Antinomie

 


 靴音が響く闇が好きだ。
 薄暗がりに浮かび上がる、現実とも妄想ともつかないものが好きだ。
 圧し掛かってくるのではなく遠く薄れていくような静寂が好きだ。
 誰も居ない、一人が好きだ。

 他人の足音は嫌いだ。
 疑う余地もなく信じざるを得ない真実は嫌いだ。
 意味もなさない雑音は嫌いだ。
 思惑と欲と欺瞞にまみれた視線の檻は嫌いだ。

 私が愛する、静かなる孤独。
 誰も踏み込んでこない特別閉架図書室。
 時代がかったフロアに置かれた重厚な調度品。
 喧しいほどの知識に囲まれながら、私はそのどれも選ばない。
 椅子にかけ、目を閉じ、冷えた空気に身を預ける。

 不意に紛れ込んできたのは、掠るような足音だった。
 私の静寂を乱す、鬱陶しい輩。
 姿を見ずともそれが誰かは分かっている。
 私の腕を逃れておきながら、私のもとにとどまった。
 挑戦なのか、あるいは計略なのか。
 風間醍醐。

 思惑を引きずり出そうとあらゆる手を尽くした。
 だが、私の力さえ容易に跳ね除けたこの男は、そのどれにも屈しなかった。
 私が成そうとしていることを厭いながら、なおも私の傍に居る。
 この男は、嫌いだ。

 私と二つ三つしか違わないとは到底思えぬ眼差し。
 私のような賢(さか)しさではなく、深さを感じさせる隻眼。
 この男が何を考えているのか、まるで読めない敗北感。
 何故。
 なんのために。

 私は繰り返す。
 この男を微かなれど動揺させえた、唯一の事を。
 なんのためにこの場所に現れたかなど聞く気はない。
 私が立って彼の前に行くと、彼もやはり何も言わずに私を見下ろす。
 そして、私のすることを止めるでもない。

 刀を抜く。
 野暮な制服を切り裂き、筋肉に盛り上がった肉体を曝す。
 押して椅子にかけさせると、刃の掠った赤い筋が一つ、胸に浮いて崩れた。

 血は嫌いだ。
 体温も嫌いだ。
 それに触れて私の中に沸き起こる、憎しみめいた感情も、嫌いだ。

 赤いものを指にからめて、それで醍醐の下肢に触れる。
 硬く引き締まった腿が震えて、更に硬く、鋼のように変わる。
 顔は羞恥に歪むが、それでもなお、私を見る左眼。
 その眼の湛えた感情は、私には分からない。
 この眼も、嫌いだ……。

 いっそ潰してしまおうか。
 だが、それでは駒として動かせぬ。
 駒。
 この、何を考えているかも分からない男を、洗脳もせずに駒にできると?
 私の中の私が言う。
 まるで耳に聞こえるように確かな私の声で。
 この男は駒として使うにはリスクが大きすぎる、排除せよ、と。

「うるさい」
 我知らず口に出した言葉に、醍醐が驚いた。
 何を喋るでもなく、呻き一つ上げておらぬのだから、無理もない。
「おまえに言ったのではない」
 では誰に言ったと?
 私は問うが、醍醐は何も問わず、ただ頷き。

 笑った―――。

 何故……?

 嫌いだ。
 痛みは、嫌いだ。
 なのに私を捕らえて放さない、不意打ちの頭痛。
 こめかみからこめかみへ、焼けた杭でも打たれたかのように。
 背を起こしていることさえできずに、床に手をつく。

 醜態だ。
 他人の前で。
 だが、醍醐の前でこうなるのは、これが三度目だ。
 何故いつも、この男といる時にかぎって。

 指先まで冷えていく。
 強張った肌の上を、冷たい汗の伝うのが分かる。
 静寂と沈黙は冷気となって私を覆い、圧し掛かってくる。
 だがせめて声は立てまいと、食いしばった歯が鳴った。

 私に触れる手。
 他人の体温。
「雹」
 他人の声。
 私の好きなものを壊していく。
 私の嫌いなものばかり、この男は。

 切り捨てて切り刻んで消し去りたいものばかり、私に寄越す。
 私は。
 この男が嫌いだ。
 そして何より、私が嫌いだ。
 こんなにも嫌いなものばかりある嫌いな男を、殺さない私。
 私は、私が嫌いだ。

 陽だまりに似たぬくもりの中、声が聞こえる。
 どこか果てない遠くから低く優しい男の声で
「大丈夫だ
 俺は居る
 俺は
 俺として
 それでもここに居るのだから
 大丈夫だ
 おまえは
 一人じゃない」
 と―――

 そんな幻聴に安堵する、私は私を、殺してしまいたいのに。
 殺せない私が、私は嫌いなのだ―――。

 

(終)