1/2イタコさん (なんてテキトーなタイトル)



0.

 気が付くとオレは自分が住んでいるアパートの前に立っていた。
ついさっきまでバイトをしていたというのに。
いや、夢を見ていたのかもしれない。
外灯には小さい虫たちが、まるで終わる夏を惜しむかのように群がって飛んでいた。
オレはそれを見ながら、たった1時間前のことを思い返そうとしていた。
しかし記憶は大酒を飲んだときのように曖昧で、ちっとも頭がすっきりしない。

このままここで考えていてもどうしようもないので、とりあえず部屋に帰ることにした。
かばんの中には夜食用に、と包んでもらった金平ごぼうと野菜炒めが入っていた。
それで2度目の夕食にしよう。そう思いながら部屋の鍵を握り締め、階段を上っていった。


1.

 大型店舗の郊外への進出により、駅前商店街はこれまでにない打撃を受けている―――などという記事が紙面をにぎわせていたのは、ついこの間のことであろうか。

「大湊も例外じゃないねぇ」

何気なく目に留まった、何ヶ月も閉まったままのシャッターに貼ってある「テナント募集」の貼り紙を見ながらオレはボソッと呟いた。

「は?何が例外じゃないって?」

聞き返してきたのは、高校、大学とつるんできた4年来の友人の北見だ。
要するに腐れ縁というやつである。

「ほら。商店街がさびれてくって話。駅前の個人経営の小型店舗じゃ生き残れないって」

オレはさっき目にした貼り紙を指差しながら説明した。

「あぁ、それは仕方ねーんじゃねぇの?時代の流れってやつだよ。ところで今日の夜ヒマ?ウチのゼミで軽く飲むって話がもちあがってるんだけど」

オレがせっかく地域社会が抱える問題について意見を述べたというのに、北見は『時代の流れ』の一言でさっさと片付けてしまった。
直接オレたちに関係ない話なので無理もないが。

「悪ぃ、今日はバイトなんだ。明日も1講目あるしオレはパスしとくよ」

―――男ばっかりで何が「軽く」なんだよ―――と心の中でツッコミを入れながら、オレはやんわりと断った。

「そっか。ま、ムリにとは言わないけどさ。そーいやバイトまでまだ時間あるんだろ?駅前マックで照り焼きバーガーが半額なんだよ。食ってこーぜ」

はなから期待などしていなかったのだろう。
北見はいつもの軽快な口調で、ちょっと早めの夕飯に誘ってきた。
ふと携帯を見ると、もう少しで5時になるところだった。

「北見ってさぁ、そういう情報には本当に詳しいよな」

半分呆れ顔でオレは肯定の返事をする。
不景気の時代だからこそ少ないお金でめいっぱい楽しむ、というのが彼のスタイルらしい。
行き過ぎて「ケチ」にならないところが美徳なんだろうけれど。

「ところでさぁ、バイトって家庭教師だったっけ?時給なんか結構イイんじゃないの?」

2つめの照り焼きバーガーをかじりながら北見が質問してきた。
窓際のテーブルに陣取ったオレたちの周りには、女子高生5、6人の集団とサラリーマン風の男が1人いるだけだった。

「時給がよくても週1で2時間じゃあんまり稼げないけどな。親御さんもいい人だし、やりやすくていいよ」

オレはコーヒーをすすりながら正直な感想を述べた。
教える教科も自分の得意なものだけでいいと言われているし、何より個人契約というのがポイントだ。
ある程度教え方も自由だし、親としても余計なお金を払う必要がない。

「北見、それにしてもお前よく食うなぁ。それ3つめだぞ」

注文したものをすべて平らげようとしている北見に、つい驚きの声が漏れる。

「いや、このぐらい食っとかないと。空き腹に酒は禁物だろ?」

確かにそれは一理ある気がする。

「しかしこれもデフレの影響なのかね。何でもかんでも安くすりゃいいってもんでもないだろうに」

「それだけ食っといて、ンなこと言っても説得力ねーよ」

オレのその言葉に、北見はナプキンで口元をぬぐったまま黙り込んでしまった。
なんだか今日はツッコんでばかりだなぁと思い、オレも苦いコーヒーを一気に飲み干す。
ふと時計を見ると6時を少しまわったところだった。

「さて、そろそろ行くか。開始はいつも通り7時からなんだろ?」

トレイの上を片付けながら帰る準備をする。

「あれ?もうこんな時間かよ。じゃあ、また今度ヒマなとき見計らって誘うよ」


それから北見と別れバスに乗ってからも、冷えたコーヒー特有の酸味がいつまでも口の中に残っていた。
夕日に染まる商店街は、まるでいそいそと眠る準備をしているように見えた。


2.

