「ヨネス」 帰ってきた少年は泣きべそをかいていた。 食事の支度をとしていたヨネスは、何事かと火を止めておたまを放り出す。 「どうしたんだい。なにか」 いじめられたのだろうか。 将来は自分の主になるであろうこの少年は、祖父には似ずに気弱でおとなしい。あまり躾の良くない級友に手酷くからかわれることがあるのはヨネスも知っていた。 だが少年はヨネスの言葉が終わらないうちに、 「ごめんね、ごめんね」 と大泣きに移行してしまう。 いきなり謝られてわけが分からなくなったヨネスは、さっき取り替えたばかりでまだ使っていない手拭用のタオルを、流し台の取っ手から引き抜いた。
「ほら、しゃんとして。言ってごらんよ。どうしてあたしに謝るんだい? なにがあったんだい?」 膝を折り、小柄な少年とできるだけ頭の位置が近付くようにする。 だが少年は、 「本当にごめんね」 と言ったきり、キッチンから駆け出していってしまった。 あとに残されたヨネスは、茫然としてドアを見やるばかりである。
その夜、主の晩酌に付き合っていたヨネスは、さすがに口数も少なかった。 夕飯もろくに食べず、少年は部屋に閉じこもったきりでいる。ヨネスがお菓子とお茶を持っていっても入れてくれない。 少年にいったいなにがあったのかと思うと、そればかりが気になって他のことは頭の中から薄れてしまう。 主がグラスを差し出していることにも気付かず、ヨネスは溜め息をついた。 「おい、こりゃ」 言われてはっとなり、慌ててボトルを取り上げる。 注がれた淡い緑色の酒をすすりながら、老人の目はまた溜め息をついているヨネスに向いていた。
「……あれのことか」 「え? あ、ええ、そうなんですよ。ぼっちゃんが急にあたしに謝って、それっきりで。嫌われたわけじゃあないと思うんですけど」 「ワシゃあわけを聞いた」 「えっ」 「昼間、いつもの悪いのにからかわれたらしいぞ」 「まったくあの悪たれ小僧は……」 「おまえの悪口を言われたらしいの」 「え? あたしの?」 「ほれ、その体じゃよ。怖くてなにも言い返せなかったとさ。それでじゃろ」 「ぼっちゃんたら……」
泣いて帰ってくることの多い少年だ。 この先これで大丈夫なのかとは、祖父たる老人だけでなくヨネスも思うことがある。 これで企業のトップは務まるまいというのが正直な感想だ。 両親はパイオニア1で先行したがために生死不明。政府や総督府の見解では、死亡していると見るしかないらしい。頼りの祖父も、この先何十年といてくれるわけではない。若い頃にはずいぶんと辛酸をなめ、体を酷使したらしく、今の健康状態もあまり良くない。 おそらくはこの十年の間に、少年がバッファ家の当主になるだろう。 財産はいい、と老人は言う。どうせ己一代で作った成り上がりの金で、薄汚い親類どもに掠め取られるかと思うと腹は立つが、少年に背負わせても気苦労にしかならないなら奴等にくれてやれと。成人するまでの間は、ヨネスがハンターズとして稼いだ金で、慎ましく暮らしていけばいい。 ヨネスはそもそも、少年の後見人として作られたのだ。
少年は気弱でおとなしく、引っ込み思案。体も小柄で頼りない。 だが、友達のことを悪く言われて傷つく優しい心と、自分の勇気のなさを悔やむ気高さの種を持っている。 ひょっとすると、十年先にはしっかりした青年になっているのかもしれない。 また差し出されていたグラスに気付き、ヨネスはこれまでに何杯注いだかを考えた。 晩酌は三杯までと決めてある。 だが、今日はもう一杯だけ、お祝い代わりに出してもいいだろう。 「もう一杯だけですからね」 「分かっとる。分かっとるんじゃから、この辺まで入れんか、ほれ、この辺」 「いけません。それなら一日二杯に減らしますよ」 「ケチケチするな。ほれ」 「あっ、ちょっと零れ……!」 「おーっととととと」 「もう……」 表面張力の限界を越えたグラスの縁に口をつけ、老人は慌ててすすりこんだ。 ヨネスは、明日の晩酌はグラス六分目で三杯までにしてやる、と心に決めるのだった。
(おしまい) |