ボクの仕事は、ローカルな小さいデパートの店員だ。
毎日の仕事はハードで、お客さんにムッとすることも多いが、今のボクはこの職場が好きでたまらない。
理由はたった一つだ。
いつも夕方5時頃に買い物にくる、ステキな女の人がいるからなのだ。
ボクは初めて勤務したその日、とんでもない失敗をやらかしてお客さんに怒られ、チーフに睨まれていた。そんなボクに、「今日初めて見かけるけど、新人さんなんでしょう? だったら、失敗くらい大目に見てあげたらどうですか? お怒りになるお気持ちは分かりますけど、そんなに怒鳴ってらっしゃると、みんなこの人に同情するだけで、貴方が悪者になってしまいますよ」と、やんわりと、にっこりと助け舟を出してくれたのが彼女だった。
ボクよりだいぶ年上で、仲間に聞いた話によると、近くのバーを経営しているママさんだそうだ。だから、ヤクザなんかのあしらいにも慣れていて、ああいうふうに、うまくとりなすこともできるんだとか。
その人は、ものすごい美人というわけではなかったけれど、優しい笑顔は、ボクが今まで見てきたどんな女の人よりも魅力的だった。
以来ボクは、5時頃にその人を見かけるためだけに、休むこともなく、週に5日から6日も、安い時給で働いている。
バーに通うことに比べたら、時給の安さなんて大したことはないし、なによりボクは、女の人と気の利いた会話なんてできないから、たまにでもお店に行くなんて、考えられもしない。
もう少しいろんなことを知って、「大人」だと自覚できるようになったら、いつかはきっと、「ママ」のお店の常連になりたいけれど。
そんなことを考えながら、とうとうボクは丸3年も、このデパートに勤めている。
さすがに仕事にも慣れたし、お客さんのあしらいにも慣れた。一つの売り場も任せてもらえるけれど、チーフにはなれない。まあ、ボクという人間はそんなところだ。不満はない。
あの人が買い物にきてくれるかぎりには。
今日も、5時少し過ぎにあの人は買い物にきた。
いつもはボクのいる時計店を横切って、まっすぐに食品売り場に行く。ボクはそれを見送って、一日のイベントをこなした気になる。幸い時計売り場なんて暇で、たまに電池交換くらいは頼まれるけれど、なにせ向かいにちゃんとした時計屋があるものだから、利用客は少ない。だから、あの人を見送れない日というのは、ほとんどなかった。
6時になると、店の「時間別チェック」というのが始まる。3時間おきくらいに、売り場や駐車場を見て回って、ゴミが落ちていないかなど、掃除するのだ。これは交代制で、その日のシフトに入っている人に、適当に割り振られる。
ボクは3時には待機だったから、6時にはトイレ清掃になっていた。
用具置き場からモップ一式や洗剤を持って、トイレに行く。
昔は、女子トイレは女性スタッフ、男子トイレは男性スタッフ、と二人割り当てられていたのだが、去年の終わりから、人件費削減などのため、スタッフの人数そのものが減ってしまい、トイレ掃除は一人で両方やらなければならなくなっている。
これは、ボクたち男のスタッフにはちょっと困ったことだった。
なにがって、女子トイレにしかないもの、つまり、汚物入れのチェックをしなければならないからだ。
いくら仕事だって、見てはいけないものを見ているような気がして、今でも慣れることができない。
それでも、きちんと取り替えておかないと大変なことになるらしいから、ボクはできるだけ見ないようにして、小さなグレーのポリ袋をかけかえた。
ボクが掃除をしていても、お客さんはくる。
トイレは各階にあり、今なら2階のトイレは掃除していないのだが、急いでいる人、そのことを知らない人、羞恥心なんてもののなくなったおばさんたちは大したもので、ボクがいても構わずに堂々と個室に入る。
けれどまあ、ボクも子供じゃない。
人間なんだから、どんな美男子でも美少女でも、トイレは必須だということくらいよく分かっている。
そう、ボクの憧れのあの人だって……。
あやうく想像しかけて、ボクは慌ててとりやめた。
いくら当たり前の行動でも、そんなことを想像するなんて失礼だ。
なんにせよ、ボクはチーフやマネージャーに怒られない程度には丁寧に、けれど素早く掃除を進めていく。
その時だった。
「あの、いいですか?」
ためらいがちな声が聞こえて振り返ると、そこにいたのは、あの人だった。
「あ、はい! あ、足元濡れてますから、気をつけてください」
ボクは慌てて、トイレから飛び出した。
他の人なら、少し離れた個室を掃除するなり、鏡を拭いているなりするけれど、とてもではないが、あの人が用を足しているすぐ傍にいることはできない。
トイレの外に出て、ほっと息をつく。
ザー、と水が流れる音がする。そういえば、いつからだっただろう。音を誤魔化すために、最中に水を流す、なんてことが当たり前になったのは。
少し設備のいいトイレだと、節水のため、擬似の水音が出るところもある。
まあ、外に出てしまえば、いくらなんでも用足しの音なんて聞こえてはこないが、ついそうしてしまうのが、たしなみというヤツなのかもしれない。
ボクはしばらく待っていたが、なかなかあの人は出てこなかった。
おなかの具合でも悪かったんだろうか。
そう、どんなステキな人だって……。
やがて、
「すみません」
と言ってあの人が出てきた。
「あ、いいんですよ」
こんな時でもなければ、言葉をかわすことなんてないのだ。ボクは愛想良く言った。
そして再び、清掃すべくトイレに入る。
途端。
(う……)
なんともいえない臭気に襲われた。
分かってる。
分かってるんだ。
どんなに美人でも、絶世の美女だろうとなんだろうと、食べれば出るものが出る。
出したものが、花のような芳香を放つなんてことはない。
分かっている。
けれどボクは、あの人に、このにおいについて気にかけてほしかった。
音ならば、その時のポーズなんかを想像してイヤらしい気持ちにもなれるが、この臭気だけは、たまらない。
その日の終礼で、ボクはマネージャーにこう言った。
「トイレにスプレー式の芳香剤とか、消臭剤兼ねたもの、置けないでしょうか。持っていかれないように固定するなりして……。ボクが掃除中に利用したお客さんから、用意できないかって言われたんですが……」
誰にも言われてはいない。
けれど、もしそういうものがそこにあったら、ちょっと気の付く人なら、においを消していこう、とくらいするだろう。
マネージャーは真面目に考えてくれたけれど、答えはこうだった。
「経費の問題と、やっぱりむやみに使われるとすぐになくなるのが痛いなぁ。ちょっと小を済ませたからって、女の人だと使いそうだよ」
なるほど、納得だった。
それからも、ボクのあの人に対する憧れは変わらなかった。
けれどふと姿を見かける時に、あの出来事、記憶が蘇り、自分がイヤになることが多くなった。
ボクは近頃本気で考えている。
トイレ用の消臭剤なんかを開発しているメーカーさん。お願いですから、女性がハンドバッグにしのばせておけるような、スプレータイプの芳香&消臭剤、もっと宣伝して、つかうことが当たり前になるくらいに売ってくれませんか? と。
(END)