 昔からオレは歯医者という場所が大の苦手で、毎週ここに来るたびに背筋が震える感じがする。
なぜ虫歯でもないのに歯医者へ来ているのかというと、家庭教師をしている生徒の家だからである。
このバイトを始めて2ヶ月になろうとしているというのに、この雰囲気だけは慣れることができない。
ピンポーン。
いつものように外の階段をのぼり、2階の玄関にある呼び鈴を鳴らす。
歯医者の2階が自宅だなんて……オレにはまったく信じられない。

「はーい、どうぞー。開いてますよ」

すかさずドアの向こうから声がする。
歯科助手も務めるという母親の節子さんだ。
見るからに『肝っ玉母さん』そのもので、始めて見たときは心の中で吹き出してしまったくらいだ。

「失礼します」

とドアを開けると、そこには2人の女性の姿。
ひとりはさっき返事をした肝っ玉母さん。
もう1人はオレの可愛い生徒である、新田早苗さんだ。

「先生、今日もよろしくお願いしますね。先生のおかげで、こないだの実力テストは数学がいつもよりよくできたって。
早苗もここのところ少しは勉強する気が出てきたというか……」

「お母さん、もういいから。こんなとこで世間話しなくってもいいでしょう?」

まだまだ続きそうな節子さんの話を絶妙なタイミングで遮った。
これでけっこういいコンビなのである。

「それじゃ今日もよろしくお願いします」

「分かりました。それじゃ、失礼します」

オレがいつものセリフを言うと、それぞれがいつもの場所へと向かう。
節子さんは台所へ。
早苗さんはオレを連れて自分の部屋へ。

「あ、そうだ。先生、今日はケーキなんだって。先生が前に好きだって言ってたコバルトのモンブラン」

「え?マジ!?んじゃ、気合入れていくかなー」

ちなみにコバルトというのは、同じ団地内にあるケーキ屋さんである。
歯医者の近くにケーキ屋があるというのも、おかしな話かもしれないが。
ケーキひとつでやる気になっちゃうなんて先生って安上がりなんだね、という早苗さんの言葉を聞き流しながら、オレは教える準備に取り掛かった。
といっても今日は実力テストが返ってきたそうなので、その見直しでほとんどの時間がとられてしまうだろう。
とりあえず黒板代わりのノートと筆記用具だけを出して、早苗さんの準備が終わるのを待っていた。


3.

 オレが自分のノートに書いた汚い文字を、早苗さんは一生懸命に書き写していた。
なんだか自分の字が生まれ変わるようで、いつもこの瞬間はちょっとうれしくなったりする。
そんなオレの視線に気付いたのか、早苗さんはいきなり顔を上げこちらを向いた。

「ね、先生。そろそろ休憩にしない?」

「そうだな。とりあえずひと段落ついたし、モンブランも楽しみですからねぇ」

「やーだ、先生ってば」

少しおどけたオレの言い方にストレートな反応を見せ、早苗さんは台所に向かっていった。
オレはイスの上で背伸びをし、主のいなくなった部屋の中をぐるっと見るともなく眺めた。
そしてまたノートの上に視線を落とすと、たっぷり1時間かかって解説した数学の問題の解法が所狭しと並んでいた。
スペースの空いているところへ何度も矢印で移動させられたものもある。
こんなに見づらいものをきれいに書き写していくのだから、早苗さんの技術も相当なものだと感心せざるを得ない。
ドア越しに聞こえる足音にオレが居住まいを正すと、間もなく早苗さんが2人ぶんのお茶とケーキを持って部屋に入ってきた。

