「……そろそろ行きましょうか」
 一本の缶コーヒーがお互いに空になったことを確かめて、クルルはなんでもないようにそう言った。
 運転しているギロロは疲れているのかもしれないと思ったが、基礎体力が違うのだろう。あっさりと
「よし」
 と言って、木陰に停めておいたソーサーにまたがった。

 たとえばこのソーサーに仕掛けがしてあって、ハンドルを握った瞬間に手錠が飛び出し、ギロロの体を固定してしまうなら。
 うっすらと黒く湧き上がってきた妄念に、クルルは苦い自嘲を零した。
 このソーサーには、そんな仕掛けはない。
 なにもない。
 考えたのは、ギロロが気に入ってくれるにはどうすればいいのかということだけなのだ。
 作動したエーテルエンジンの音に、排気ダクトから噴き出す軽いジェット音。
「クルル!」
 早く乗れ、と促すだけの声。

 たとえばほんの少し素直になって、ありがとうとかすまなかったとか、言うべき時に口に出せて言えたなら。
(今更だぜ。裏がなけりゃ、やりもしねぇ)
 これ、本当はアンタにあげたくて作ったんだ。喜んでほしいから。
 そんなこと、金輪際言えるはずもない。
 今日がオレの誕生日なら、ほしいものはただ一つ。これを受け取って、ありがとうってまた笑ってくれたら、それでいい。
 でも。

 ソーサーみたいに自由自在に飛ぶなんて、誰にもできない。
 急な方向転換は、できないのが人生だ。夢見るためには夢見てこなければならず、笑うためには笑ってこなければならない。嫌われ者は嫌われつづけ、愛される者は愛されつづける。
 流れる川の彼岸と此岸は、交わらないまま海に出る。反りの合わない平行線の二人は、彼岸と此岸を走りつづける。いつか海に突き当たり、終わる時まで。
 タンデムシートにまたがって、元のようにギロロの腹へ腕を回したクルルは、気付かれない程度にそっと、さっきより少し力を込めた。
(らしくねぇ。こんなのは、オレらしくねぇにも程がある。バレりゃ爆笑モンだ)
 そんな自分を、生まれて初めて、嫌だと思った。

 思ったからといってどうしようもなく、思ったところで、はい終わり。
 だがせめて今日くらい、ぎりぎりの抵抗、そして譲歩。
 誕生日なんだから、この後もう一度あるかどうかも分からない特別な日なのだから、少しくらいの例外は、認めてもいいはずだ。
「先輩」
「ん?」
「次は海がいい。川の上、下っていこうぜ。陽ものぼりきったしな。気持ちいいぜぇ、きっと」
「よし、いいだろう」
 明るい返事と共にソーサーはふわりと浮き上がり、軽く反動をつけて一気に加速、木の間から青空へと飛び出した。

 空は広く、遮るものもなく、朝より少しぬくもった風、浮かぶ雲と飛ぶ鳥を追い越してカーブ、水の匂いが強くなる。近づけば汚い川も、空から見れば太陽を浴びて輝く光の帯で、眼下のざわめきと風を裂く音がBGM。
 晴れてないのは、自分クルルだけ。
 ふっと小さな溜め息をついた。
 溜め息の作った、少しの間。
「おい、クルル!」
 風に負けないようにギロロが声を張り上げる。
「はあ!?」
 怒鳴り返すと、少しだけ振り返ってギロロは
「しっかり掴まってろ!」
 ニッと口の端を上げ、牙を見せた。
「へ?」
 と問い返した途端、天地がさかさまになった。
「げぇッ!?」
 慌ててクルルは腕に力を込めギロロにしがみつき、両足をしめてソーサーに体を固定した。

 再び空が空に、地面が地面に戻ったと同時に、ギロロの笑い声が響き渡った。
「オイちょっと待てオッサン! オレを振り落とす気かよ!?」
 クルルが怒鳴りつけると、ギロロはいかにもおかしそうに笑って答える。
「普段人を驚かせてばっかりいる仕返しだ。たまには肝を冷やせ。いくぞ!」
「ちょ……」
 待て、と言いたかったが、その時にはソーサーは右に大きく反動をつけ、すぐに時計回りの螺旋を描きだした。

 サーキットのバイクレーサーは、自分の運転するバイクから振り落とされるとは思わない。振り落とされないように体重移動しているし、体とバイクはほとんど一つになっている。
 だから、高速でコーナーを回っても、トラブルがないかぎりには落とされる心配などしていない。
 ことにレース中や練習中でないとなると、彼等は体にかかるGと遠心力、それ以上に強く結びついた自分と愛機、そのスピードを心地好く楽しむものだ。
 が、もしそのタンデムに乗っている者がいたら、同じように思うだろうか?
 答えは、否。
 いつコーナーリングに移り、だからいつ体重をどちらに移動させればいいか、そんなことはちっとも分からないし、迂闊なことをするとバランスが崩れ諸共に転倒しかねない。
 もちろんレーサーのほうはそのことも計算に入れて、この程度のスピードでならばしっかりしがみついていてくれればなんともない、と(本人にとっては)充分に減速し、安心している。
 災難なのは、同乗者だ。筆者の経験上、本当にマジで心底シャレにならないほど完璧に。

