翌日―――。 いよいよ今日だと、暗い内に起き出して出勤した銭形は、自分のデスクの上に一通の手紙を見つけた。 真っ白な封筒に、「銭形警部へ」とだけ、機械的な文字で書かれている。パソコンやワープロで打った活字とは違うが、あまりにも個性のない文字だ。 そのことに違和感を覚え、銭形は慎重に手紙を取り上げ、封を切った。 途端。 パンッ! と派手な音がして封筒が破裂し、色とりどりの小さな紙ふぶきが舞った。 銭形の手には微かな痛みと、一枚のカードがいつの間にか持たれていた。 そしてそこには、何度か見たことのある筆跡で、こう記されていた。 『とっつぁんへ。今回はちょいとわけありでとりやめることにした。《慈母》をいただくのは次回。そんじゃな、とっつぁん。次はパリで会おう。ルパンV世』 読み終えて、これが作戦なのかどうかを銭形は考えた。 そしてその答えが出る前に時刻になり、世界の名画展は開催された。 手紙の内容が罠であるともないとも確信できない以上、銭形は全力をもって張り込む。 (ルパンめ。またややこしいことを) これぞと目をつけた小屋に座り込み、ただ待ちつづける時間。苛立ちばかりが募る。 ルパンを捕えるには、本能じみた勘がなにより有効だ。 あるいは、誰も予想しえない思いがけない気まぐれ。 それはたとえば、無責任な警備員が一人、勝手に持ち場を離れて飲み物を買いに行った、ということかもしれない。そのせいで思いがけない遭遇を果たす可能性はある。無論、その警備員が次元たち手練れに勝てるかどうかは、また別の問題である。 近頃の銭形はこの幸運に恵まれている。単なる運というよりは、なにか気になると感じた、その直感がズバリ当たるのだ。 ふとした気まぐれのようなもので、なんとなく廊下の奥を覗いた。そこにルパンたちがいたりする。気球に乗って逃げたのが見せ掛けか、それとも見せ掛けと思わせて本当か、あるいは更に別の場所から逃げたのか。まだここにいる、と閃いてたった今出てきたばかりの部屋に飛び込んだ瞬間、ルパンと目が合った。 今回は、どうなのだろうか。 その勘は、まだ働いていない。 あえて働いているとすれば、あの手紙はどうやら本物なのではないか、ということだった。 ルパンという男のことは、世界中で誰よりもよく知っているつもりでいる。それでも分からない部分のほうが圧倒的に多いが、自分の姪や兄弟のことより、ルパンのことのほうが分かる気がする。 どうとは言えない。だがなんとなく、確かに感じ取っているなにかが、あの手紙は本物ではないかと囁いている。 (……やめたと思わせて実行するなら、もっと派手に、いかにも大変だからやめるのだとアピールするだろうな。その裏をかくのは……ルパンとは少し違う気がする) 「ふん」 小屋の片隅、詰まれた木箱の影から銭形は立ち上がった。 騙されたならば、己が愚かなのだ。 油断するつもりはないが、気まぐれな張り込みに切り替えてもいいだろう。 つまり、この東京を飛び立てばもう当分見ることもできない、あの優しい母の絵を、この目で見ながら守ってもいい。 いい絵はいい。だが、自分には使命がある。その使命を差し置いてまで見る絵は、この世にない。ならばきっと、この数日が終われば二度と見なくなる絵だ。 いや、ルパンの宣言が真実ならば、次はパリで再会できるだろう。だがその後はどうか、これは分からない。守り通す気ではいるが、相手はあのルパン、祖父の遺品入手には時間も手間も資金も惜しまないはずである。 そして、正直なところ……。 絵画と共に見つかった、アルセーヌ=ルパン直筆のものと思われる一通の手紙。 中にはたった一枚の便箋。そこに書かれていたのは、 『君を思う心だけは、ダイヤモンドより純粋で、揺るぎない。』 『そして誰にも盗めない。』 『君のためなら私はなにも恐れない。』 『いかなる困難も、障害も、苦痛も。』 『ただ一つ、君に嫌われることを覗いては。』 『君だけが、私の生まれ持った芸術を疑わせ、悔やませる。』 『君こそが、私の天使、私の聖母。』 『罪深い私を、どうか許しほしい。どうか、愛してほしい。』 そして、署名と、 『我が愛する妻へ』 という言葉。 これだけは、ルパンの手に返してやってもいいような気がしてしまった。警察官としては決して許されざることながら。 「ルパン。計画は完璧だ。おまえのほうだって万全なんだろう。