『最近、死のうかと思うことが多くなった』

 あてもなくうろついていたネットの海で、気まぐれに開いてみた他人の日記。
 そこには、そんなことが書いてあった。

 死にたい、と思うほど強烈じゃない。特にそんな理由もない。太宰だったか、漠然とした不安、というやつ。それで充分。自分のこの先とかを考えると、真っ暗ってわけでもないのに、気が滅入る。
 けれど僕はまだそれを実行することはなく、こんなものを書いている。切実な自殺志願者の手記であれば、これは、止めて欲しい、という……つまりは、誰か私のことを分かって、助けて、という叫びなのだろうけれど、死にたいとか死ななければとまで追い詰められていない僕のこれは、なんなのだろう。
 僕にはやりたいこともあるし、好きなものもある。だから、熱烈に死にたいとは思わない。ただ、やりたいことや好きなもの、それとの共存を考えると、適当に世間や生活と折り合いをつけていかなければならない人生というやつが、たまらなく鬱陶しいのかもしれない。
 そして僕はふと、狂ってしまいたいと思う。

 実際に見てきたわけではないから、これはあくまで想像だけれど、狂気の世界というやつは、とても単純で美しいモノトーンに似た世界か、さもなければ何一つ確かなもののない眩暈のようなものだと思う。
 後者はパニックというやつに近い。前者は、余計なものが殺ぎ落とされてしまった機能美みたいなものだ。
 その、前者のようなモノトーンの狂気に憧れる。

 もし僕がそんなふうに狂ってしまえたら、きっと今僕の心を煩わせる面倒なもの、世間の常識とか親の期待とか要求とか、そんなものは全部捨て去って、心の赴くまま、そのことに不安も感じずに狂ったまま突き進み、やがて疲弊して死んでしまうだろう。それを恐れることすらなく。
 他愛ない常識や規範、倫理、そんなものはいらない。
 腹が立ったら殴りたいし、窓ガラスをぶち割るとか火をつけるとか、衝動のままにできたらいい。
 けれど実際は、僕はいつも当たり前に、当たり前の正気の凡人のように、損得を考えてしまう。やり返されたら、とか、未来のことに不安を感じてしまう。
 そういうままならない現状がたまらなく窮屈で、けれどそれにしたがって生きることもできないわけではないから、中途半端にマトモで中途半端に逸脱している自分が、余計に嫌なのだ。

 正直に、思うままに、僕本来の気持ちで生きたいと望むのに、結局はいろんなもののために、僕は自分を曲げ、誤魔化し、嘘をついて生きている。そんなのは「僕」じゃない。それも一つの僕ではあるけれど、僕が確かに感じている、本来の僕じゃない。
 僕は我が儘だろうか? でも、人のことなんかどうでもいい、というわけじゃない。邪魔したり迷惑かけたりしないで済むならそれがなによりだし、まして僕の好きな友達には、嫌な思いなんかさせたくない。けれど、そうでないかぎり、思うままに行動したくてたまらないのだ。

 モノトーンの狂気に落ちることもなかなかに難しいから、もっと簡単に到達できる「死」を思う。

 死ぬことそのものは、さして怖くない。なぜなら、僕は本当に死にかけたことがないから。僕らの想像し、時に恐れる「死」というものは、あくまでも想像のものだ。痛いのや苦しくてたまらないのは嫌だけれど、安らかに、眠るように死ねるなら、「死」そのものはさして怖くない。
 けれど僕は死にたいとは思わない。死んでしまうことで失う大切なものがありそうで、それが不安なのだ。
 僕にはやりたいこともあるし、好きなものもある。
 けれど、なにがなんでも生きていてやり遂げたい、というほど強烈な思いとか、邪魔するものがあるなら容赦しない、という狂気には至らない。
 そこに到達できない僕は、もしかするとそれらを諦められるのかもしれない。(無理に諦めて生きるのは嫌だが。)けれどもし本当に死にかけると、本当はものすごくやりたくてたまらないことに気付いて、手遅れになってしまうかもしれないことが怖い。
 諦められるかもしれないけれど、諦められないかもしれない。
 そんな曖昧さのせいで、決行には踏み切れないでいる。たとえ安らかに死ぬ方法が手に入ったとしても。(『完全自殺マニュアル』は今でも手に入るだろう。)

 自殺なんて、なんとなくでできるものだ。簡単なことだ。想像する「死」に対する恐怖がなく、なんとなくでも今生きてるのが面倒だったりつらかったり嫌だったりすれば、ふとしたタイミングで実行できる程度のものだ。けれどたいがい、「死」をものすごく怖くて嫌で損なもの、と想像していたり、嫌なことと同時にいいこともあったりして、実行する人は少ない。
 ただ、今の僕は、そのタイミングがあってしまえばどうかなりそうな、そんなバランスの上にいるような気がする。
 首吊りは汚いし醜いから嫌だが、ゆっくりと頚動脈を圧迫していけば、自然と脳に血が行かなくなって死ねると聞いた。それも醜い死に様をさらすことになるのかもしれないけれど、たしかにそうだという情報は、今のところ覚えがない。死んでしまうのに死んだ後の自分の姿を気にかけるなんて、と言う人がいそうだが、そんなものは、生きている僕の自尊心というヤツで、生きているうちに死ぬことを考えるのだから、それが気になるのは当たり前だ。なりふり構わずどうでもいいから、というほど追い詰められてもいないのだし。

