YAN

 

 自分の呼吸音が耳につく。
 喉が痛い。
 頭が痛い。
 眩暈がする。
 耳鳴りがする。
 足がもつれる。
 膝が笑う。
 斬られた腕がやけに熱い。

 必死に全力疾走を続けるヤンの耳には、自分を追いかけてくる男の足音が絶え間なく聞こえる。ないはずの息遣いまで聞こえそうな気がする。
(127……)
 きっとこいつが127なのだ。
 ここ半月ばかりの間に二十数人を殺し、その死体の脇へ血文字で「127」という謎の数字を残す殺人狂。
 完全なる無差別殺人者。
 昼も夜も問わず、殺せるときに殺せる相手とそこにいさえすればいいらしい。
 女、老人、赤ん坊という弱者にも容赦はせず、軍人、政府関係者といった権力も意に介せず、ハンターズだろうが構わずに殺していく。残される死体は、それなりに慣れたはずの捜査官さえ嘔吐させるような、とんでもない有り様だ。
 一昨日の放火も、127の仕業だった。焼き殺されたのは自分では立てない老婆が一人、慌てて逃げ出した父親と子供二人を、127は惨殺している。

 ヤンもできるかぎり警戒はしていた。
 一人では出歩かないようにしたし、人けのないところには行かないようにした。
 今日は仕事だった。
 久しぶりに危険区域に入った。
 無論一人ではない。
 127には軍人が一人、ハンターズさえ二人殺されている。人の目の少ない危険区域に、一人で下りるのは命知らずかよほどの強者、さもなければただのバカである。
 あのベータでさえ、万一を考えて相棒を見繕っていると聞いたのは、昨日だ。意外に臆病なのね、とは微塵にも思わず、それが本当に賢い、強いハンターズなのだと珍しく素直に感心したくらいだ。
 それくらい、127は不気味で恐ろしかった。
 だからヤンも、よく見知った、信頼できる友達二人に声をかけた。二人とも、親の借金があったり一人暮らしだったりで、しかもあまり貯蓄はない。一人では怖くて仕事にも行けないところだったと、大喜びで加わってくれた。
 ヤンも、貯金を崩す前にできるだけよく考えて、安全に、仕事をしてみようと思ったのだ。

 ユリが入り、テツヤが入った。
 続いてヤンも入ろうとした。
 森林公園の、よく使い慣れたテレポーターだ。
 中に立った時、一瞬だけ光の幕がブレたような気がしたが、特におかしいとも思わなかった。
 だがたぶん、その一瞬で、外部から座標をいじられたに違いない。
 まるで見当違いの場所に出た。
 遠くに見えるセントラルドームの屋根から、まだ未開発の森林地帯、それもだいぶ北のほうだと分かった。
「ユリちー? テッちゃん?」
 呼んでみた。いるはずがないのは分かっていたが、考えたくなかったのだ。だから、二人が悪戯をしているのだと思いたかった。しかし予想していたとおり返事はなく、薄暗い森は静まり返っていた。
 そして―――。

 テクニックは、使うにも一瞬とはいかない。
 意識を集中する時間が必要になる。
 フォースが単独行動に向かないのはそのためだ。誰かが前に立ってその時間をかせいでくれないと、ろくに戦うことができない。
 不意打ちの戦闘には非常に弱い。
 127らしき人物から逃げ回る内に、ヤンも何度かはテクニックを使おうと試みた。
 だが足を止めて息を整え、意識を集中させるには短くても五秒はかかる。その五秒があれば飛び掛ってくるだろう。それくらいすぐ後ろに、127はいる。

 走りつづけながら、ヤンは必死に考えていた。
 自分は127と思われる相手を見てしまった。
 いや、127ではないのかもしれない。けれど、面識もないような相手を、こうもしつこく追いまわし殺そうとする狂人が、127の他にもまだいるとは思いたくなかった。
 自分を「彼」は絶対に生かしてはおかないだろう。
 なんとか人のいるところへ逃げ込み、今日は誤魔化せたとしても、明日からは狙われるのかもしれない。
 警察に届け、相手の特徴を告げ、素早く対処してもらわなければならない。
 相手は、127は、暴走したヒューキャストだ。
 人の命に対する認識そのものが消えた、殺戮専用の機械人形。
 今は、その鋼の手から逃げ切らなければならない。

 乾ききった喉に、息と共に粘りつく唾が入り込んだ。
 噎せる。
 駆ける足が緩む。
 その瞬間、背中を熱線が走った。
 カッと熱くなる。
 わけがわからないまま足がもつれた。
 転ぶ。
 勢いのままに地面を何度か転がった。
 立とうとして手をついて、ひどく背中が痛んだ。
 斬られたんだ、と分かった。
 ふと顔を上げると、金色に輝く長剣を手に、青いボディのヒューキャストが立っていた。

 尻餅をついたまま踵で地面を蹴って下がった。
 開いた間合いは一歩で容易に詰められる。
 汗が目に入った。
 瞬くが、目の前の殺人機械は、ぼやけるだけで消えてはくれない。
 自分の歯が鳴っているのが分かる。けれど止めようがない。
「殺してやる」
 動かない口か、ら声が零れた。
「殺してやる」
 ありったけの憎悪と怒りを吐き出したようなドス黒い声だった。
「なんで……あたい……」
「殺してやる。皆、殺してやる」
 金色の光が頭上に翳される。
(ウソ。なんであたいが……)
 ヤンは呆然と、その光を見上げた。

 轟音が響いた。
 目の前が白くなった。
「畜生、てめえか!!」
 男の声がして、それっきりヤンは―――気を失った。


 

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