不覚にも、涙が零れそうだった。 こんなにジンときたのは、どれほどぶりだろう。 俺は腕の中の愛子をしっかりと抱きしめ、その柔らかく温かい感触を味わいながら、目を閉じた。
† † † † †
愛子は一昨年、私の勤めている会社に入ってきた新入社員だった。 顔立ちは人並みだが、よく笑う明るい子だ。 特になにができるというわけじゃなかったが、仕事に対しては熱心でなくとも決していい加減ではなく、時に同僚とのおしゃべりに夢中になるくらい、きつく怒るほどのこともなかった。 他の若い女性社員とは違い、俺にも楽しそうに話し掛けてきてくれた。 内容はどうでもいいことだ。 ある昼休み、俺がふと、「なんの話で盛り上がってるんだ?」と首を突っ込むと、他の連中は困ったような顔をしたが、愛子だけはにこにこと振り返って、「柳田さんちのわんちゃんが赤ちゃんうんだんですよ」と俺に教えてくれた。
俺にとって愛子は、理想の娘のような「可愛い部下」だった。ろくに口もきかず、なにか言っても鬱陶しそうに俺を見るだけだった娘、家出したきり何処に行ったかも定かじゃない絵里とは大違いの、明るく屈託のない子だった。 もちろん、ただそれだけの感情にとどめたまま女を見ていられる男は稀だろう。他人はともかく俺には無理な話で、いつしか愛子に触れたいと思うようになっていった。 たが、絵里のように素っ気無くもなく、妻の由梨絵のように愚痴っぽくもなく、一緒にいれば楽しい気分でいられる愛子。そんな心地良さを失う危険をおかしてまで、愛子と関係を持とうとは思わなかった。 感じる欲望、溜まるストレスならソープででも発散すればいい。由梨絵では鬱陶しそうに跳ね除けられるか、それともしぶしぶマグロになってくれるだけだから。 だいたい、愛子は美人ではなくても可愛い子だ。ボーイフレンドくらいいるだろうし、憎からず思っている男子社員もいるはずだ。こんなオジンの相手をするわけがない。 だから俺は安心して、夢を見ては覚め、物足りなさと同時にほっとする、そんな気分を味わっていた。
どんな下心もなかった。 ただ、残業が必要になってしまった時、たまたま予定がないと言ったのが愛子だっただけだ。 俺は愛子と二人で残業することになった時、嬉しいような怖いような気分でいた。 できるだけ「良い上司」と思われていたくて、ただそれだけであるほうがいいと自分に言い聞かせるように、缶コーヒーを買ってきてやったり、帰る時間の心配をしてやったり、できるかぎり「いいおじさん」であろうとした。 だが、さて帰ろうというエレベーターの中だ。 七階から一階に辿り着くまでの束の間の時間、ふっと途切れた会話。 いつの間にか、俺は愛子にキスしていた。 それは愛子からねだってきたものか、俺がふらふらとそんな気になったものか、今でも分からない。 ただ、それから俺と愛子は、こっそりと付き合うようになった。
由梨絵に露見することは怖かったが、同時に、見つかったところでどうだという開き直りもあった。 由梨絵は俺になにをしてくれた? 飯は作ってくれる。洗濯もしてくれる。掃除もしてくれる。絵里が幼い時には仕事を辞めてまで一人で面倒を見た。それを評価しないわけじゃない。大変だったろうし、疲れもしただろう。 だが、俺は家族を養うために働き、お金のことで不自由な思いだけはさせまいと働いた。その甲斐あってか順調に昇進もした。家のローンも早々と返済し、今では悠悠自適の生活、それを与えてやったのはこの俺だ。 由梨絵が家事をしてくれるのと同じように、俺は一家が何事もなく暮らしていくための仕事をしてきた。
そして今も、それまでと同じように働いている。 それを、仕事で疲れて帰ってきた俺を、由梨絵は笑って迎えてくれたことがあったか? 毎日でなくてもいい、たまにでもいい。ビールの一本でも用意して、酌の一つでもしてくれたことがあったか? 贅沢は言わない。ただそれだけでいいというのに、叶ったことなはい。 それどころか、思い返せばここ何年も、仕事や付き合いでどうしても遅くなる俺を、寝ないで待っているのが嫌だと言わんばかりに不機嫌な顔で。 一昨年だったか、あいつの誕生日だ。喜ばせてやろう、驚かせてやろうと、プレゼントに指輪を買って帰ってやったことがある。少しくらいは驚き、喜んでくれると信じて帰ったものを、由梨絵はどう言った? 「今更ご機嫌とらなきゃならないようなことでもしたの?」だったか。 それから、近所の誰それさんのところはどうだ、誰さんのところは毎年旅行に行くとかなんとか、さんざん愚痴を聞かされただけだった。
今の由梨絵は、俺の稼いだ金にあぐらをかいて、なに一つ俺を喜ばせようともしなければ、不愉快な思いをさせまいとさえしない。俺もそれは似たようなものかもしれないが、時々くらいはそれじゃつまらんと、喜ばせたいと思いもしてきた。毎度似たような始末に終わったが。 俺と由梨絵の心など、とっくに離れている。それでも俺は近づく努力はしてきた。だが由梨絵は? 俺になにもしてくれない、俺を愛してなどいなくなった女に、とやかく言われる筋合いがあるだろうか?
