AMBROSIA ──鳥の聖餐──


 これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる、永遠の契約の血である。言っておくが神の国が来るまで、私は今後葡萄の実で作ったものを飲むことは決してあるまい。(新約聖書より)


(神父様を守らなくちゃ)
 と思ったが、相手の攻撃手段は見たことが無いものなので、困った。
 鋭い刃物の欠片のようなものが飛んでくる。盾になろうにも、刃物の軌道は巧妙に彼女をかわして、背後にかばった赤い髪の男へと伸びる。
 さがりなさい、という声に、マリーは従った。自分の力不足を悔やむよりも、今は戦い方を学んだほうがいい。それに、
(神父様が負ける訳ないのネ)
 だから、全てを見ておくのだ。
 殺し方を、浄化の方法を。いつか自分も、もっともっと殺せるようになる為に。
 両の掌が、自ずと胸元に組まれる。マリーは、微笑んですらいた。
 殺し合いの現場を目前にして、少女尼僧は幸せに包まれているように見えた。

 
 修道院にいた時、マリーは祈ったことはなかった。
 何故修道院という処に送られたのかも、当時は理解していなかったし、そこで唯一与えられた本を学ばされたが、読めば読むほど、書かれた内容に納得がいかなかった。
 しかし、「何故」と問うことは、そこでは罪だった。鵜呑みに信じることができなかった彼女は、懺悔室という名の独房に隔離され、典礼儀式以外の殆どの時間を、そこで過ごした。
 食事を絶たれ、常に暴力にさらされる暮らしが続けば、幼い子供は苦痛と飢餓に馴らされて従順になり、鈍磨した精神はその境遇を不幸とさえ認識しなくなる。
 思考放棄した頭脳に神の理念が刷り込まれれば、敬虔な信徒の一丁あがりだ。
 が、マリーは恐怖の中で、そうさせるものへの疑惑を育んだ。
 独房から引きずり出されて強制される、もったいぶった儀式の途中、舌の上に乗せられる粗悪な紙のような種無しパンは、腹の足しにもならない。
 そもそも、磔刑の思想犯の血やら肉やらになぞらえて、酒とパンを食うことが何故そんなにありがたいのだろうか。
 その大工が人類全ての罪を背負って処刑されたというなら、今この病んだ星で続く戦争は、罪ではないのか。
 もう罪などないのだから、どれだけ殺しても構わないと、後の世へ戦争と殺人の許可と言質を与えるために、あの髭面の男は死んだのだろうか。
 問いに答える者は誰もいない。
 答えの代わりに鞭と氷水が、文字通り死ぬほど浴びせられたので、彼女はもう誰にも問いかけはしなかった。
 だが、ただの虐待を試練だ罰だと言う嗜虐趣味の欺瞞者の信じる存在が、神であるものか。
 本当の神は、きっと別にいる。

 修道院にくる直前の記憶として、マリーの脳裏に未だ鮮明な光景がある。
 轟音の後に目を開けた時のあたり一面灰色の瓦礫、べっとりと温かく自分を濡らす、恐らくは爆撃から守ってくれた両親のものだと思われる、叩き潰された果実のように色鮮やかな赤。
 そして建物も何もかも消えて見晴かす、炎に染まった彼方の地平に、居並ぶ大きな鳥のシルエット。
 全てを無に帰す、鳥の形をしたものたち。あの鳥たちは、きっとこんな教会も紙のように蹂躙していくだろう。中に蠢く腐敗した人間もろともに。

 王。鳥の王よ。

 凍りついた独房の鉄格子の外を、時折羽ばたきの音が過ぎていく。よぎる翼の影。
 本当の神は、あのようなものに違いない。
 マリーの思い描く神は、いつしか鳥のイメージとイデアに重ねられる。
 猛禽のように強く、渡り鳥のように自由なもの。
 汚らしい欺瞞者たちを滅ぼし浄化するもの。
 国境も河も海も山も時さえも、自在に越えてゆけるもの。

 王。鳥の王よ。

 洗礼というなら、子羊ならぬ親の臓腑から溢れたあの温かい血だ。瓦礫のなかで、真の神たる鳥の王はとっくにマリーを祝福していたのだ。
 では秘蹟の杯も、神から与えられるに違いない。偽物ではない、永遠の帰依の契約を交わす飲み物が。
 それは、いつ?

 
 神父と呼ばれる男は、雹使いの青年へと距離を詰め、その胸元をとん、と突いた。
 流れるように無駄のない、水面をかすめて飛ぶ鳥のような速さと動きだった。
 軽く突いた手元から迸る雷撃。
 その一撃で、戦闘はあっけなく終わった。
 喜びいさんで駆け寄ろうとし、マリーの目は神父の腕に吸い寄せられた。
 そこから滴る赤に。

 マリーは今や、本当の、契約の葡萄酒の味を知っている。
 それは、やはり果実で醸された紛い物ではなかった。
 唯一の友人が、一突きのナイフの祝福に、浴びせるほど残した美酒だ。
 腐りきった穢土から魂を救済した褒美として、残された抜け殻の肉を杯に。
 迷信に囚われていた友達の血潮でさえ、あれほど甘かったのだ。
 愛しいものであればあるほど、賜るワインは、美味だろう。
 真の神に、真の天上から直接遣わされた、鳥の王そのものではなくとも、最も近しい、最も敬愛する者の血と肉。
 優しかった友達のそれよりも、誰のものよりも、きっと一番、美味な。
「……飲んでみますか?」
 慈愛に満ちた優しい声に、マリーは魅入られるようにその手をとった。

 聖なるかな。

 聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主、
 主の栄光は天地に満つ。
 天のいと高きところにホザンナ。
 誉むべきかな、主の名によりて来たる者。
 天のいと高きところにホザンナ。


 頭の中に響く三聖頌(サンクトゥス)を、マリーは恍惚と聞いた。
 ──神父様、ボク、もっとちゃんと、カビを駆除できるようになるネ。
 舌を温かく潤す甘露をうっとりと味わい、マリーは赤く染まる手に頬を寄せる。
「これからも、わたくしの役に立ってくれますね」
 神父の声は、その血よりも甘く、快い。
「はい、もちろんです、神父様」
 ──駆除が全部終わって、ボクらも神の御許に帰る時がきたら、ボクが神父様を送るノ。誰にも譲らない、それはボクの役目。
 もっと守る力と、もっと殺す力を手に入れて、その日が来るまで、誰にも神父様の命を渡さない。
「ボクはずーっとずーっと、神父様の傍にいる、神父様のためにいるんだから……」
 永遠の契約は成される。雛鳥は孵り、殻から脱け出す。

 Hallelujah。

 彼女にしか聞こえない鳥の王の羽ばたく音に、マリーは満ち足りた笑みを浮かべた。
 



* 途中ではいる祈りの文などは、カトリックのミサ式次第から(冒頭はマタイによる福音とルカによる福音とのちゃんぽんです)。丸暗記していて資料探さずに済むというだけの理由で引用です。カニバリズム礼賛やキリスト教冒涜の意図はありません。