいか選択することもできる。
 だが、好きにしなさいとか、自分で決めなさいと言われると、頭の中はめちゃくちゃになるのだ。真っ白になり、混乱し、自分がなにについて考えているのかさえ分からなくなるほどめちゃくちゃになる。
 なにも言われないなら決められても、「どうする?」と問われるともういけなかった。

 だから同志としての名前を決めることになった時も、「おまえはどうする」と言われた途端になにをすればいいのかも分からなくなり、混乱し、そんな自分がつらくて泣き出してしまった。
 皆が呆れた。溜め息が聞こえた。舌打ちも聞こえた。「こんなのが役に立つのか」という心の声も聞こえた気がした。ともすると、顔を上げれば嘲笑う姿も見えたかもしれない。
 そんな時、「あのかた」だけは蔑むことも笑うこともせず、慈愛に満ちた優しい声で言ったのだ。
「では、イオというのはいかがですか? I.O.。頭文字をつなげただけのものですが、イオ、悪い響きではないでしょう」

 I.O.。
 他愛もないが、「あのかた」の名にも似ていた。
 頭の足りない……いや、知的な活動はできるのに、人に求められて自分で決めるということだけができない頭のおかしな女に、しかも女とは思えないほど、人間とも思えないほど醜い生き物に、「あのかた」だけは等しく微笑んでくれた。
 上っ面のものでないことを彼女は感じていた。上っ面の笑顔や言葉なら、見飽きるほど見、聞き飽きるほど聞いてきたからだ。そのどれとも完全に違うものが、「あのかた」の言葉や態度にははっきり含まれていた。
 最早ただの化け物でしかないイオを、彼だけは慈しむ目で見、当たり前のように受け入れてくれたのだ。
 そして、イオという美しい名をくれた。

 イオと優しく呼びかけられる時、その時だけ、イオは自分が人並みの、いや、人並みに以上に美しい、イオという名に相応しい女になったような気持ちになった。
 華やかで明るい名だ。きっと髪はブロンドで、強くカールしているだろう。肌は抜けるように白い。赤い服や口紅がよく似合う。すらりと背が高く、素晴らしいプロポーションをしている。気性は激しく強く、歯に衣を着せない。思いついたらどんどん行動し、後悔などせず前へと進む。
 「あのかた」にイオと呼ばれる時だけ、イオの心は空想の中のイオのように明るく華やぎ、十四歳の女の子のように恥らうのだ。

 「あのかた」が望むのならば、そのために働くことができるのならば、怖いものなど何一つない。
 イオの心を高ぶらせているのは、彼のために働けるという喜びだけだった。
 なにも望まない。ただ、自分の働きに「ありがとう」と言ってくれればそれだけでいい。よくやってくれたと喜んでもらえれば、天にも昇る心地になる。
 死んでもいいのだ。
 もしかすると「あのかた」も少しくらいは哀しんでくれるかもしれない。いや、哀しみなどという素晴らしいものを期待してはいけない。よく言いつけを守り、言われたままに働く便利な手駒だったと、そう惜しんでくれるのでいいのだ。それすらも勿体無いほどに嬉しい。

 そんなイオに、「何故」という言葉はなかった。
 何故、127を始末せねばならないのか。
 そんなことはイオにはどうでもいい。
「わたくしは、その必要性はないと思うのですが」
 と「あのかた」は少し困ったような声で語尾を濁した。きっと、幹部たちの総意がそうなったのだろう。「あのかた」は他の誰よりも優れ、誰よりも尊いが、教義に反するのでないかぎり同志の意見をまず尊重する。
 おおかた、同志が二人殺されたのが理由だろう。一人は127を同朋として招けないかの打診に向かって殺され、もう一人はたまたま出くわして殺された。
 だから127は邪魔だということになり、「あのかた」は幹部たちのその意見を容認したのだろう。
 そして、イオを呼んだ。
(ああ……)
 とイオはその時のことを思い出し、うっとりと目を閉じた。