それに比べて愛子は、いつも笑顔でいてくれる。 俺のつまらない話をにこにこと聞いてくれる。 たとえ内心は飽きていたとしても、俺のために、俺の気分を害さないために笑顔でいる、というだけのことは、いつも必ずしてくれているのだ。 疑おうとすればそう疑えるが、実際のところ、愛子の驚きや喜びを、俺は不自然に思ったことはなかった。 体の関係は、もし俺の性欲が枯れていれば、持たなかったかもしれない。 俺は愛子と過ごすこと、それだけで楽しかった。 幸せだった。 ずっと忘れていた、初々しい恋心を取り戻したような気分だった。 見返りなんか考えずに、ただ愛子の喜ぶ顔が見たいと思い、なんでもない時、社用で出掛けた道すがらのアクセサリー屋で、つい足を止める。こっちが似合うか、それともこっちかと迷う時の、なんとも言えない満ち足りた気分。 それを受け取って喜んでくれる愛子。デートの時、恥ずかしそうにつけてくれ、また俺をたまらなく幸福な気分にさせてくれた。
愛子は一度として、俺の家庭のことを言ったことはない。 これからどうなるとも、どうしてくれとも。 むしろ俺のほうが気にかかり、「愛人」という立場のまま、不倫のままでいいのかと思い切って尋ねたことがある。つい、「妻と別れて結婚してくれというなら、考えもするが」とまで言ったほどだ。 愛子は困ったように、恥ずかしそうに俯き、 「そんなことしたら、幸弘さんの立場、まずくなるだけですよ。奥さんにもきっといろいろ言われるでしょうし。それにきっと、別れちゃったら恋しくなったりしますよ。それで、私が奥さんになったら、ずっと一緒にいて当たり前になったら、きっと私も、幸弘さんにつまんない女になるかもしれないし」 だからこうして少し距離を置いて、たまに一緒にいられることを楽しみにして、幸せにしていたほうがいい、と愛子は言った。 俺も、愛子の言うことには一理あると思った。 俺と愛子はそのまま、幸い社の連中に知られることもなく、一年以上も関係を続けた。
昨日のことだ。 俺が仕事を終えて家に帰ると、大きな旅行鞄を傍らにして、由梨絵が居間のソファに腰掛けていた。 俺に黙って旅行するつもりだったのかと一瞬はむっとしたが、ふと、由梨絵が留守にしていれば、愛子とゆっくりできる時間も増えると思い直した。 なにげないふうで、「旅行にいくのか?」と尋ねると、由梨絵は一枚の紙切れを俺の前に置いた。 それは、離婚届だった。
思いがけないことに、妻の署名と印鑑の捺された紙面を見たまま、俺は口もきけなかった。 なんとなく、たちの悪い冗談のような気がした。 だがそんな俺に由梨絵は、せせら笑うように言い放った。 「捺してくれるでしょ。そうじゃないと困るのよ」 困る、という言葉を繰り返して問い掛けると、 「お互い様でしょ。あなただって、娘みたいな子と浮気してるじゃない。だったら私だってべつにかまわないでしょ」 勝ち誇ったように、由梨絵は自分も浮気をしていたことを告白した。 そして、相手がいかに俺より頼りになるか、頼もしいか、優しいか、酔ったようにとくとくと喋りつづけた。 俺はふと、その生っ白い喉を力のかぎり締め上げてやりたくなった。 だが、自分も愛子と浮気していたという弱みが、それを許さなかった。
由梨絵はそれきり出て行った。 俺は言いたい放題言われながらろくな反論もしないままに取り残され、怒りがふつふつと沸き立って外に飛び出した時には、由梨絵の後ろ姿などどこにも見えなかった。 ぶつける相手を失って怒りが薄らぐと、後にわき出してきたのが、どういうよもないほどの悔しさと口惜しさだった。 由梨絵に未練などこれっぽっちも感じなかった。 哀しくなどまるでなかったが、目の奥からじわじわと涙がわいてくるのが分かった。 それくらいに、腹が立ち、悔しく、口惜しかった。 由梨絵の浮気に全く気付かなかった自分が情けなかった。それに対して由梨絵は、俺のしていることになどだいぶ前から気付いていたに違いない。そして、「先にしたのはあなただから」と自分の立場を作っておいてから、どこかに男を作ったに違いない。あれはそういうしたたかな女だ。
