仕事柄、ブラックアウトは常に健康には気を使っている。 普通の商社や小売店とは違い、体調が悪いので休みますとはなかなか言えない職業―――警察官であるから、誰かが自分の代わりの仕事をしてくれるだろう、では済まないものがあるのだ。 だが、どれほど注意していても、どうしようもないときには、どうしようもない。 昨夜少し熱っぽいなと思ったから、しっかり食事をして風邪薬を飲み、風呂はやめておいて、早めにベッドに入った。医者に行くほどのことではない、と十人いれば九人はそう思うだろう、軽い症状だった。 しかし昼間に電話で起こされてみれば、出勤時間はとうに過ぎていたし、声はかすれてまともに出ず、そもそも呼吸をするのにも疲れる有り様だった。 こういうときは日頃の行いがものを言って、課長は即座に、「しっかり休め、明日も大事をとって休むように」と心の籠もった声で請け合ってくれた。 せめて今日は、世の中に厄介事はなにも起こらなければいいなと思いながら、ブラックアウトは携帯電話を切ったのかどうかも記憶にないまま、再び深い眠りに吸い込まれていった。
再び目が覚めたときには、部屋の中はもうすっかり暗かった。 しかし真っ暗というわけでもない。いつもなら、冬の夜勤で夕方に起きるときでもかなり薄暗い室内は、ほんの少し、どこかからの明かりを拾っている。 なんだろう、と考えられたのだから、昼間よりは楽になったのだろう。体全体がどんよりと重くて痛いが、動けないほどではない。肘をついて体を少し起こして首をひねると、ドアの隙間から微かな光が漏れていた。 (えー……、………………、えーっと……?) 光。 (ああ、そうだ。もしかして、昨日帰ったときにつけて、消さなかったのか) いや。電気を消してベッドに入ったとき、こんな光が洩れていれば気付くはずである。それとも、自分では大したことがないつもりでいたが、実はもうけっこう注意力は散漫で、見落としていたのだろうか。 だとしても、物音がするのは何故だろう。 物音。 (……泥棒?) かもしれない。だとしたら、警察官の部屋に泥棒に入るとは、実にいい度胸である。もちろんその場合、知ってて入ったわけではないだろうが。 ともあれ、起きて、電気を消すついでに、侵入者について確認しなければならない。 起きるのも億劫なのでやりたくはないが、泥棒だとしたらそんなことも言ってはいられなかった。 少しだけ不安もよぎる。最近とみに物騒になってきた。見つかったら殴って逃げるくらいなら可愛いものだが、刃物などを携行しているタチの悪い軽犯罪者も増えている。それを使えば軽犯罪ではなくなるのだが、そんな理屈は考え付かないものらしい。それはともかくとして、だとすると、今の体調で応戦できるだろうか。 ブラックアウトは少し考えて、もう一度背中を布団に戻した。手探りで枕元を探ると、開いたままの携帯電話が手に触れる。とりあえずこういうときには、頼りになる友人でも呼んだほうがいい。それまでに逃げてしまったなら、それはそれでいい。どうせワンルームのアパート、貴重品はすべて居間兼寝室のこの部屋にあって、ドアの向こうは流しくらいのものである。 アドレス帳を開いて、たしか今日は自分と同じ昼番で、何事もなければ今頃は家にいて、その住処もここから近い同僚の電話番号を選択する。 と、すぐそこで、けれど手元ではない場所で、味気ない電子音が鳴りだした。 (……え?) 電子音が切れると同時に、ドアが開いて光がなだれ込む。ブラックアウトは眩しくて目を細めたが、逆光の中に小柄な影が立っているのは分かった。
―――そもそも、盛大に電気をつけて流しをあさる泥棒など、いるものじゃない。そう考えつかなかったのは、ブラックアウトの思考力が回復していないためだ。 だがだとしても、だとしても。 何故、今呼ぼうとした相手が自分の部屋にいるのか。 どうやって入ったのか? よっぽど怪訝な顔をしていたのだろうが、相手はそんなことに構わず、わざとらしく音を立てて、テーブルの上の鍵に触れた。 「ドアにささったままになっていた。気をつけろ」 なるほど、やはり昨日は帰ったときから既に、かなり調子は悪かったらしい。 「あ、ああ……。すまん。ありがとう」 で? 何故彼がここにいるのだろうか。呼ぶ前に。それとも、これ以前に一度起きたことがあり、そのときに同じことを考えて呼んだのを忘れているのか。 ともあれ、彼―――バリケードはブラックアウトの疑問など知るよしもなく、一度引っ込むとキッチンの電気を消し、逆に部屋の電気をつけ、深皿を手に入ってきた。皿からは湯気が立ち上っているが、匂いは分からない。