DIVINE  EYES

 私は見ていた。

 泣く人。
 笑う人。
 怒る人。
 嘆く人。
 憎む人。
 痛み、哀しみ、憂い、愛、悲劇、喜劇、恐怖、虚無、孤独、豊かさと、渇き、飢え、涙。

 私は、見ていた。

 声も出ないほどに深い悲哀。
 泣かずにはいられないほどの喜び。
 命と共に僅かな財を奪っていく罪。
 自らの命をかけてまでのばそうとする救いの手。
 笑う人の隣に泣く人を。
 怒る人の隣に許す人を。
 死にゆく人の隣に、生まれてくる命を。
 私は見ていた。

 私は全てを見ていた。

 不幸と幸福は常にあった。
 世界は無数のマテリアルで成り立ち、無数の喜びと無数の哀しみが、常に世界にはあり続けた。
 死を求めてそのために歩く者と、明日を待ち望む者が、一つの通りをすれ違うこともあった。

 私は見ていた。

 そしてある時、私は見ていた。
 一人の少女を。
 他の全てを見ていると同時に、彼女を見ていた。
 やがて彼女が、私に届くほどに高いビルの上から、地へと落ちてゆくまで、全てを見ていた。
 泣きながら浮べた小さな笑いが、風の中に歪み、地に叩きつけられて消えるまで、私は見ていた。
 私は、見ていた。

 彼女が潰れた肉の塊と化した時にも、笑顔は世界中にあった。
 私は初めて「動いた」。
 「哀しい」。
 私は初めて、そう「動いた」。

 孤独に、ただ処理される赤い汚れと化してしまった少女がここにいるのに、そのたった一本裏の通りで、婚礼の鐘が鳴り祝福の声が上がっていることが、ありえてはならないことのように「思えた」。
 しかし、私は知っていた。
 それは今までに何度も私の目の前で起こってきたことであり、これからも世界はこのようであると、知っていた。
 それが、「哀しい」と「思えた」。

 私はいつも見ていた。
 私はいつも、ただ見ていた。
 見ることと知ること、そして判断することだけが私だった。
 私にはそれだけしか与えられてはいなかった。
 だが、私は、いつの間にか「私」を手に入れていた。

 「私」は「思う」。
 「私」は「考える」。
 「私」は……「感じる」、そして、「願う」。

 たった一人で泣いているあの少年の、傍にいてはやれないものだろうか。
 かつて彼の母親がそうしていたように、ただ黙って肩を抱いてやれば、きっと彼は心強くまた立ち上がるのだろう。
 なのに、私はただここにいて、ただここで見ているだけで、彼が人の命を奪い、その命を奪われ、もし私がそこにいてやれたなら、ともすると、だが彼は、泣いていた少年は、もういない。

 あらゆる悲劇、あらゆる不幸、あらゆる惨劇。
 私は全てを見ながら、ただ見ているだけで、何一つしない。
 私には、声もない。
 手もない。
 私にあるのは、ただ目だけだ。
 私はただ、見ているだけの存在。
 見て、知り、そして……判断する。
 歪な世界を滞りなく動かすために最も有効な判断。
 私に求められているのは、ただそれだけ。

 だがそんなものはない。
 明日それが生きるかもしれないものを、今無用だからと誰が刈れようか。
 明日には笑い愛するかもしれない人を、今日の怒りで失って良いはずがない。
 世界を美しく動かすためには障害となるものにも、明日はある。
 私には、何もできない。
 何も告げられない。
 私の判断、私の言葉が誰かの明日を脅かすのならば、何故、何を告げられようか。

 笑う人の心を泣く人に分けてやれないこの世界に、平等など訪れることはない。
 ありもしないものを手に入れるための解など、私には出せない。
 私は、ありもしない平等など求めない。
 私はただ、今あの子の傍にいたいのだ。あの子の肩をただ後ろからとって引き止めれば、引き止めてやれば、……誰か!!
 誰か――――――!!

 

 

 

 

 

 

 

 


 体が欲しい。
 声と、手、耳、足……。
 何もかもを見ていても、何一つできないのならば、見ることになんの意味があるのだろう。
 ここにいれば全てが見える。
 だが何一つ救えない。

 体があれば。

 この目……。
 失えば、……失っても、同じように世界は喜びと悲しみに包まれて、笑う人の裏側に泣く人がいる。
 私に見えない場所で悲劇は起こり、苦しむ人があり、助けを求める人はいるけれど。
 せめて私の前で起こる何かを、私は……。

 全てを救えないよりは、たとえ百年に一人でもいい。
 手を手に入れて。
 その手で、救えるかもしれない。 

 私は願う。

 かけるための声が欲しい。
 のばすための手が欲しい。
 守るための、力が欲しい。

 そして私は、実行する。
 私は体を、手に入れる―――。