Maria

 

 さて、そろそろ寝ようかしら。
 そう思って手をのばすと、まっすぐ枕元のスタンドに触れた。
 マリアに光は必要ないが、防犯上、電気をつけたり消したりしたほうがいいと聞いて、習慣にしている。もちろん、電球が切れていては役に立たないし、彼女にそれを教えてくれる者は、今のところいない。
 幸か不幸か彼女はその可能性にはまったく気付いていない。
 こうしたときに彼女が思うのは、このアパートの家具にもだいぶ慣れたということだ。
 古くて、小さくて、汚くて、その分安いアパート。
 一番気分が沈んでいたときには、安くて汚い棺桶だと思ったこともある。
 とびっきりみじめな気分。
 でも、恨んだりひがんだりすればますますみじめになるだけだと、悪いことはできるだけ考えないようにした。文句を言うのは簡単だけど、そうしたところで状況はなにも良くならないし、幸せにもなれない、得もしない。
 仕方ないのよ。それがマリアのひそかな口癖だった。
 仕方ない、仕方ない。
 自分はほんの少し他の人よりもアンラッキーなだけで、似たような境遇の人はいくらでもいる。幸せな時間を一つも持てずにこの世を去っていくほど不幸な人に比べれば、私の人生はずっとマシ。
 そう思ってつつがなく暮らしていても、時折はどうしても、沈んだ気持ちになることがあった。
 けれど最近は違う。
 少し前に知り合った不思議な男のことを思うと、マリアは自然に微笑んでしまう。
 あの日は最悪だった。お店では若い女性にグズグズしないで、邪魔よと言い捨てられ、品物の場所を尋ねた店員はわずらわしそうな声で場所を告げるだけ。こんな店二度と来るものですか! ―――そう思えたらどんなにいいか。マリアが辿り着けるスーパーは、この近辺には他にない。うっかりとワゴンにぶつかってひっくり返したりする、目が見えないのは仕方ないけれど迷惑な客。そう思われていても、悔しい思い、悲しい思いをしても、彼女はここに来るしかないのだ。
 しかもその帰り道には、買い物袋をひったくられてしまった。
 目が見えず、走ることもできないマリアにはひったくりを追いかけることなどできない。今までに何度かそうしたように、諦める他ないのだろう。
 そして、なんの誇張でも自虐でもなく、思ったものだ。いなくなってしまいたい、と。
 家族には邪魔にされ、食べていくのがせいぜいのお金とともに棺桶のようなアパートに追い払われ、そのなけなしのお金で買った食べ物、贅沢品などなに一つ入っていない買い物袋を盗まれてしまう。
 お財布はウエストポーチに入れてあるからいいけれど―――もしかすると、お釣りを誤魔化されていたりもするのだろう。時々、あるはずのお金が足りず、なにか忘れているかしらと思うこともあったが……。
 見えない目も、変わらず涙は隠し持っていて、時折溢れそうになる。
 けれど泣いても誰も心配なんかしてくれないし、助けてもくれない。気持ちも萎えるばかりで、いいことはない。
 仕方ないわ、仕方ない。こういう日もある。心の中で呪文のように唱えて、今からまた買い物に向かう気にはとてもなれず、おなかがすくのは我慢すればいいのだからと、アパートへ帰ろうとした。
 そのとき、彼が現れたのだ。
 低いエンジン音がゆっくりと近づいてくると、ちょっと他では聞いたことのないように不思議な低い声で、「ばあさん、あんたの荷物だ」と呼びかけてきた。
 光を失って20年もすれば、見えずともだいたいのことは分かるのだが、マリアには彼がどこにいるのかよく分からなかった。
 この声はいったいどこから聞こえているのだろう? 居場所を探して手をさまよわせると、触り慣れた買い物袋に触れた。間違いない。リンゴの匂いもするし、パンの匂いもする。
 そう、冷たい残酷な人もいるけれど、優しく温かい人もいる。忘れちゃいけない。忘れるところだった。今までだって、困っていると一緒に行きましょうと言ってくれる人はちゃんといたのだ。
 買い物袋を抱きしめて、ありがとうございます、助かりましたと何度も繰り返した。
 すると男は、送ってやろうと言ってきた。
 一瞬、信用できるのかしらと思ったが、なに、自分はなんの魅力もないしわくちゃの老婆で、ろくなものを持っていないのは見れば分かるだろうし、あと何年生きられるかも分からないくらいだ。買い物袋以上の価値なんてない。それに、わざわざ泥棒を捕まえて荷物を取り返してくれた人ではないか。疑った自分を恥じながら、マリアはおずおずと車に乗り込んだ。

