ただこんなふうに、ままならない思いだけして明日も明後日も生きていく、それがこれから先の人生だとしたら、生きていくことにどれほどの意味があるんだろう。 そう思っただけだった。
楽しいことはある。 だから、死にたい、なんて切望しない。 生きているのが嫌になった、なんて強烈な感情じゃない。 ただなんとなく、今年より来年、来年より再来年、とだんだんと人生がつまらなくなっていくのなら、生き続けることに意味なんてないような、そんな気がしただけ。
自分の人生をどうしていくかは、私次第。そんなことは分かってる。 けれど、ままならない。 ままならないのが人生なんだろうけれど、だったら、自分にとって意味も意義もない、ただなんとなく予想されるつまらない人生なんか、生きてみたって仕方ない。
劇的なことを期待しているわけじゃない。 平凡に過ぎていったって構わない。 ただ、私が耐えがたいのは、私にとっては生き甲斐、ともするとそれ以上、あるいはそんな言葉にはおさまらないほど様々な意味を含んだ「書くこと」を、たかが「趣味」や「遊び」と切り捨てられてしまうこと。 「そんなこと」と軽く見られること。
私は「i
world」にいる時には幸せだった。 ものすごいものを表現していたわけじゃないけど、私が書いたもの、つまりは「私」が、誰かを楽しませてあげられるという……自分を肯定していられる場所だったから。
「遊んでないで、少しは性根をいれて働きなさい」と親は言う。 その言葉そのものには、反対しない。 「遊んで」いるだけで怠惰に過ごしている人には、私だってなんだかなと思うし、真面目に毎日勤めている人のことは、偉いと思う。当たり前のことでも、その当たり前をちゃんと、逸脱もなくやっていくということは、絶対に楽ではないから。
けれど私は「書く」ことで自分の中の鬱屈した思いを昇華してきたのだし、それで人を楽しませることだって、少しはできていた。 私にとっては、「自分を保って生きる」ということそのものに等しいほど、大事なことだ。 どうにも息苦しい思いを、「書く」ことで、作品に変えることで解消してこなかったら、私はとっくにキレている。あるいは自分を見失ってなにかバカなことをやってしまっただろう。弱みや不安にうまくつけこむ、詐欺みたいなモノにフラフラと騙されたりとか。 それくらい、私が私であるために、重要なこと、だと私は思っている。
それをそこまで「遊び」と切り捨てられたら、たまらない。 「書く」ことに興味のない人からは「遊び」にしか見えないとしても、私がどれくらい「書く」ことに力を費やしてきているか、その時その時に一生懸命だったか、大事にしてきたか、そんなもの全て無視して、ただの「遊び」と言い切られては、私自身を、私が費やしてきた気持ち全てを、無意味だと否定されたのと同じこと。 私にはそう感じられてならなかった。
こんな人たちのところにいて、摩擦のないようにいい子になろうとしていたら、私は「私」を捨てることになる。 今だって、こんなものを書いて、なんとか自分を客観しようとしている。 書くことで、第三者の視点を持ちたいと思ってる。 自分の感情や我が儘だけで、誰かを否定するようなこともしたくないから。 心配だから言うんだ、という言葉を本当の真心だと感じたくて、そのためには「あんな奴等」と最初から切り捨ててしまうわけにはいかなくて、書いて冷静になることで、「私」も「親」も登場人物の一人にしてしまうことで、公平に見たいから。
けれど結局、そんなに客観的になんかなれない。 今の自分が何を考え、思い、そして何故そう考えるのか、思うのかさえ、ちゃんと見切ることができない。
ただ息苦しさだけが募る。 「遊び」ながらじゃここにいてはいけないんだろうという気になる。 自分の家、自分の家族のところなのに、いてはいけないんじゃないか、と思うなんて。切なくて寂しくて哀しい。 自分に悪いところがあるのは分かっているから、文句も言えない。けれど気持ちも誤魔化せない。どうすればいいか、自分の本音もなにもかも、余計に分からなくなって、泣きたくなる。けれど泣いてもなんにもならないから、頭を冷やして考えようとする。答えが出れば、なるほどそうか、と心から納得のいくものが見つかれば、少しははっきりするから。
けれどそんなことを主張したところで、理解してくれるとは思えない。 今はいいけど五年先のことを考えてみなさい、ともっともなことを言われるだけ。
