【トーリン=オーケンシールドの思いがけない旅立ち】
その日、トーリンはいつになく疲れていた。 親族の集う会議の中でエレボールの話が出たからだ。 エレボール。 豪壮にして絢爛たるドゥリンの都、麓に賑わうデイルの町。 エレド・ルインの住まいも居心地は悪くないが、置き去りにしてきた故国を思うとき、彼等の心には一様に、屈辱と望郷の念が沸き起こる。 そしてそれは、いつか取り戻さねばならぬという期待と責任として、トーリンに向けられるのだ。 それが簡単なことでないのは言うまでもなく、今すぐにどうと求められることはない。ただ、いつかは。しかしいったいどこに、どんな、絶望的戦いの勝算を見い出せばいいのだろうか。 「帰ったぞ」 思い悩む心を抱えたまま、トーリンは頑丈な木造りの扉を開けた。今日は特に癒やされたい。ディースの手料理と、フィーリ、キーリのおしゃべりを堪能したい。 と思うのに、いつもならばすぐに出てくる三人は誰一人として姿を見せなかった。 「……? おい。出かけてるのか?」 しかし明かりはついたまま。一つくらいならばともかく、玄関から廊下、居間まで、なにもかも消し忘れることはないだろう。 「ディース?」 コートを壁の鈎に掛けて、トーリンは妹の名を呼びながら織物の敷かれた廊下を進んだ。 すると、突き当りの角を曲がってふらりと、母となっても若々しい最愛の妹の姿が現れた。 「いたのか。どうした? もしや、具合でも悪いのか?」 「兄様……」 つぶやく妹の声は力なく、ぼんやりとして、思わずトーリンはぞっとするものを感じた。 「ディース? なにかあったのか?」 そろそろと近づきながら、うつむき加減の顔を覗こうと背を屈める。
途端。 トーリンは反射的に身を引いていた。 耳元にじいんと凄まじい痺れが残っている。 仰天して見開いた目に、手斧を振り下ろした我が妹の姿が映っていた。 「ディ、ディース!? いったいどうした!? おい!!」 「兄様……。もう駄目です。こうなったからには、兄様を殺して、あの子たちと共に私も死にます。兄様。お覚悟を」 「ちょ、おいっ、いったいなんなんだ、ディース!?」 ゆらり、ふらり、斧を提げたまま幽鬼のように妹が近づいてくる。 トーリンは真っ青になって後ずさり、とうとう扉に退路を塞がれた。 「落ち着け、ディース。いったいなにがあった。駄目とはどういうことだ。こうなったとはいったい……」 ドアを開け、外に逃げ出そうか。 いや、そうすればこのディースがそのまま追いかけてくるのではないか。 ではどうする。 これが敵なら叩きのめして首でも取ればいいだけだが、相手は愛する妹である。 それがどうしてこんなことになっているのか。 「兄様。いざ、お別れです」 ぐうっと振り上げられる斧と、軽く正気を失っている妹の目を見て、トーリンは弾かれたように彼女の脇を転がり抜けた。 凶悪な斧は虚しく床の石を打ち、ディースはその場に座り込むとわっと声を上げて泣きだした。
トーリンは爆発しそうな心臓を抱えたまま起き上がり、素早く近づくと転がっている斧を後ろへ蹴り飛ばす。そしてディースの肩に手をかけた。妹は、 「兄様っ」 と悲鳴のように呼んで、しっかりと抱きついてきた。 どうやら、とんでもない激情は去ったらしい。 トーリンはあらためて、なにがあったのか、どうしてそうも取り上せていたのかと尋ねた。 すると彼女は、泣きながら奥を指さした。 涙を振りこぼし、すすり泣きながら、 「これではドゥリンの血が絶えてしまいます。けれど、それもこれもすべて兄様が悪いのですよ。私はもう、お父様にもお祖父様にも申し訳ができなくって……」 そう言われて頭によぎったのは、フィーリとキーリになにかあったのではないかということだった。 トーリンはディースを離すとドアを叩き破らんばかりの勢いで子供部屋に飛び込む。 するとそこには、泣きっ面の兄弟が二人、互いにそっぽを向くようにして膝を抱えていた。 安心するあまり膝が砕けそうになり、トーリンは大きな息を吐く。冷たい汗が首を伝った。 とんでもない話だ。自分と兄だけならともかく、こんな可愛い子供たちまで道連れにしようとは。