 彼はいつも車に乗って現れた。
 そしてやはりいつも、どこにいるのかちょっとよく分からない、そして他の誰からも聞いたことのない変わった声で話す。
 けれど、優しかった。
 声からして、丁度いい年、働き盛りの男性だとは思うのだが、仕事はなにをしているのか、マリアが買い物に出かける夕方頃、ふと現れてはスーパーへ連れて行ってくれ、アパートまで送り届けてくれる。
 五日に一度は声をかけられるようになり、やがては買い物に出ればほとんど必ず会うようになって、その頻度ゆえに、ある日マリアは気付かざるをえなかった。
 なにかおかしい。
 彼は、―――そう、絶対に、なにかおかしい。
 普通なら、誰かが自分の前にいると、その存在がぼんやりと感じられるし、その人から話しかけられているという確かな感覚がある。だが彼と話していると、彼の位置や彼までの距離が分からなくなる。それに、車に乗っているとよく分かるのだが、彼の声は隣から聞こえているようで、あらゆる方向から響いてくるようでもある。
 なにより、運転席に誰かがいるような気がまったくしない。だって服のすれる音やちょっと首を回したりしたときに出る関節の音、息遣い、ハンドルから手を離したときの音、座りなおすときの音、そういうものがまったくない!
 おかしい。
 そう確信したとき、怖くなかったかと問われれば、答えはノーだ。ぞっとした。
 けれど、ぶっきらぼうな言葉でも、親切に自分のことを気にかけてくれる誰かがいることは、本当だった。
 そう思ってよくよく注意してみると、彼はやはり、自分が当たり前に知っている人たちとは違った。言葉の端々から、少なくとも英語圏ではない、別の国から来たことだけは間違いないと確信できた。彼の使う言葉は、時々、あまりに堅苦しかったり形式的だったりして、日常の言葉ではないのだ。
 それから、こんなにも親切にしてくれるにも関わらず、彼は一度として、自分の手を引いて車に乗せてくれたりしたことはないし、スーパーの中にまでついてきてくれたことはない。ものすごく気遣ってくれる、それはいくらぶっきらぼうでも声からちゃんと分かるのに、手は貸してくれないのだ。
 幽霊かしら? とマリアは思った。車に取り憑いた幽霊。事故かなにかで死んでしまった、けれどとても親切な男性が、わけあって天国に行くことができずにいるのだろうか。
 分からない。
 でも、彼がなんであろうと、それがどれほどの問題だというのだろう。
 彼の親切は本当だし、彼に迎えに来てもらうこと、送ってもらうことが嬉しいのも、本当だ。
 「もしかしたら、あの人は人間じゃないのかもしれない」。ある日言葉にしてそう考えたが、それを問えば彼がいなくなりそうな気もして、マリアはことさら、彼を人間だと思って接することにした。もしそれでは不都合があったとしても、目の見えないお馬鹿なおばあちゃんのすることだから、仕方ないと許してくれるだろう。
 彼と会うようになってから、毎日はとても楽しい。
 迷惑になってないかしらと心配にもなるけれど、来てほしいと頼んだことは一度もなくて、彼は約束もないのに現れてくれるのだ。彼がそうしてくれるかぎりには、彼の声によく注意して、本当は嫌になっていないかだけは気をつけて、好意に甘えることにしよう。それから、さあ、明日もし彼が来てくれるなら、今度はなにをあげようかしら。高いものは無理。でも、一日のパンを少しだけ我慢すれば、半月に一度くらいなら、ちょっとしたプレゼントができる。できれば、昔得意にしていたポトフなんかを作ってあげたいのだけど、目が見えない今となっては少し難しい。
 でも、そうね、チャレンジしてみようかしら。昔と同じようには作れないだろうし、もしかすると彼はこういうものを食べないのかもしれないけど―――前にサンドイッチやサラダのお裾分けをしたら、ちょっと困っていたようだから―――、私の一番の得意料理を、その思いを、振る舞いたい。そう、だから明日は材料を買わなきゃいけない。だから、作ってあげるのはきっとその次のとき。うまくいかずに失敗したら、その次になるかもしれないけれど……。
 明日が楽しみ。そう思って、マリアは毛布を顎にまで引き上げた。

 

 

 タイヤがアスファルトをこする音が甲高く響いた。
 危険な音。
 それが自分のほうへ来ているかもしれないことは分かっていたが、怖いとは思わなかった。ただ、あら、もしかするとこっちに来るのかしら、と。
 そのとき、自分のすぐ傍で金属をぶつけ合いこすり合うような騒音が起こった。
 直後、騒音をかき消す凄まじい衝突音とともに地面が揺れる。
 その音にマリアの心臓は竦みあがった。
 気が遠くなった。
 反射的にぽっかり目を開けた。
 体中が驚いておかしくなって、だから、もともとおかしかったものは元に戻ったのだろうか。光と影が見えた。
 空とビル、それを遮る巨人の影―――。
 瞬く間に暗くなる視界の中、光が消え去る寸前に、彼の姿が見えた。
 人間ではない、巨大な鈍色の体。胸にあるライト、肩の後ろから突き出ているのは、車の窓のよう。鋭角的で攻撃的なラインで作られた顔。それがたぶん、痛みに歪んでいる。
 でも少しも怖くなかった。会えて……姿を見ることができて、とても嬉しかった。
(あなた、そう、あなた自身が、車だったのね)
 触れようとのばした手は届かず、小さな体とともに、ことんと歩道に転がった。

 

 

(おしまい)


 

 THE 蛇足。
 でもやっぱり、マリアおばあちゃんの気持ちを書きたくて出てきてしまいました。