Rival

 銭形幸一。
 日本の警視庁からICPOに出向し、ルパン三世の逮捕を専門とする敏腕警部である。
 彼は今、数ヶ月ぶりに生まれ故郷である浅草に戻っていた。
 煎餅布団に転がって大イビキをかくその場所は、雨漏りがひどく壁も薄いが、家賃だけは格安のアパートである。もっとも、銭形がこのアパートを利用するのは数ヶ月に一度あるかどうかであるから、それでいっこうに問題はない。むしろ、家賃さえちゃんと払っていれば、定期的に部屋の掃除までしてくれる大家には、感謝していた。

 その日の銭形は、雀が鳴く声を目覚ましに起き出した。初春のまだ薄暗い部屋に、明かりをつける。どうやら大家が蛍光灯を取り替えてくれたらしく、白い光は清潔で眩しかった。
 洗面所に立ち、顔を洗う。歯ブラシを口の中に突っ込むと、歯茎が破れるのではないかという勢いで磨き始める。毎日そうして鍛えられた口内はその乱暴な洗浄に平然と耐え、今までに虫歯一本、生み出したことはない。
 手早く身支度を整え、所持品を確かめる。着古したコートはこれでもバーバリー。帽子は型遅れのボルサリーノ。もうずいぶん傷んでしまったが、スーツはオーダーメイド。そのくせシャツはバーゲンの二枚で千円、ネクタイはもらいもの。ステテコは母親が生前に大量買いしたものを、二十年たった今でも洗濯して着用している。高級品とセール品が入り混じったそれが、何故か銭形にはやけにしっくりと似合っていた。
 警察手帳とICPOの身分章、愛用の手錠。拳銃は、日本にいる間は必ず警視庁の所定の場所に預けてある。欧米には拳銃が腰に下がっていないと落ち着かないという警官もいるが、銭形は気楽でいいと思っている。それは、拳銃に頼らずとも犯人を取り押さえることができる、という彼の自信の表れでもあった。

 めったに乗らない車のために、車検で何万も払うなどバカげている。警視庁へ向かう銭形の足は、国鉄である。……民営化してJRと呼び名は変わったが、銭形の頭の中では未だに国鉄なのだ。
 桜田門に到着すると、まっすぐに刑事部屋に向かった。
 銭形が日本に戻っているのは、決して休暇ではない。彼の宿敵ルパンV世とその一味が、上野美術館で行われる世界の名画展をターゲットにしているという情報を入手したためだ。
 ここのところの銭形は、冴えに冴えていた。ルパン逮捕には持ち込めずとも、オーストラリアの富豪が所持するブルーダイヤ、ロシア皇帝秘蔵のウォツカ、アメン・ラーの宝冠、全て守り抜くことには成功した。
 だから今回も、出所のあやしい情報ではあったが、自分の感じたものに従って帰国してきたのである。
 懐かしいデスクの上には、きちんと整理されたA4サイズのレポートが束になっておいてあった。機械音痴の銭形のため、若い婦警が昨日一日かけてまとめてくれた、様々なデータである。
 それを手にとって椅子にかけ、さりげなく置かれたコーヒーに軽く頷いて口をつけた。

 まとめられたデータに一通り目を通すと、射撃訓練場に下りた。めったに撃つことはないが、だからといってまともに撃てないのは論外だと、訓練を欠かしたことはない。その腕前は、並外れたものがある。銭形のことを「冴えないロートル」だと思っている若い刑事たちも、これを一度見ればがらりと態度を改める。コルトガバメントが火を吹けば、あのルパンのみならず、次元大介と撃ち合ってもそうそう遅れはとらない手練れだ。
 それから、柔道。無論のこと黒帯。そうして昼前までに軽く体を動かすと、ざっとシャワーを浴びて着替え、上野美術館へ向かうべく、車のキーを借りに行った。
 すると、そこで銭形を待ち構えていたのは、まだ若い刑事だった。
(やれやれ)
 と内心溜め息をつく。
「さあ、警部! 上野ですよね!?」
 やたらと声の大きい、丸顔で小太りのこの若者、名は黒門伝八。銭形がかの銭形平次の子孫であるように、この黒門は黒門町の伝七の子孫、同じく岡引の末裔だった。
 臆面もなく、自分がこの世で一番尊敬しているのは銭形警部ですと言う口で、警部亡き後には僕が後を継いでルパンを逮捕してみせますと、さりげなくものすごく失礼なことも言う。憎めない男ではあるが、部下の面倒を見るのはあまり好きでも得意でもない銭形だった。
 しかし、敬愛する警視総監から、くれぐれも頼むと言われては、断るわけにもいかない。
 銭形は黒門と共に、上野美術館へ向かうことになった。