「お、待ってました」

「先生、ごめん。ちょっとノート片付けてくれる?……あ、ありがと」

オレがノートやプリントなどをまとめて床の上にどかすと、そこへケーキとミルクティーが載ったお盆が置かれた。
さっそくスプーンで一口。

「やっぱモンブランはケーキの王様だよな。栗とソバみたいなやつと生クリームが、三位一体となって口の中を駆け巡る。あぁ、オレは生きててよかったよ」

オレはうっとりとした顔で(自分では見えないのであくまで想像だが)そう言った。

「先生ってオーバーだよね。いつもたいしたもの食べてないみたいに聞こえるよ」

紅茶のカップに口をつけながら早苗さんが冷ややかに意見を述べる。

「それにさぁ、ソバみいなやつって……。先生らしくていいけど」

なんか、マロンクリームって響きがあんまり好きじゃないんだよね。
上にのったソバみたいなの、って言ったほうが分かりやすくていいと思うんだが。

「オレらしいって言われてもあんまり嬉しくないなぁ。ところで後半はどの教科やる?」

あっという間にモンブランを食べ終えたオレは、返ってきた答案用紙を見ながら尋ねた。

「うーん、どうしよう。物理は……時間かかりそうだからとりあえず来週にまわすとして。それじゃ化学でいい?」

「時間かかりそうだから後回し、か。いいよ。問題用紙は……と。範囲は酸塩基と酸化還元ね…………」

早苗さんはオレの独り言を無視し、さっさとおやつを片づけ始めた。


「だから、この表の半反応式を覚えてから王、原、江川だって」

教科書をペンでつっつきながらオレの講義が続いている。

「あーもう、だから化学ってキライ。それよりその覚え方、何?化学の先生も言ってたけど」

早苗さんは半ば問題を投げ出しながら文句をつけてきた。
確かにその覚え方はオレもどうかと思うが。

「昔はよかったなぁ。こんなに難しいこと覚えなくてもよかったんだもん。
先生も過去に戻りたいって思ったことある?」

急にこっちを向いて突拍子もないことを聞いてきた。
小首をかしげるその仕草は年頃のそれで、やっぱり可愛いなぁ、とオヤジくさいことを考えてしまう。

「そりゃあ、このトシになったらそんなのしょっちゅうだよ。
年齢が1桁の頃は何も悩みなんてなかったよなぁ」

「先生にも若い頃ってあったんだねぇ」

2人そろって遠い目で過去を振り返っている様は、傍からみたら間抜けなことこの上ないんじゃないだろうか。
そしてしばしの間、無言の時間が流れた。

「ね、先生」

遠い目のまま、不意にこちらを向かずにオレに声をかけてきた。

「何?」

オレは呼ばれた方を向き、短く答える。

「お母さんに会いたい?」

一瞬、耳を疑った。
どうして急に早苗さんはそんなことを言うのだろう。

「本当は会って、直接確かめたいんでしょ。どうしてあんなふうに死んじゃったか」

オレは驚きのあまり、大きく目を開いたまま固まっていた。
鼓動がどんどん早くなっていくのが分かる。どうして早苗さんがそんなことを知っているのだろうか。
オレは自分の家族のことなんか話したこともないのに。
あれ?本当に話したことなかったっけ。
なんだかよくわからなくなってきた。

「洋斗。ごめんね。………先に1人でいっちゃって」

いつもの早苗さんと様子が違う。
目もはっきりと開いていないし、話し方もなんだか億劫そうだ。

「どうしたんだよ、早苗さん。どうしてオレの名前……。まさか、…………」

本当に母さんなんだろうか。
そういえば前に言ってた。
「私は死んじゃった人の代わりができた」って。
でもそれは早苗さんが小さい頃の話で、今はもうできないとも言っていたはずだ。

「今ね、この子の体を借りて話してるの。洋斗はどうして母さんが死んじゃったか知りたくない?」

少し上目遣いになるところも母さんそのものだ。
なんだか目の前がぼやけてきたような感じがする。
声も早苗さんの声と母さんの声が重なって聞こえてきて、ちょうどエコーがかかっているみたいだ。
あまりのことにオレが何も答えないでいると、母さん(本人かどうか分からないが)はゆっくりと話しはじめた。

だんだん意識が遠のいていく。
母さんが話す言葉は耳に届いてくるのではなく、直接イメージとして伝えられてくるようだった。
しかしそれもだんだんぼやけてきて、いつの間にか気持ちよい眠りに落ちていく感覚に襲われた。
ちょうど二度寝するときのような快感とともに、オレの意識はそこで途絶えてしまった。

(洋斗……ごめんね…………。本当にごめんね…………)



4.