 初めて「あのかた」と二人だけになった。使命を与えられる時には、関わらない者は誰もいないのが常なのだが、イオの場合はいつも、他の何人かと同じ使命を与えられてきたのだ。
 だがあの時は二人きりだった。
 イオだけに下された使命だった。
 イオだけに。
 そして「あのかた」はこうも言った。
「イオ。あなたはとても大切な同志です。あなたはいつも、本当によくやってくれます。ですから、今度のこともあまり無茶はしないように。もしうまくいかなくても、気にすることはありません。無事に戻ってくるのですよ。いいですね?」
 心配げに言い聞かせる声が耳に甦り、イオはもう一度、心の中で震えるような溜め息をついた。

 そして、何度も何度も「あのかた」の名を胸の中で繰り返した。
 魔法の呪文だ。唱えれば世界の全てが明るく輝き、どんな嫌なことも忘れられる。
 私はこの世界にいてもいいのだと、それは決して間違いのないことなのだと、生まれてきた喜び、生きている喜びに満ち溢れる。
 尊い尊い名。口にすると汚してしまうような気がして、今まで一度も口にしたことはないが、心の中では何度となく繰り返した。それはこの世の全て、イオの命の全て、
(ああ、必ずやり遂げます。必ず、必ず。待っていてください。イオが必ずやり遂げます)
 そして、力の全てだ。イオは手足に漲る力を感じた。

 その時、敏感な耳に草の触れ合う音が届いた。
 イオは甘い陶酔から一息に現実世界に飛び戻る。
 目を見開き、耳をそばだてた。
 127だろうか。
 音のしたほうへと進みながら、鼻を鳴らし匂いを嗅ぐ。しかし、なにも特別な匂いはしない。さすがに犬のようにはいかない。
 じっと身をひそめた。
 近づいてくるようだからだ。
 やがて、声が聞こえた。男と女の会話だった。

 冗談じゃない、帰ろうと男が言う。耳障りな甘えた声だ。
 女は、帰りたいなら帰れと一蹴した。
「はん! どいつもこいつも腰抜けばっかりだ。居場所まで分かってて手を出さない。政府も、軍部も、ギルドもだ!」
 烈火のように激しい声だった。
「けど……」
「うるさいよ!」
 気弱に言いさす男の声を叩き伏せる。
「あたしはね、オママゴトでハンターズやってんじゃないんだ」
「でも」
「うるさいって言ってんだろ!? あのクソアマ、絶対に後悔させてやる」
 吐き捨てる言葉に合わせて、セイバーかなにかが振り抜かれたような音がした。

 詳しいことはなにも分からないが、127がひそんでいると言われる場所に、ただのハンターズが来ることはない。おそらくこの二人の目的はイオと同じだ。殺しはしないかもしれないが、荒っぽい手段も厭わないのは間違いない。
 女が突っ走るので、男も仕方なくついてきた。これも間違いない。
 なんにせよ、都合はいいかもしれない。
 自分はあくまでも身を隠し、このエサに127が飛びつくなら、その隙を狙って殺せば簡単だ。
 イオはひそかに二人の後をつけようとし、しかし、つい不用意に動いて自らもまた、大きく草の動く音を立ててしまった。

「ひぁっ!!」
 男の悲鳴がし、うるさいほど草が鳴る。転んだのか。
「なに!?」
 女が鋭く恫喝した。頭上に突き刺さる視線を、イオははっきりと感じた。
 逃げてもいいが、追われるだろう。逃げ切れるとも思えない。狭い場所やこういった草むらにひそんで少しずつ、知られないように移動するのは得意だが、素早く走ったりするのは苦手なのだ。
「待って。私は127じゃない」
 草の下から、イオはそう声をかけた。そんな言葉を鵜呑みにするとすればよほどに馬鹿だ。さすがに、女ハンターズの殺気は緩まない。
「私も127を追ってきたのよ」
 そう言いながら、イオは草を掻き分けて背を起こし、女を見上げた。

 ―――「イオ」がそこにいた。
 真っ赤なハンターズスーツを身につけた女。大胆に露出された肌は透き通るように白く、日差しの中、色の濃い金髪は眩いほどだった。髪は強めにカールされ、赤いスーツから真っ白に覗く胸の上にかかっている。さして大柄ではないが肉惑的な体つきで、鍛えられた手足は細く強靭に見えた。
 長い睫毛に縁取られた大きな目に強烈な意志を宿し、眩い、烈火のような女。
 その赤い唇が、嘲笑の形に歪んだ。
「なにこれ」
 と言う。
「あんた、なんかの出来損ない?」
 ズキンと、イオの胸に痛みが走った。