 閑話休題それはともかく、ようやくソーサーがスピードを落とし、アクロバット飛行をしなくなった時には、クルルの体は完全に硬直して石のようになっていた。冷や汗がダラダラと流れ落ち、指の先まで冷え切っている。
「コ……、コ、コ……」
 ガタガタ震える口から、零れる声。
「コ?」
 問い返すギロロに、
「殺す気かよオッサン!!」
 クルルは腹の底から怒鳴り返した。
「マジ死ぬかと思ったろうが! なに考えてんだよアンタは! それともなにか!? 落っことした時にはキャッチしてくれるってのか!? あ!?」
 いまだに緊張がとけず、クルルの手は自分のものでないように、組み合わされたままびくともしなかった。
 その冷たい手を、グリップで熱をもった手でポンポンと叩かれる。
「これだけしっかり掴まっていれば、落ちることはない。たまには冷や汗をかく側になってみろ」
 そう言いながら、ギロロの顔も声もおかしそうに笑っていた。

 急にきまりが悪くなったクルルはシートの上に体を落ち着け、なんとか手をほどこうと苦心した。
「……仕返しかよ」
「そう言った」
「最悪だ」
「おまえはいつもだ」
「アンタがやるとシャレにならねぇんだよ」
「おまえのも充分シャレになっていない」
「オレは分かっててやってんだ。ぶちギレるアンタとは違う」
「俺も今は、別にキレてやったわけじゃないぞ」
「じゃあなんだってあんなクソッタレなこと」
 応酬しながら、ようやく少し手も自由になり、さてこの手をどうしようか、掴まってやるのは少し癪だと考える余裕も出てきた時に、
「たまには、考えるのはやめたらどうだ?」
 思ってもみなかったことを言われて、
「え?」
 クルルの体から力が抜けた。

「馬鹿者!」
 ふわりと浮き上がりかけたクルルを振り返るなりギロロは片手で掴み止める。バランスを崩したソーサーを右手だけで強引に操ってなんとか元の飛行姿勢に戻すと、
「本当に落ちたらどうするんだっ」
 と低く抑えた怒声を放った。
「だいたいおまえはあれこれ考えすぎだ。気分転換に出てまで陰気に溜め息などつくな、鬱陶しい」
「それ……先輩、どういう意味っスか」
「おまえに俺の声は聞こえにくいかもしれんがな、前にいれば後ろの声は案外聞こえるものなんだ」
「……なんスか。心配してくれてるんスか、それ。オレのこと嫌いでしょうアンタ」
「好かんな。おまえをいい奴と思うような馬鹿な真似は生涯する気はない。が、とんでもない一方の役立たずでないことは、知っている。―――誕生日にくらい、おまえの言い分を認めてやってもいい」
 クルルよりはるかに分かりやすいギロロは、少し顔を赤くして真っ直ぐに前を向き、アクセルを深くした。

 溜め息なんぞついているから少し心配になった、という言葉をギロロ語に翻訳すると、ああなるのだろう。
(要するに、……お節介かよ)
「―――海、まだかよ」
 ようやくほぐれた手を、朝のようにギロロのポケットに入れる。
「もう少しだ」
 はるか下には大きな川がゆっくりとうねっている。
 デザインセンスのかけらもない橋が、左右の岸をつないでいた。

 誕生日にくらい、橋を渡り、渡ってもらってもいいのかもしれない。
 彼岸と此岸の緩衝地帯。
 束の間だけ、出会える場所。
「―――先輩」
 案外聞こえるというならば、これくらいの声でも届くだろうか。
 クルルは一つ賭けをした。
 もしこの小声が届いたら―――
「なんだ?」
 届いたら。
 橋をもう少し、先まで渡ろう。
 今日だけのことだから。

「このソーサー」
「ああ。ずいぶん性能がいいな。どうしたんだ」
「オレが作ったモンだぜ」
「おまえが? ほう。さすがだな」
 それでも、これより先の一歩は、余計だろう。
 だから今は、渡らずにおこう。
「隊長のを見て、暇つぶしがてらによ。気に入ったんなら、アンタに貸してもいいぜぇ? レンタル料はがっちりもらうけどな」
「金をとるのか!?」
「……オレの足になる場合は、タダ。どうだい?」
 ギロロは少し考えて、
「悪くないな」
 と答えた。

 仕事熱心なギロロだから、遊びに出かけるから貸せとは言わないだろう。
 とすると、気分転換がしたいから連れて行け、と自分が言い、毎回タダで乗らせることになるに違いない。
 それでいいとクルルは思う。
 変えられない、走り出してしまった自分の人生。
 だが今は、ともするとそうではないのかもしれないと思う。
 ほんの少しのきっかけがあれば、変わることはできるのかもしれない。
 なにも自分らしくなくなることはない。ほんの少しの角度の狂いで、平行線もいつか必ず交わることができるのだ。それが何メートル先か、それとも何光年先かは分からないが。
 そしてきっと二つの岸辺は、橋をかければつながってくれる。ソーサーならば軽く一っ飛び。
 彼岸と此岸の距離は、本当はたったそれだけのものなのだ。
 それが簡単ではないから、困るのだけど。

「クルル、見えたぞ。海だ」
 ギロロの肩越しに前を見ると、吹き付けてくる風に眼鏡を飛ばされそうになった。クルルは慌てて手で押さえ、海を見やった。
 南の澄んだ海は太陽をいっぱいに浴びて、巨大な光の絨毯のようにキラキラと、少し眩しすぎてクルルは軽く目をこすった。

 

(おしまい?)


「対岸の彼女」というタイトルの書籍があります。なんか賞とってます。
書いてる間頭にあったのは、その本のことでした。
読んだことのある人は少し納得されるかもしれません。
自分とは対照的な、身近な誰か。
クルルとギロロは完璧に逆だろうなと。

誰も書かないものを書く、それが私のモットーです、はい。
こんなクルル、レアでございましょ?
っつーかククルなのかこれ?(滝汗
あと台詞に泣かされました。ククルの言葉遣い。
悩んだ挙げ句、「本音はタメ口、作ると丁寧語」に。いかがでしょ。