それならやっぱり、このままやっちまおうぜ」 次元が言い、五右衛門が頷いて後を続ける。 「あれはおぬしの祖母君を描いた絵、思い入れも並ならぬであろうに」 だから、金や芸術的価値などなんの問題でもなく、必ず取り返したい絵画なのではなかったか。 浮気な祖父アルセーヌ=ルパンが、心底から愛した女性。 彼女は、アルセーヌが大泥棒だったとは最後まで知らなかったという。それでも、気侭で偏屈で度を越えた変わり者を、いつも快く待ち、迎えてくれたと聞いている。 彼女が腕に抱いているのは、生まれて間もないルパンU世。ルパンV世には、当然父ということになる。 会ったこともない、けれど自分の祖母。 なにより、祖父の最愛の妻。 なにがなんでも取り返したいと、珍しくルパンは不二子の色気すら上の空でかわすほど真剣だった。 ここのところ銭形に負けてばかりいるのも、ルパンの闘志に火をつけた。 盗みに入っても、結局品物は持ち出せずに連敗している。いくら上手く入り込み、獲物を手にしてもこれでは意味がない。 だから今回は、なにがなんでも出し抜こうと決めて取り掛かった。 いかにスマートに盗み出すかといったことや演出は、少しも考えなかった。とにかく銭形の警備をかいくぐり、『慈母』を盗み出すことが全てだった。 それなのに、昨日の夜アジトに戻るなり、今回は見送ろうと言い出した。 「なんか気が乗らねぇんだわ」 とルパンは言った。 不二子のために盗みをするよりは、綿密な計画を気まぐれでふいにされたほうがまだ快い。別段次元も五右衛門も怒りはしなかったが、二人が疑問を覚えたのは当然だろう。 昨夜から何度か、それぞれがそんな言葉を零している。 ルパンはハンドルの上に組んだ腕を置き、その上に顎を乗せ、なにか思い悩むような目で上野美術館を眺めた。 「なーんかこうさ、こういうやり方は、なりふり構わないにも程があるって気がしちゃってさぁ」 気だるそうな口調でもごもごと呟いた。 「そりゃ泥棒に卑怯もなにもないだろっけど、なーんかセコいっつーか、なんつーか」 「敵を知り己を知れば百戦して危うからず。なにも問題ござるまい」 車の外に佇む五右衛門が答える。 「まあ、そうなんだけっどもさ……」 この微妙で曖昧な感覚は、自分にしか分からないのかもしれない。ルパンは小さく息を吐いた。 次元は助手席で肩を竦める。つい胸ポケットを探ったが、そこにあるのは携帯の無線機。車の灰皿にも、吸いさしの一本もなかった。 「ま、俺たちは別に構わねぇが」 「悪ィな、次元。五右衛門」 「気にせずとも良い。では、拙者は」 五右衛門が車を離れると、ルパンはバイバイと手を振った。 いい仲間だとあらためて思う。 祖父の愛した妻、すなわち自分の祖母と、そして赤ん坊時代の父が描かれた絵。作者不明でいきなり世に出てきたその絵は、アルセーヌ=ルパンの遺品リストにあったものだった。重要度が戯画的なざれごと―――「バケツの底に残った砂」とか「傾いた付け髭」とか―――で記されたリストである。『慈母』……本来の名前は『私の君』につけられていた重要度は、「愛」ただ一言。最重要ととっていい評価だった。 テレビでたまたま見かけたルパンは、寝そべっていたソファから跳ね起きた。そしてすぐさま二人を呼んだ。 あれはじいさんの持ってた絵だ、ばあちゃんが描かれてるんだと言えば、 「で、俺たちはなにをすりゃいい?」 次元も五右衛門も、余計なことはなにも言わずに手を貸してくれた。 そして昨夜、とりやめて次のパリでの展示会で盗むことにしたと言えば、驚きはしたが、手間をどうしてくれるんだとは一言も言わなかった。 だからこそ、すまないと思いありがたいと思う。 虚実を操って盗みを仕掛ける、言わば詐欺師、嘘つきのなれの果てである泥棒に、これほど信頼でき、信頼してくれる仲間がいる。 だが、裏切りたくなく、信頼に応えたい相手は、次元と五右衛門だけではないのだ。 (とっつぁんも、裏切れないよなぁ) ライトアップされた美術館は美しい。銭形は今、あの建物の中か、あるいは近辺にいるはずだ。 今回はやめると手紙は置いたが、それをそのまま信じることはできない以上、必ず張り込んでいる。 今回はゆっくりしてもらいたかったが、嘘つきな泥棒の言葉を信じろとは無理な話だ。 心から、悪いと思う。 奇妙だが、銭形もまた自分を心から信頼していると、ルパンは感じたのだった。 