俺は一人、がらんとした居間に腰を下ろした。 絵里がいて、由梨絵がいて、三人だった時には広いとも感じなかった。 今のように俺一人がここにこうしていても、これほど寒々と静寂を感じたことはなかった。 ふと首をめぐらせて部屋の広さを確かめると、キッチンが目に入った。明日からは自分で飯を作るしかないのかと思うと、情けなくなった。一瞬、由梨絵を呼び戻し、説得しようとも思ったが、そんな情けない真似は御免だった。だいたい、何処に行ったのかも知らない。もし知っていたとしても、あんな情のない女には頭を下げたところで無駄だろう。第一、あんな女に頭を下げて詫び、帰ってきてくれとすがるなど、冗談じゃない。もし、心優しく俺のために懸命な女を裏切り、怒らせてしまったのならば、謝りもするが。 あんな女に謝る道理はない。俺が浮気をしたのは本当だろうが、それのどれだけかは、俺のことなどちっとも構わなくなったおまえのせいだ。俺はただ、おまえがくれなくなった安らぎを愛子に求めただけで、おまえが知らん顔をしているなら、ちゃんとこれまでどおり養ってやった。決して別れるだのなんだのと、そこまで身勝手なことはしなかった。 発端はどちらにあるかと言えば、たまには喜ばせてやろうとした俺より、そんな俺の気持ちすらあざわらった由梨絵にある。
知ったことか、勝手にしろ、と開き直り、俺は冷蔵庫から缶ビールを出し、三本ばかりたて続けに飲んだ。だが興奮しているのが裏目に出たのか、酔ったような気もせず、ただ苛立ちばかりが募った。 そんな時だ。 いきなり背広の中の携帯電話が鳴り出した。 こんな時間に誰だと腹を立てながらも出てみると、相手は愛子だった。 これまで一度として、俺が家にいる時間に電話をしてきたことなどない。 俺が荒っぽく出たものだから、愛子は驚いてしまったようで、泣きそうな声になった。そして言うのには、 「奥さんとなにかあったんですか? なんだかさっき、私のうちに電話があって、それが幸弘さんの奥さんで、すごく怒ってて、でも勝手にしなさいとか言われて……」 愛子は、私が腹立ち声で出る以前から泣きそうだったに違いなかった。 そして私は、なんともあてつけがましい由梨絵に対する怒りを覚える一方、気弱な愛子にどうしようもないほどの愛おしさを感じた。
にわかに、これで独りに戻れたわけだから、愛子さえ良ければ、という気になった。 だが、妻にしてしまえば由梨絵のように変わり果ててしまうのかもしれない。それが恐ろしい。由梨絵も、見合い結婚ではあるが、最初の頃は、俺には勿体無いと思うほどによくしてくれた。 そうだ。それがあんな、夫を馬鹿にして平気でいるような女になるのだ。 愛しい女は、妻になどしないほうがいいのかもしれない。 そうなると、愛子とは必ずいつか別れなければならないが……。 ともかく、今はその時じゃない。
俺は、わけを話すから何処かで会えないか、もし良ければ、外で会うよりは俺の家のほうが人目につかないから、と愛子を誘った。 愛子は半ば涙声になりながら、俺の家にくることを承諾した。 下りる駅を教え、道順を教える。もし迷ったらまた電話するんだと言い聞かせて電話を切り、俺は妻に逃げられたばかりのくせに、みっともないところに上げるのは恥ずかしいと、テーブルの上に散らかしっぱなしの空き缶をゴミ箱に突っ込んだ。 やがてやってきた愛子は、不安げに、黒目がちの瞳を揺らしていた。 俺はできるだけ平然としたふうを装って、他人事のように顛末を話して聞かせた。 「まあ、俺も悪いには悪いから、仕方ないな。でもこれからは、コンビニの世話になりっぱなしだろうな」 暗い雰囲気にしたくなく、冗談めかしてそんなことを口にしたが、ふと、それでは「飯を作りにきてくれ」と言っているように聞こえないかとどきりとした。 愛子は俯いたまま、肩をすぼめていた。
それからふと、 「幸弘さん」 と俺を呼び、俺の隣に来た。 そして、ぎゅっと俺の脇に抱きついてきた。 俺は突然のとこに驚いた。 愛子の気持ちは分からない。だが、これで一緒にいられる時間が増えた、という喜びの抱擁ではないと感じた。 愛子は不安なのかもしれない。 自分のせいでこんなことになったと、自分を責めているのかもしれない。 だとしたら、とんだ見当違いだ。 愛子だけは、ほんの少しも悪くない。 俺はしっかりと愛子の肩を包み、抱きしめた。
