桜 花 郷

「兄さん?」
 姿の見当たらない兄を探し、無人の部屋に問う。
 命こそとりとめたものの、心の壊れた兄は、もはや魂の抜け殻ではあったが、ときおり、夢に立ち歩くことがあった。
 そう遠くへは行くはずもない、と己に言い聞かせながら、恭介は広い屋敷の中を、一部屋一部屋、覗いて回った。
 何処にも姿がないことを確認し、庭に下りる。

 おりしも時は春。
 ほとんど白に近いような山桜の老木が、歴史を競うかのごとく咲き誇る山辺の庭。
 朝からの風に散った花片が、雪のように白く、土の上を覆っていた。
 まるで雪景気だ、と恭介は空を見上げる。
 霞がかった空に、無数の白いものが漂っている。
 それは風に吹かれて散り落ちるというより、落ちた地から空へ帰ろうと舞い上がるかに見える。
 風になぶられ、空にとどまる無数の白片。
 いつまでもいつまでも、落ちてはこない、それが空の一部であるような錯覚に、足元がふらつく。
 上も下もなく、右も左も、前も後もない。

 薄青い霞、白く柔らかな斑の空に包まれて、気がつけば、恭介はその場に座り込んでいた。
(いけない。兄さんは……?)
 強く頭を振り、眩暈を払う。
 距離感のない白の中を見渡すと、今しも「庭」と呼べる場所から出ようとしている後ろ姿が見えた。
 裾に藤色の靄が波打つだけの、白い無地の浴衣。
 色素の抜けた真っ白な髪。
 降りしきる桜の破片にまぎれ、その中に溶け消えるような錯覚。
 恭介は慌てて駆け寄り、腕をとった。
 力なく歩みを止めた顔を覗き込むが、瞳に生彩(いろ)はない。

 何処を見ているともつかぬ虚ろな目で、雹は恭介の促すまま、屋敷に向かって歩き始めた。
 道に迷い途方に暮れ、泣くこともやめた子供の手を引くような、他愛のなさが胸に痛い。
「駄目だよ、兄さん。勝手に外に出ちゃ」
 返事などないと、ともすると聞こえてもいないのだろうとは承知しながら、優しく言い聞かせる。
 縁側に辿り着くと、そこに座らせ、土にまみれた素足を丁寧に拭いてやった。
 夢の中だけを彷徨う雹の体からは、肉という肉が削げ落ちて、足首が恭介の手首ほどしかない。
 筋の浮いた甲、青白い爪。
 恭介は我知らず眉を寄せた。
 痛みの在り処を確かめるように、そっと雹の右袖をたくしあげる。
 血の気のない白い肌の、肘裏だけが爛れたように赤い。
 飲むものすらろくに飲まない抜け殻に、無理やり命を注ぎ込む痕だ。

「……痛くない?」
 問うが、やはり答えはない。
 かわりに、雹は前触れもなくふっと立ち上がり、また庭の中、桜の舞う中へと歩き出した。
「兄さん!」
 行かせまいと、とっさに手をとる。
 ゆっくりと、しかし力を込めて引き、自分の隣に腰を下ろさせる。
「綺麗だね。でも、ここから見ていよう?」
 覗いた赤い瞳の中に、無数の白い影。
 何が雹を桜の中へと歩ませるのか、示すものとてない。
 けれどたぶん、と恭介は雹の肩を抱いた。

 まだ幼かった頃、まだ正気だった雹が、言ったことがある。
「このなかにいたら、いつか、ぼくらも桜の花びらになれるよ」
 桜の花はね、母様のいうとおり、半分はおちて来年の桜になるけど、半分は、空にのぼっていって、どこか空のすきまから、桜だけの世界にかえるんだよ―――。

 そして、永遠に腐ることもなく、落ちることもなく、薄紅の空に舞いつづけるのだと、雹は言った。
 雹の思い描いた世界は、恭介にも簡単に想像できた。
 そして、幼心に、そんな世界に住んでみたいと思った。
 きっとつらいこともなく、哀しいこともなく、背負うもの一つとしてなく、己が身一つ、風のままに宙を漂う。

(でも)
 その世界は、そこを本当に信じることのできる者にしか、開かれてはいないのだ。
 行かせてはならない。
 追って行けないから。
 桜花の舞に幻惑されようとも、桜の異界を信じることのできない今の恭介は、決してそこへは辿り着けない。

「入ろう。少し風が冷たくなってきた」
 恭介は雹の肩をしっかりと引き寄せたまま立ち、庭から目を逸らした。
 雹が顔だけ後ろに向けていることが、僅かな抵抗から分かる。
(行かせない)
 この世にとどまることが苦痛なのだとしても。
(僕がいるのに、向こうへなんか、行かせない)
 熱を帯びた瞼を強く閉じ、覚える花への敵意。
 振り向きもせず、後ろ手に障子を閉めたてる。

 閉ざした障子のか細い桟に、名残に負けた花片ひとひら。
 やがてそれも、風にまかれて舞い落ち、消えた。

 

(終)