 2講目の環境社会学の教室に移動すると、一番後ろの机に北見が突っ伏していた。
オレは少し口の端を持ち上げながら、近づき背中を軽く叩いた。

「よっ、北見。調子どーなのよ?」

わざと明るい声で呼びかける。すると、北見はだるそうに起き上がり、

「どーもこーもねーよ。お前来なくて正解だったわ。
長谷川は凶暴化して襲ってくるし、斉木はつぶれたあげくに寝ゲロするし…………うぷっ。思い出しただけで吐きそー……」

蒼い顔でそれだけ言うと、またへたりこんでしまった。
二日酔いが相当ひどいのだろう。
心の中で『ご愁傷様』と呟いて、オレは1つ前の机に座り授業のノートを取り出した。
その時かばんの中に、家庭教師で使うノートがチラッと見えた。

(そういえば、昨日母さんと話したんだっけ)

オレは、そのノートを見ながらちょっと昨日のことを振り返った。


 ぼんやりした頭のままオレは部屋に入り、金平ごぼうをレンジで温めながらジャーの中で炊き上がったご飯を茶碗によそっていた。
時刻は夜の10時半。
近くのパチンコ屋も閉店したらしく、虫の鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。

(なんだか何回も謝られたような気がする……)

ほどなくして金平が温まり、今度は野菜炒めを入れタイマーのスイッチを押す。
そしてオレはふと思い出したように、さっきまで使っていたノートをバッグから取り出した。
パラパラとページをめくると、案の定オレの記憶が途絶えたあたりでノートの進行も止まっていた。

(確かこのあたりで過去に戻るどーのこーのって………)

いつの間にか野菜炒めも温まっていたので、オレはそれらをテーブルまで運び今日2度目の夕食をとった。
特に見たいテレビもなかったので、食事の間は最近買ったCDをエンドレスで聞き流しながらずっと件のノートを見ていた。

(そっか。そこで早苗さんが『お母さんに会いたい?』って聞いてきたんだ)

だんだんパズルのピースがはまっていくような感じだ。
でも、それ以上思い出すことができない。
ノートには手がかりになるようなものは何も記されておらず、ただ数式や反応式が無造作に並んでいるだけだった。
もやもやした気分のままご飯を食べ終えると、突然オレの携帯が鳴った。知らない番号だ。

「もしもし?」

「あ、一条先生ですか?新田です。今、大丈夫?」

電話の主は早苗さんだった。

「早苗さん?誰かと思ったよ」

「そういえばまだケータイ教えてなかったね。先生の番号、お母さんから聞いたの」

道理で。番号を教えてないのに、電話がかかってくるなんておかしいと思った。

「今、家?…………よかったぁ。さっき先生のお母さんと話したじゃない。
私が呼び出した人としゃべった後は、少しの間意識がなくなるらしいの。先生は大丈夫だったと思ってたけど。
……だって先生が帰る時、ウチのお母さんとも普通に対応してたもん。
…………うん。やっぱり記憶は曖昧になるみたいよ。私もしゃべらせてあげてる間は全然意識ないし。
……だから、まったく普通だったって。いつも通り帰っていったよ。金平と野菜炒めのお礼もちゃんと言ってたし。
先生ってホントに食べ物に弱いよね。何でも美味しそうに食べるし、食べ物もらうとすごく嬉しそうだもん…………」

それから他愛もないことをしゃべって電話を切った。
その後も少しの間、放心状態のままだった。

(そうか……母さんと話したのか……)

本当に母さんとしゃべれたのかどうかは分からないけれど、たとえ夢でも母さんに会えたと思うと、何だか心が少し温かくなった気がする。
オレは霊とかそういった類のものは信じないタチなんだが、今回ばかりは早苗さんをちょっと信用してみようと思った。
話によると早苗さんは同じ人を2度呼び出せないんだそうだ。
ちょっと残念な気がしないでもない。

ふと時計を見るともう少しで12時になろうとしていた。
オレは夢見ごこちのまま、お風呂に入る準備をした。
窓からは、ぼやけた星空を背に形の良い三日月が気持ちよさそうに浮かんでいた。

「………一条。おい、一条」

北見の呼ぶ声で、オレの意識は教室へと戻された。

「何だよ」

振り向き、小声で言う。
別に授業中にしゃべっていても怒られるようなことはないのだが。

「悪ぃけど、後でノートコピーさせてくんない?オレもうちょっと寝てるから」

それだけ言うと、また寝てしまった。
ふざけんなよ、と心の中で舌打ちながら、この授業の後の昼飯をオゴってもらう算段をして不覚にも微笑んでしまった。


 結局、何を話したか覚えてないけど。

オレは楽しく生きてるよ、母さん。