社会の敵であり、個人的な宿敵であり、嘘つきで詐欺の得意な泥棒で、世の中で一番腹の立つ相手だろう。 だがそれでも、 (とっつぁん……) 銭形はルパンを信頼している。 最上級の泥棒として、予告すれば必ず盗む、できるかぎり美しく完璧に盗む、罠や嘘はいくつ使ったとしても、必ず正々堂々盗む。銭形が自分にある種の信頼を持ち、敬意を払ってくれていることを、ルパンは思い知った。 その銭形を相手にするのに、今回とった作戦の一つは、信頼を裏切る行為のような気がしてしまったのだ。 ルパンV世はあくまで誇り高く、華麗に、スマートに、そして楽しく明るく陽気に盗まなければならない。 ルパンの盗みは芸術でなくてはならない。 だからこそ、演劇的な演出を駆使して派手に盗む。盗ませていただきましたと宣伝しながら立ち去るくらいでなければルパンではない。あるいは、盗まれたことに誰も長い間気付かないほど完璧に盗むのでなければならない。 そしてその完璧な計画を、思いがけずに現れて台無しにしてくれるのが、あるいは予定外に引っ掻き回してくれるのが、銭形なのだ。 この世界で唯一、ルパンV世をして警戒せしめる敏腕警部。曲がったことが嫌いでお人好し、お調子者だが頑固一徹、いざという時には、他人のために自分のなにかを損なうことも厭わない熱血漢。この世で一番厄介な障害物だが、向かい合えば一番心躍る最大の、敬すべき好敵手。 「むふふ」 「な、なんだよ、気色悪いな」 「いんや、俺ってとっつぁんのこと、好きだったんだなぁってさ」 「………………」 「あっ、言っとくけど俺は……」 次元の見せた大袈裟な警戒の目に、ルパンもまた大袈裟に起き直って反論しようとした。 そこへ、 「黒門!!」 銭形の怒鳴り声が飛んできた。 「うわっと」 ルパンは慌てて膝の上の箱に手を突っ込む。溶けてベタつく砂糖のたっぷりまぶされたドーナツを一つ掴んだ。一息に半分も口に突っ込むと、口の周りは白い砂糖まみれになった。 あいた窓の外へその顔を向けると、肩を怒らせた銭形がガニ股で近づいてくるところだった。 「あ、警部も一つどうですか?」 と、ルパンは黒門伝八の声で言った。 「バッカもーん!!」 銭形の唾が飛ぶ。 「警備はどうした、警備は!」 「いやでも、今回はルパンは来ないって……」 「あんなものを真に受ける馬鹿がおるか!!」 うへぇ、という様子で黒門は肩に首を埋めた。 「館内の警備に行くぞ! とっととついて来い!」 「あ、でもこれ……」 「仕事中に食うな!!」 銭形は黒門の手からドーナツの箱を奪い取ると、勢いで駐車場に捨てようとした。しかしさすがにそんなもったいないことはできず、 「おまえが始末しておけ!」 と黒門の前に腕を突き入れ、助手席の若い警官に押し付けた。 黒門が銭形に連れられてひょこひょこと小太りの姿を消すと、若い警官は飾り気のないシンプルなドーナツを一つ取り上げ、口に運んだ。 「ま、今回は見るだけで我慢するんだな」 呟き、笑う。 ともあれ、ルパンV世は現れない。だから気を張って警備をする必要もない。 なにせルパンは今回はやめると断言し、相棒の次元はここにいて、五右衛門は今頃、さりげなく二人に近づいて、画家のふりをしてあれこれ話しているのかもしれない。 「ミイラとりがミイラ、か」 程よい甘味のドーナツを冷めたコーヒーで流し込み、彼はシートを倒した。 (fin) 後日談――― アルセーヌ=ルパンゆかりの地であるパリで、ルパン一行は見事に『慈母』を盗み取った。 銭形の警備網には決して隙も油断もなかった。彼は当然、全力をもってルパンを迎え撃ったのである。 そうでなければ、そうでないと感じたならば、ルパンはともすると絵を叩き返したかもしれないが、幸いそういった顛末にはならなかった。 ただ、一つだけ。 絵を盗まれた後、持ち主は激怒するあまり、 「こんなものになんの価値があるか! どうせ偽物、こんなものは偽物だ!」 と、添えられていた手紙を破り捨てた。 その手紙の存在は当然ルパンも知っていたが、これはまた改めて盗もうと計画していたことで、破り捨てられたなどとは知らなかった。 知らないままに過ごしていたある日、ルパンのもとに差出人不明の手紙が届いた。 中に入っていたのは、くしゃくしゃになった紙を継ぎ合わせ、不器用にセロハンテープで張り合わせたもの一枚。 だがルパンは、それで満足だった。 この上もなく、満足だった。 筆者の余談「銭形とルパン」 |