鼻がバカになっているのだろう。 彼はそれをテーブルに乗せると、 「起きたなら丁度いい。食っておけ」 それだけ言って、次には「じゃあな」と出て行ってしまった。 思考能力の落ちたブラックアウトには、小型台風でも来たような気分だった。なにがなやらよく分からないまま、日常生活を予想外な展開で引っ掻き回されたのは間違いない。 とりあえず、台風の残骸、というには体裁の整った残留物を確認したいという好奇心が勝った。体は重いがどうにか起き上がり、床に脚を下して一服すると、そのまま滑り込むようにしてテーブルの前にソファに腰かける。 見下ろせば、それはどうやら、ホワイトソースのリゾットのようである。 たぶん―――もしかして、ひょっともすると、署で欠勤を知って、見舞いに来てくれたのだろうか? (……うん、まあ、そういうこともあるかもな) なにを考えているか分からないし、人からはどう遠慮しても冷たく見られることが多く、実際にかなり冷たいところもあるバリケードだが、果てしなく冷血かというと、そうでもないのだ。だがこの事件を他の同僚に言えば、本人に失礼極まりないほど驚嘆するのだろう。無論、ブラックアウトは他言しないことを心に決めている。そんなことを誰かに洩らして、その誰かがバリケードをからかったりしようものなら、絶対にそこで険悪なムードが発生する。分かりきった結果だ。 ともあれ、食欲はないがありがたく頂戴することにした。 鼻がきかないのでは味が分からないだろうな、と思ってスプーンで一口頬張る。すると、舌の上にミルクと、それからなにか野菜のものと思われるほのかな甘みが広がった。 (美味いな) 食欲不振が一発で飛ぶほどだ。ブラックアウトは掻きこむようにしてリゾットをたいらげた後、いったいどこのメーカーのものだろうと、腰を上げてキッチンを覗いた。流しの脇のゴミ箱にパッケージでも捨ててあれば、今度それを探してみたいと思ったのだ。 だがそんなものはどこにもなく、あるのは、流しの隅の三角コーナーに捨てられた、野菜の皮と、コンロにかけられた鍋くらいのものだった。
やらないからと言って、できないとは限らない。 そのことをつくづくと噛みしめながら、ブラックアウトは再びベッドで横になった。 もちろん、この意外性についても、誰にも言う気はない。
(おわり)
看病ネタは定番です。 最初は、掃除に出かけたブラットさんが、なんか変だなと思って、寝てるバリケードを覗きこんだら具合が悪そうだった、というのを考えたのですが、これではあまりにも定番すぎる気がしてあえて逆にしてみました。 一応、日頃なにかと世話になってる、という恩義は感じてるんですよ。だからって自分で掃除はしないわけですが。 自分のためには掃除も料理もなにもしませんが、お友達のためならけっこう卒なくこなしそうです。経験値は圧倒的に低いはずなのに、要するにものすごく器用なんでしょう。 逆にものすごく不器用で、やったはいいけど微妙な物体が出来上がってしまった、というのも面白いですか? でもそれだとバリケードがちょっと可愛らしくなりすぎるので、意図的に可愛げはなくしてみました。キーワードは「可愛くないところが可愛い」です。
むしろ看病ネタは、掃除に来たのがスタスクで、寝込んでる相手に「生活管理ちゃんとしてないからだ」とか至極ごもっともな説教しながら家事やりはじめ、うるさいと思ったバリケードに時計投げつけられて喧嘩になり、たまたま同じく家政夫しにきたブラットさんに怒られる、というものも思い浮かんでいました。 ブラットさん、普段はおとなしくて温和で優しくて、喧嘩とか怖いなぁなんて思ってるんですが、大切なもの、友人を傷つけられたりすると一歩も引かなくなりそうです。本当に優しい人は、必要なときには誰よりも強いんです。妄想妄想。あ、でも喧嘩が強いわけではない(笑 ブラットさんとバリケードは同級生設定もいいかなぁと思ってたりします。学生時代、ちょっとしたことから一緒にいるようになって、沸点低すぎるバリケードをいつもブラットさんが引き留めてなだめてる、みたいな。 あとは、下級生くらいの勢いでスタスクがいてですね、普段は当たらず障らずみんなとうまくやってるスタスクも、じいちゃんの悪口だけは我慢できなくてブチ切れて口より先に手が出て、その喧嘩をバリケードが自分のしたことだと言い張るとかね。 優しさや思いやりではないけれど、「傷つくべきでない者は傷つかないほうがいい」みたいな考え方。それが心配で、ブラットさんもスタスクも無償で面倒見てるんです、この世界では。自己否定的な人です。淡々としてそれを表に出しませんけど。 |