「うわっ、キモ……」
 男はイオを見、顔全体を歪めると体全体で嘔吐感を表した。
 思わずイオが一歩前に出ると、
「やだ、こっち来んじゃないわよ、気持ち悪い」
 目の前を、赤い刃の切っ先が掠めていった。

(ああ)
 とイオは胸の中に「あのかた」の姿を描き、心の内で名を唱えた。
 これは今度の使命の中に入っていない。
 だが、
(殺します。この女を殺します)
 一人でも多く殺めること。「あのかた」か望むのはそれだけだ。
 127の前に一人二人増えても、「あのかた」は褒めてくれこそすれ咎めはすまい。

 イオは手足を踏ん張ると、突き破るつもりで女の腹に向け全身をぶつけた。
「げェっ」
 きれいな女も、悲鳴は汚い。
 イオは転倒した女の上に乗り、手を一杯に広げて両手で白い首を押さえつけた。全力を込め、女の首を地面へと押し付ける。
 女の口は開き、歪み、鼻の穴が剥き出しになり、舌がねじれる。目と眉が引きつり、すさまじい形相になった。

 逃げていく男のことなど、イオは意に介さなかった。
 もとの顔つきも分からないほど醜い顔で女が死ぬと、腹の上から降り、肩のあいたスーツを両手で引き千切った。
 零れ出した白い乳房をそれぞれの手で掴むと、渾身の力を込めてむしりとった。
「うぅぅあッ!!」
 赤い肉の丸出しになった上へ、気合を込めて力の限り拳を打ち込む。肉を突き破り骨を折り、イオの手は女の胸の中に埋まった。
 一度息を入れて休むと、そのまま両手に力を込め左右に肉の戸を開く。不器用に、少しずつ、臍の下まで開いていった。

 どんなきれいな女も、腹の中は同じだ。
 グロテスクな内臓の絡まり。
 引きずり出して腸を探ると、中に固形物が感じられた。
 どんな女も、腹の中は汚い。
 股間まで裂いた後で、顔を殴り潰した。
 どんな女も、こうすれば醜い。
 どんな男も、こんな女を褒めたり恋したりはしない。
 みんなが顔を背ける。
 手も足も指も、ずたずたにすればみんな同じだ。
 イオは楽しくなって小さく笑いはじめた。
 どうすると問われた時と同じように、しかしそれとは全く別の形で頭の中は真っ白になり、繰り返し繰り返し、爪を立てて女の肌を掻き毟る。皮膚を削ぎ、肉を抉る。

(殺す)
 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 土の上に置いた手、指に執拗に石を打ち下ろす。
 指先の爪まで憎んだ。
 この肉に無傷なところがあるのが許せなかった。
 引き裂き、掻き毟る。
 イオの手は楽々と肉を引き千切り、引き裂いた。
 ここでは思う存分できる。誰も来ない。邪魔されない。好きなだけできる。
 頭蓋骨を叩き割り、零れた中身を地面に擦り込む。人間らしい形など一つも残したくない。
 気に入らない。
 
 そして、それがかつては人であったことなど分からなくなるほどただの肉と汁になった後で、イオは荒れた息を少し整えて後ろを振り返った。
 そこには男の肉体が一つ転がっていた。ほとんど動かないが、呼吸に合わせて胸や腹は膨らんだりしぼんだりしていた。
 再び、猛烈な怒りが腹の底から湧きあがってきた。
(殺してやる)
 生きているのが許せない。
 こんなところでのうのうと生きているのが許せない。
 憤怒と憎悪の唸り声を上げ、男の髪を掴み、毟り取った。
 めくれついてきた頭皮ごと、髪の束を草むらに放り捨てる。
 そしてまた、それがただの肉と汁になるまで、引き裂き、掻き毟り、叩き潰した。

 イオはもう、そこにはいなかった。

 

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