そうして二人とも黙ったまま、俺は愛子の体のぬくもりを心地良く覚えながら、このままずっとこうしていたいと思った。 優しく可愛い愛子の、柔らかな体。 心地良い重さ。 どうしようもないほど愛子が愛しくて、目頭が熱くなった。 俺はさらさらとしたストレートヘアを飽きずに撫でた。 妻にしてしまいたいという思いがわき上がるのをこらえながら、どうして今このまま、なにもかもが止まってしまわないのか、そうすればどんなにいいかと埒もないことを考えた。 だがそんな空想は、するだけ無駄だ。 現実には、俺はもっともらしい理由で離婚したことにして、愛子とはこのまま、妻もいないのに愛人という関係のまま、愛子が離れていくまで付き合うのがせいぜいだ。 それは一抹の虚しさを覚えるが、その虚しさこそが、俺と愛子が幸福であるために必要な距離なのだ。
気が済むまで二人でじっと抱きしめあい、俺は時計が22時になったのを理由に、あまり遅くなると危ないから、と愛子を帰した。 愛子は、まだ一緒にいてもいいんですよね、と不安げに振り返り、俺がもちろんだと頷くと、やっとほっとしたように笑った。そしてその笑い顔を残して、駅へと向かって歩き出した。 俺は由梨絵がいなくなってせいせいした気で、どうせならこの際、あいつの残していったものなど一つ残らず金にかえてしまおう、と考えた。たとえ大事なものを忘れていったのだとしても、知ったことじゃない。あんな女など、もうどうでもいい。 俺は妙に浮き立つような気持ちで由梨絵の部屋に入った。
ドレッサーなど、家具はだいぶ傷んではいるが、決して悪い品物じゃない。引き取るためにこっちが金を払わなければならないようなことはあるまい。貴金属のたぐいはさすがに持っていったようだ。服は、売るのも外聞が悪いから捨ててしまえばいい。オーディオやCDなどはそれなりに売れるだろう。 乱暴に、売れそうなものとそうでないものを分けながら、ひきだしの中までぶちまけていくと、ゴミにしかならないようなボタンや布切れ、小さなハサミ、糊などと一緒に由梨絵あての茶封筒が一枚入っていた。少し膨らんでいるのは、中に入っているものがあるからだろう。 由梨絵の中を覗き、暴き立ててやるような気持ちで、俺は中にあるものを出した。それは何枚かの写真と、一枚の手紙だった。 そして、その写真に写っているのは、俺と愛子が腕を組んで歩いている光景だった。
興信所でも雇ったのか、こんな証拠を握っていたのかと、腹立たしいような、小ざかしいと笑いたいような思いで、報告書らしい紙切れを広げた。 ところが、そこにあったのは事務的な報告とはとても思えない、ごく短い手書きの文章だった。 そこには、「あなたの旦那さんは浮気してます。これは合成じゃありません。疑うならこのあたりで聞いてみなさい」と書かれていた。
どうやら、余計なお節介焼きがいたらしい。 むしゃくしゃして手紙を握りつぶす。 いったい誰の仕業だろう。 立ち寄った店の人間には二人でいるところをさんざん見られているが、トラブルを起こしたこともないのに、利益にならない嫌がらせをするはずもない。 とすると、会社か。 会社の人間で、俺の素行に気付くとすれば、同じ課、同じ部署の誰かのはずだ。幸い俺は部下の書類には全て目を通す立場にあるし、社用の書類はともかく、その日の日報はパソコンなど使わずに手書きにすることを求めてきたから、全員の筆跡はなんとなく覚えている。 くしゃくしゃにした紙を広げ、俺は机の上のデスクライトをつけると、そこに書かれている文字を睨みつけた。 筆跡というものは、変えようとしてもなかなか変えられるものじゃない。おおまかなところは誤魔化せても、ハネやトメといった部分の癖は、そのまま出てしまうものだ。この手紙が代筆によるものでないなら、本人の「癖」くらいは見抜けるはずだ。
俺は、チェックするために持ち帰ったまま、まだ捨てずにいた日報のコピーを持ち出した。 これならその日に出勤していた全員分があるはずだ。 そうして、いったい犯人は誰だと一つずつ筆跡を見比べていく。先入観に惑わされてはならないと、誰の日報か名前は見ないまま、ただ、同じ文字だけを探して拾う。 これと思われる文字を見つけた時には、ざまぁみろと、口元が緩むのが分かった。 こんな奴には、表立ってはなにも言うまいが、やりようはある。 いったい誰だと、俺は目線を上に移した。 そこにあった名前は、―――
柚木 愛子
―――……。 |