 渋滞につかまった車内で、黒門は片手にハンドル、逆の手に持ったドーナツをぱくつきながら、やたらと喋る。いったいどのタイミングで「うるさい」と言ってやろうかと、銭形はボルサリーノの庇の下で考えていた。
「それにしても警部」
 腿の上に置いたドーナツの箱の中に手を入れながら、黒門が言う。
「警部はどうして、そこまでルパンにこだわるんですか?」
「なに?」
「たしかに、ルパンは国際的な大泥棒ですが、もっと悪辣な強盗団もあるじゃないですか。こう言っちゃなんですが、野放しにしておくと危険なのは、そういう連中のほうじゃありませんか」
「むぅ」
 たしかに、それはそうだった。ルパンの一味は、決して義賊ではない。だが、相手も悪党である場合を除き、殺傷といった手段はとらない。そういった安直な方法に頼らずに、大きな仕事をやってのけることを快感としている。放っておけば、金銭的な被害は莫大なものになるだろうが、それで生活が困窮するといった人々はまず出ない。彼等が狙うのは使いきれないほどの大金であるがゆえに使われない金か、生活には関わりのない美術品だからである。
 あらためて理由を問われ、銭形はいくらか考え込んだ。

(ルパン……)
 何度も出しぬかれ、歯噛みし、生涯の敵と思い定めた。だが、その意地をなくしてしまえば、他にもっと深刻な敵が、世の中にはいるだろう。
 しかし、心が動かないのだ。悪逆非道な犯罪のあったことを聞けば、腹は立つ。憎いとも思う。だがそれを俺が捕まえてやる、とは思わないのだ。
(自負、か?)
 他の悪党はともかく、ルパンだけはこの俺にしか捕まえられない、という。
 だから、彼が誰かに捕まったと聞くと、喜びなどどこにもなく、ほとんど絶望に近いような茫然とした気持ちになる。死んだと聞けば、自分の全てまで終わってしまったように感じた。生きていると知って心底安堵したことも何度かあった。
 善か悪かなど超越したところで、世界で唯一、認めた男なのかもしれない。
 何故人のものを盗むのかと腹を立ててはいても、蔑んではいない。その鮮やかな手口に引っかかり出し抜かれれば、悔しくは思うが、どこかで奇妙な爽快感を覚えることもある。
「ルパンだけは、この俺にしか捕まえられんからだ」
 少し黙っていろと言うかわりに、銭形は帽子の庇を更に押し下げてシートを倒し、腕を組んで目を閉じた。

 ようやくおしゃべりをやめた黒門にほっとし、寝たふりをしながら銭形は考える。
 美術館の構造、平面見取り図、警備状況、セキュリティシステム。どこにどんな穴があり、どこにどんな罠を張るべきか。
(ルパンは必ず来る……)
 アルセーヌ=ルパン秘蔵の絵画と言われる『慈母』が展示されるのだ。以前に一度あったような、直筆のラクガキというオチではない。描いた画家の名前も分からないが、芸術に疎い銭形が見てでさえ、しばし見蕩れるような素晴らしい絵だった。
 いつの時代か、質素な部屋の窓際に、ふっくらした美女が腰掛けて窓の外を見ている。戸外はさわやかな初夏のようで、木々の緑が美しい。窓辺にさしこむ光も淡い緑に輝く中で、小さな赤ん坊を抱いて微笑んでいる。その穏やかさ、あたたかさ、優しさと大きさは、まさに慈母の姿と言って良かった。銭形には、あのモナ・リザよりも崇高で美しく見えたものだ。