「フィーリ。キーリ。どうした。喧嘩したのか? うん? 怒らないから、話してみなさい」 床に膝をつき、トーリンができるだけ優しく語りかけると、二人は左右から兎のように飛びついてきた。そして泣き顔をぐいぐい押し付けてしがみつく。 「よしよし。なにがあった? フィーリ。おまえから話すか? それともキーリ。おまえが先か?」 うぐ、えぐ、と左右から嗚咽が聞こえる。 やがて、 「おじうえは、キーリのだもん。フィーリにあげないもん」 と、キーリが言った。 するとフィーリが、 「だめっ。伯父上はあげない!」 弟から奪おうとするように力を込める。 トーリンはほっとして苦笑いし、いつものことじゃないかと思った。なんでこんなことでディースが逆上したのか、さっぱりである。 二人をそれぞれの腕で抱え上げ、トーリンは、子供用の椅子は小さくて脆いので、フィーリのベッドの上に腰掛けた。 「そうか。そんなに私のことを好きだと思ってくれるのか。だが、二人のものではならぬのか? ん? それとも、今日はキーリのもので、明日はフィーリのものでは駄目か?」 お菓子のように半分に分けられないものは、いつもそうしているように、代わりばんこにすればいいではないか。 今までにもあったことだ。トーリンを独り占めして眠りたいときには、今日はキーリ、明日はフィーリと順番にしていた。そういうときにはいつも、フィーリが弟に先を譲ってやる。そういう物分かりの良い、優しいフィーリまでが、どうして今夜に限って喧嘩したのだろうか。
なにか悪いモノでも通っていったのかもしれない。 そうだ。そうでもなければ、ディースが取り乱す理由もない。きっとなにか、ひとの心をかき乱しざわめかせるような悪い魔法が、己の留守中に彼等を襲ったに違いない。 だとしたらどんなに怖かったことだろう。 「もう大丈夫だ。私がいるからな」 トーリンはすっかりそのつもりになって二人を慰めた。 「ほんと? ずっとキーリといてくれる?」 「ああ」 キーリの可愛い訴えに、笑顔で答える。 途端に逆から、 「だめっ!!」 と甲高いフィーリの声が耳を突き刺した。 「伯父上はぼくのなんだから」 「こらこら、フィーリ。なにもおまえと一緒にいないとは言っていないだろう。おまえだってずっと一緒だ」 まったく困った、そして可愛い子供たち。
―――と、やに下がっていられたのは、ここまでだった。 トーリンの慰めに、フィーリは何故だかむっとしたような、困ったような顔をしてこう言ったのだ。 「伯父上。うそはだめです。だって、けっこんは一人としかできないでしょ?」
け っ こ ん ?
ああそう、血の痕。 違う。
いっぺんでトーリンの頭の中は真っ白になった。 その右と左で、 「だめ、フィーリ! おじうえとけっこんはキーリなのっ」 「それだけはだめ! 伯父上はぼくのなんだから!」 きゃんきゃんと子犬たちがまた吠え出した。 そして戸口では、よよと泣き崩れるディースの声。 「私の育て方が悪かったの? それとも、兄様が甘やかしすぎたから、こんなことに? ああもう、ご先祖様に顔向けできないっ。お許し下さい、お父様、お祖父様っ」 「やーっ、キーリとけっこんーっ」 「やだっ。だめ!」
茫然自失していたトーリンは、超音波のような左右の声でなんとか己を取り戻した。 そして、落ち着け自分、と三度ほど心の中で唱える。 「ま、待て。二人とも。待ちなさい。……おまえたちは、その、"ケッコン"というものがどういうものか、分かっていて言っているのか?」 そう、子供の言うことではないか。結婚というものの一部だけを理解しているとか、それとも曲解しているとか。 であれば、その勘違いを正せば済む。 そうである。それだけのことである。 (よし) 解決の糸口、混沌の出口を見つけ、トーリンは一つ咳払いする。 「結婚というのは、おまえたちが思っているのとはきっと違うものだ。結婚というのはだな」 「およめさんになることでしょ、伯父上」 「うっ。フィーリ。だからその、"お嫁さん"というのはな」 「ちがうよ、フィーリ。しらないの? およめさんにすることだよ」 「だからだな、キーリ」 「ちがうってば! 伯父上のおよめさんになるのはぼく。キーリにはあげない!」 「ちょ……」 「ちがうよ、フィーリ。へんなの。