そう。 もっともなことだ。 今はいいけど、五年先にもちゃんと生活しているためには、お金にならない「遊び」なんか適当なところにしておくべき。
でも「遊び」じゃない。 「趣味」でもない。 生き甲斐、なんて陳腐な言葉でもない。 あえて言い切るなら、これは「私の価値」そのもの。 誰かを楽しませてあげることができる、ということ。 誰かの心を動かせる、ということ。 他に大した取り得も才能もないけど、そんな私が唯一、私以外の誰かにとっても有意義になれること。
事実かどうかなんて問題じゃない。 私がそう感じている、感じてしまう、ということが問題。
言葉を置き換えてみればいい。 「遊び」と「私」。 『今はいいけど、五年先にもちゃんと生活しているためには、お金にならない「私」なんか適当なところにしておくべき。』 まるで私には、なんの価値もないみたいだ。
変われってこと? けれど私は私。 私でない誰かになれと言われても、無理だ。 私が感じてしまうこと、思うこと、惹かれるもの、そんなものは意志の力でどうこうできることじゃない。
誰もがしっかりとした「自分」をたもって生きてるわけじゃない。 人との間で、否応なく我慢したり変化して、それで生きている。 けれど、それでも譲れないほど大事なものを見つけたのに、それを適当にしてしまえ、と?
けれどどうせ、理解はされない。 ああそうなのか、そんなに大事なものなのか、なんて頷いてはくれない。 簡単なこと。 だってあの人たち自身に、それくらい譲れない大事なものがあるようには見えないから。 だから「どうしようもなく大事なんだ」という気持ちは、理解できないだろう。 そして、私には責められるところが他にいくらでもあるから、適当に話を摩り替えてしまうことは容易にできる。 だから話したって無駄。 そして、そんな気持ちも分かってはもらえない。
それでも、そんな気持ちを誤魔化しながら生きていくのが人生なのだとしたら、そこまでして生きつづけることに、どんな理由があるんだろう。 それはつまり、「死なないから生きている」だけにすぎないんじゃないだろうか。 「死」が怖いものだから、それを避けるために生きている、という感じ。 もし「死」が怖くなかったら、生きていることなんてない。 どうしてもやりたいことや、叶えたいもの、手に入れたいものもないのだとしたら、なおのこと。
五年先、十年先、ただ死なないために生きているだけで、もしかしたら私の書いたものなんてもう誰も読まなくなっていたり、書く力がなくなっていたりしたら。 私が今していることにも大した意味なんかなく、「私の価値」なんてものはただの私の思い込みでしかなかったら。
死にたい、とは思わない。 でも、生きていたい、とも思えない。 本当に死にかけてみないと、私の生命体としての本音は分からないけれど。 今は夢を見ているだけかもしれない。 現実はもっと味気なくつまらないものなのかもしれない。 だったら、夢が覚めてしまう前に、死んでしまうのも悪くない。 そんな気になる。
私の大切なもの。 「書く」こと。 それから、友達。長いこと地元を離れていたし、実家が引っ越してるから、昔の友達なんてものは周りにいないし、それぞれに結婚するなりして生活もあると思うから、気軽に呼び出すこともできない。だから今、私が持っているのは、モニターの向こう、電波の先にいる友達。 この二つがままならないなら、否定されるなら、その先にしか人生がないなら、生きていたいとは思えない。
パーッと遊びにいってストレス発散、なんてこともできないし、愚痴を零すこともできない。悪口と変わりない愚痴ってものがどれくらいみっともないか、見せ付けられるようにして目にした今、「友達」と呼べるような相手に、そんな汚いものを押し付けたくない。 友達なんだから、好きなんだから、触れ合う時には楽しみたいし、楽しませたい。ストレス解消の道具になんかしたくない。
「死」に向かうつもりは、ない。 書きかけの話もあるし、誰にどう否定されても、私の書く話を片っ端から読んでくれるような人が確かにいるかぎり、彼等が私を肯定してくれるかぎり、絶望はしない。 けれどふとしたおり、「タイミング」らしきものの影がよぎることはある。 そんなものに捕まらないためにも、書いている。 今こうして。
(終) |