 ルパンは、散逸してしまった祖父の財産については、己が譲り受けるべきものだとして憚らない。偽名でも使って買い戻せばもっと簡単に済むだろうに、盗み取ることが祖父への手向け、ルパン一族のとるべき手段と思うのか、必ず盗み出す。
 いつものことだ。
(ふん。今度こそふん捕まえてくれるわ)
 腕を組んだまま、銭形は懐の手錠をそっと確かめた。


「警部、着きましたよ」
 車が止まってエンジンが切れた。黒門の声でやっと起きたようなふりをして、銭形はシートの上で大きくのびをした。
 警官の姿があちこちに見える。銭形を見かけると上辺だけはへりくだるが、内心ではルパンに毎度逃げられてばかりいる大間抜け、と思っているのだろう。誠実さは少しも感じられない。
 だからといって、別に腹も立たない。人にどう思われようと、そんなことは銭形にはどうでも良かった。尊敬されたいとか褒められたいとか、そんな理由でルパンを追うのではないし、捕まえるのではない。一つには社会正義のため。そしてもう一つには、唯一銭形が全力で戦える相手であるためだ。
「まったくあいつら、ちょっと行ってとっちめて……」
「放っておけ」
 おざなりな敬礼をした二人組みに、腕まくりするようなジェスチャーをして凄んだ黒門を、銭形は軽く止めた。先に立って美術館の入り口に向かう。黒門が物足りなさそうに追いかけてきた。

 名画展の開催は明日にまで迫っている。
 今のところ、絵は無事だ。
 開催前にすり替えられる可能性も考慮してある。今あの絵を守るのは、唯一ルパンが開けられなかった伝説の金庫造りの考案した究極の金庫である。ならば、無理にそこから奪うよりは、死角の増える展示中のほうが狙いやすい。
 黒門は逐一、どこにどういう手配がしてあるかを喋り続けた。
 関心はあるが、銭形はさして気にも留めず歩きつづける。
 物理的な防犯装置は、いくらでも誤魔化せる。高度で精密な機械、千変万化の変装、五右衛門の斬鉄剣。
 長年の経験で銭形が知っているのは、自分がルパンと鉢合わせることが最低限必要だ、ということが一つ。そうなった場合には、今のところルパンよりも銭形の勝率が高かった。
(こいつをかけるまでは、上手くいくんだ)
 銭形は懐の手錠を押さえる。
 問題は、その後逃げ出される可能性が非常に高く、また、留置所・刑務所に放り込んだ後になれば、必ず脱走されている。
 あと一歩というところまで追い詰めたことも何度かあるが、その一歩が詰められないまま、何年こうして追いかけているのだろうか。

(あいつの一番厄介なところは、心理的なひっかけってヤツだ)
 いると思ったところにいない、いないと思ったところにいる。ないはずのものがあり、あるはずのものがない。心理的盲点、と言ってもいいだろう。
 最新式の警備システムについて、黒門は専門家のようにとうとうと喋るが、こんなものが役立つようには思えなかった。
「もういい」
 うるさくなって、そう遮る。
「しかしですね」
「いいか、黒門。ルパンという奴は、当たり前を裏切ったところに存在するんだ。たしかにこの警備システムはすごい。だがな、こんなものは誰でも思いつく。こんな、俺がなるほどと思う程度のもので捕まるわけがない。そんな手があったかと驚くほどでないなら、アテにはならん。ルパンはな、この程度のものは問題にせん奴だ」
 銭形の断言に、黒門は口を噤んだ。
 その言葉の中には、確信というより、信頼のようなものが感じられたからだった。

 

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