おじうえはね、キーリのおよめさんになるの!」 「え? おい、おまえたち……」 ちょっと待ちなさい、と言いたいトーリンの右と左から、フィーリとキーリは顔を見合わせた。 「いいか、私の話を」 「キーリは、伯父上をおよめさんにしたいの?」 「だからだな」 「うん。フィーリは、おじうえのおよめさんになりたいの?」 「その話はちょっと待てと」 「うん」 「いいか? 結婚というのはな」 「なーんだ。じゃあ、フィーリはおじうえのおよめさんになればいいよ。キーリはおじうえをおよめさんにするから。それならいいよね?」 「うん。そうだね」 そしてぎゅっと、満開の笑顔で抱きつかれた。
子供たちが眠ってしまった後の居間、さめざめと涙するディースと差し向かいで、トーリンは組んだ手に額をつけ、百年分の頭痛をこらえるような顔をしている。 いったいどこで間違ったのだろうか。 そう思うとそこかしこで間違ってきたような気もするし、そんなとんでもない間違いなどしなかったような気もする。 ディースは細い声で父祖と亡き夫に許しを請うている。 「ディース。子供の勘違いでそこまで思いつめることはない」 「勘違いで済めばいいでしょうよ。でもあの子たちがあのまま大きくなったらどうなるかと思うと……」 「そうならぬよう、きちんと間違いと勘違いを正してやれば済むことだ」 「兄様は軽く考え過ぎです。ねえ兄様。女の子が、大きくなったらお父さんのお嫁さんになる、と言い出したなら私だって取り乱したりはしません。男の子でも、お母さんのようなお嫁さんがほしいと言うんだったら、ええ、私だって大喜びして、それだけで済みますわ。でもあの子たち、男の子なのに……しかもフィーリは、お嫁さんになりたいだなんて。私いったいどこで間違ったのかしら。たとえ兄様を思わなくなったって、あの調子でよその殿方を思うようになったりしたら……」 ああと語尾が嘆息と涙に崩れた。そして、 「それもこれも兄様が悪いのです」 とトーリンに回される。 ちゃんと剣術や馬術も好きな男の子らしい男の子に育ててきたはずなのに、伯父に対する一点だけでおかしくなっているのだから、悪いのはトーリン。そういう理屈らしい。 で、そんなこんなで思い悩んでいたら、兄を殺して己も死のう、あんなままで取り残される子供たちも可哀想だからとそのときは一緒に……と怖い考えになってしまったわけで、 「ディース、ディースっ、よせ、考えるな。分かった。私のせいだと言うなら、できるだけこの家には来ぬようにするからっ!!」 ぶつぶつと目が怪しくなってきた妹を、トーリンは慌てて現実に引き戻した。
トーリン=オーケンシールドが旅に出た。 父スラインを探すためだという。 彼を見かけたという噂はあまりに頼りなく、それを信じて旅するのは無謀に思われたが、トーリンは、もし父が存命であるなら、それを探すこともせずに王位を継ぐのは理に反する、と言い張った。 ごく少数の、しかし最も勇敢な供を連れて旅立つ彼を、エレボールの民たちは不安と期待で見送った。 その中には、兎のように目を真っ赤に泣き腫らした彼の甥たちもいた。母にそれぞれの肩を押さえられて、二人とも、千切れそうなほどに手を振っている。 そんな可愛らしく健気な二人の子供を、勇猛なるドワーリンは振り返る。 くれぐれもよむろしく頼むと、トーリンに言い置かれたのだ。 この旅にはきっと己もついていくだろうと思っていたドワーリンには、供から外されることがあまりにも意外で、屈辱的ですらあった。しかし、ほとんど必死の面持ちでこの両肩を取り、己が留守の間にこの二人を、立派な男として、一流の戦士として鍛えあげてほしいと頼まれたのだ。それでドワーリンは納得した。それもまた大役であるし、王の血筋だからと遠慮するような小胆者には務まるまい。 きっと、いずれ行かねばならぬエレボール奪還の旅路へ、王の一族、王としての責を背負う者として、この子供たちも連れて行くつもりなのだろう。であればこそ、生きて帰れるように、どれほど過酷であろうと容赦なく鍛えあげたいに違いない。 (お任せあれ、トーリン。このドワーリンが、必ずや) 誇らしさと決意とで、ドワーリンは分厚い胸を張り彼の背中を最後まで見送ったのであった。
(おしまい) |