トーリン=オーケンシールドと二人の魔法使い
【トーリン=オーケンシールド】
若きトーリン=オーケンシールドは、父を探し放浪していた。 旅に出たのはいつだったか。 父スラインが行方を晦ましてから、五年ほど過ぎた頃だったろうか。 そのとき既に人々はトーリンを王と認めていた。スラインのことは残念だが諦めて、彼にこそ王として立ってほしいと思っていた。 ただし。 それは国なき民の王だった。
ゆえにトーリンは逃げた。 他の誰が知らずともトーリン自身は、己が責務から逃げ出したのだと知っていた。 己がいつか王位を継ぐことは承知していたし、そのときのため相応しくあろうと、あらゆる努力を惜しまなかった。しかし、偉大なるスロール、苛烈にして聡明なるスラインがいるエレボールには、トーリンという名の王が生まれるのははるか先のはずだった。 未だ相応しいだけの力もないこの袖に、大勢の民たちがすがりついてきた。 トーリン自身が、大海に投げ出された小舟も同然だった。その舷にとりすがる民の期待は、水底から伸ばされる亡者の手のように恐ろしかった。 一つや二つの手ならともかく、数多伸ばされるその切望に、応えるだけの力などない。 戦士として敵と対すれば、どれほど強大であろうと退くことのないトーリンも、王として民の願いと悲嘆の前に立つにはあまりにも無力で、引き受けるすべを知らなかった。 人々が己を、真実よりもはるかに大きく見ているのもまた、たまらなかった。
だからトーリンは逃げた。時間が欲しかったのだ。考える時間と、覚悟を結ぶ時間、幾許かの力を得るための時間が。そのための、なににも煩わされぬ一人の時間が欲しかった。 スラインの存命、その姿を見たという噂を盾にして、父が生きているならばそれを探し出すことこそ己の果たすべき務めと、トーリンは旅に出た。 逃げ出したと思った者はなかっただろう。教師であり養育係であったバーリンですら、一片の疑いも抱かなかった。ましてや他の人々はトーリンを、本人が望むよりはるかに勇敢で豪胆であると信じていた。折々には帰ると言ってあるのに、最初の旅立ちのときには盛大な宴が開かれ、いくつもの歌が歌われた。
その先は、供もない一人旅だった。それは己を鍛えてくれるとも思った。 旅の空で、時は疾風のように飛び去った。 時折は青の山脈に帰った。なにもかもを放り捨て知らぬ顔はできなかったし、そこに戻れば旅に必要なものはいつでも揃えられたからだ。 最初の旅に出たときはほんの赤ん坊だった甥には、一人の弟が生まれ、二人ともすくすくと育っていた。 フィーリ、キーリと名付けられた子供たちは、トーリンのささやかな寄る辺となった。ドゥリンの血は受け継がれ、もし己になにかあったとしても、この子たちを介して続いていくだろう。二人の甥の健やかな成長を楽しみにしながらも、トーリンの旅は続けられた。 だが、トーリンが闇雲な旅をやめたのもまた、この二人の甥のためだった。
ある冬、雪の降り積む霧ふり山脈の裾野で、トーリンは大熊に襲われて深手を負った。 森を追われ空腹だったらしい熊は恐ろしく凶暴だった。固い毛皮は並の刃など受け付けず、振り回される太い腕が丸太のように頭を殴り、鉤爪が腕を抉った。肩に食いつかれ、短剣で腹を突き刺して逃れた。必死の攻防の末になんとか仕留めたが、そのときはトーリンもその場にへたり込み、荒い息をつき、当分立てそうにもなかった。 その上にしんしんと雪が降っていた。 どこか屋根になるもののある場所へ行かねばと思ったが、雪を赤く染める血の分だけ、立ち上がる力も歩く力も失われていた。 こんなところで、結局なに一つなさずに死ぬのかと思った。アゾグを討ち、英雄と讃えられた者にしてはお粗末な結末だが、トーリンは、こういう惨めで無為な死こそ己に相応しいと知っていた。己は偉大なる王でもなければ高潔なる英雄でもない。行く末に惑ってさまよい歩くだけの、卑怯で軟弱な敗北者なのだ。
そんな己でも、真実を知らぬ可愛い甥たちは、輝くような眼差しで見上げてくる。旅の話をせがみ、戦いの話には小さな手を握り締めて頬を紅潮させる。二人を左右の膝に乗せ、金と黒との柔らかな髪を撫でるとき、その手から胸にまで染み入るあたたかさ。 (……許せ……) もう土産話は持って帰ってやれそうにない。 そう思って手から斧を取り落とし、雪の上へ倒れ伏した。 感覚の薄い頬にも、凍える大地の冷たさは焼けるように痛かった。 それも束の間のことだろう。 そして輝く王国の夢は、あの可愛い子供たちに引き継がれる―――。
重荷を下ろした心の平安は、しかし、突然打ち破られた。 あえて言うならばそれは、弱き己の中にあるひとかけらの、強き己の声だったろう。 その声が問うたのだ。
おまえはあの子供たちに背負わせるのか。 己が逃げ出したあの重荷。 見えない未来、人々の期待、切望。諦めの溜め息、憧れの吐息。 大地を失った民がこの袖にすがるとき覚える、恐怖にも等しいような不安。 その重みを、あの小さな肩に乗せるのか。
「おかえりなさい、伯父上」 駆け寄ってきて、甲斐甲斐しくマントを受け取ろうとするフィーリ。 「おかえぃなさい、おぃうえ!」 その兄にしっかりくっついて、言うことすること、なんでも真似しようとするキーリ。 そんな二人の後ろから、微笑む妹。 大切な家族。
血の味が滲む歯を食いしばり、トーリンは震える腕に渾身の力を込めて己の体を持ち上げた。 諦めてはならぬ。 逃げてはならぬ。 これが重荷であるならばなおのこと、時至らぬ間に投げ出すわけにはいかぬ。 今はまだ、国の未来や民の行く末など分からずとも、せめて己の家族だけは背負ってゆかねば。 (それくらいは、不肖の伯父でも、してやらねばな) 口元の血を拭いにっと笑った瞬間に、トーリンの意識は途切れた。
→つづく |