 なんにせよ、今僕は生きていてこれを書いている。決して幽霊ではない。いや、死んでしまったのにそのことに気付かずにいる生霊という可能性もあるが、とりあえずそこまでファンタスティックなことは起こっていないはずだ。
 けれどもし今後、ある時急にこのサイトから僕の形跡が消えてしまったら、事故か他殺か自殺かはともかく、死んでしまったんだと思ってほしい。(病気なら、いきなり意識不明にならないかぎり、ちゃんとそのことを報告して閉鎖できるだろう。)
 今から5分後に「タイミング」にみまわれないともかぎらないけれど、たぶん明日も僕は、こんな日記を書いているんだろう。

 

 日記はそこで終わっていた。
 それが最後の日記だった。
 事故か他殺か自殺かはともかく、彼は本当に死んでしまったのだろうか。それとも、この日記そのものが、サイトそのものが、彼の作品なんだろうか。
 このサイトそのものが、開設された時から作られはじめた、全て彼の意思による「創造物」であるとすれば、日記さえリアルとは無縁の次元で成り立ち、現実を映し出した虚構だったのかもしれない。
 掲示板には、そうなのではないか、だとしたら人騒がせだ、という書き込みもあった。意外に多くの人がこのサイトを見ていたらしく、最後の日記に関する意見はかなりの数書き込まれていた。
 素直に心配するものもあれば、迷惑がるものもあり、様々だった。

 私はその後になって、最後の日記の日付を確認した。
 今から半年以上も前だった。
 そしてその月の終わり頃、私は一人の友人の葬儀に出席したことを、思い出した。

 まさかと思いながら、私は「彼」の日記を遡って読み返しはじめた。
 まるで男の子のように「僕」と自称しているし、そのように振る舞っているが、趣味嗜好、出来事、そういった事実は、私の知っている一人の女性……もう今はいないその人に、あまりにも酷似していた。
 彼女は自殺だった。
 両親は、理由がわからないと嘆いていた。
 だが私は、その姿が癪に障った。娘の死を嘆いているより、娘の死によって否定された自分たちの教育や在り方について嘆いているようだったのだ。
 だいたい、私の体験から言えば、本当に喪失のショックや悲嘆に暮れている時は、言葉なんて欠片ほども出てこないものだ。
 彼等は……もしこのサイトが彼女のものだったとして、この日記を読んだのだろうか。
 切実な叫びではないが、半ば遺書ともとれるこれを。
 そしてこれは、本当に彼女のものなのだろうか。

 私は思い立って彼女の家に向かった。
 何度か訪れたことがある家で、葬儀に顔を出していることもあったから、ふと思い出して寄ってみた、と言うと、在宅していた母親は簡単に入れてくれた。無論、通されたのは仏間で、私は型通りに仏壇に対面した。それから、彼女の部屋を見せてほしい、と言うのは少し躊躇われたが、どうせ彼氏だと思われていたふしがあるから、思い切ってそのつもりで、告げてみた。
 だが答えは、すっと引いたような雰囲気と、微かな眉間の皺だった。
 不躾であることを詫びると、母親は、娘の部屋は片付けてしまったから、通しても意味がない、と答えた。
 在りし日の我が子を偲ぶため、と部屋をそのままにしておくような美談は、やはり特別だから美談なのだろう。これが現実というものかもしれない。

 それならなにか、形見としていただいても良さそうな、彼女の持ち物はないか、と尋ねると、少し待たされた後で、元は彼女の部屋だった場所へと案内された。
 部屋の中にはもう何もなく、彼女が気に入っていたテーブルセットもカーペットもなかった。残っているのはソファと空っぽのオーディオラック、それから壁の時計くらいだった。
 ただ、壁面に作りつけられたクローゼットの中に、彼女の持ち物が仕舞われていた。
 どれでも好きなものを、と言われたが、それを選ぶ間、母親はそこにいた。勝手にあちこち見られてはたまらない、と思ったのかもしれない。娘のコイビトに、一人でゆっくりと思い出にひたらせてやろう、などという感傷とは無縁の性格らしい。もっとも、偽物の彼氏である私としては、そんなことで腹を立てることはないが、ただ、こんな親のもとでは、彼女のようなタイプはさぞ息苦しかっただろうとは思った。

 物色しているようには見えないよう、できるかぎりさりげなく品を見定めていくうちに、20枚ほどのフロッピーディスクが入ったケースを見つけた。FDにはラベルが張られ、彼女の小さな文字でメモが書かれている。
 「i world」という言葉があった。
 それは、あのサイトの名前だった。
 「虚数」を意味するi。実在しないのに、計算のために設定された数字。
 私の世界、というだけではなく、虚構の世界、存在しない世界、という意味でつけたという名前。

 FDと、腕時計をもらっていいかと聞くと、母親はさして興味もなさそうに頷いた。
 目には涙が溜まっていたが、純粋に娘のことを思い出して哀しんでいるとは、私には見えなかった。葬儀の時の言葉が、強く支配しているらしい。
 「私らのなにが悪かったの」。他愛ない言葉だ。だが、自分たちは悪くなかったはずだ、と言わんばかりの言葉。
 「なにが不満だったの」。不満はなかったはずだという勝手な思い込み。
 なにも彼女のことなど分かっていなかったのだろう、と思わずにはいられなかった。恋人でこそないが、私には最も親しい友人の一人だったのだから。
 ……そういえば、いつだったか、「あることをはじめてみたの。教えないけど、見つけて、もしわかったらデートしてあげる」と言っていたのは、サイトのことだったのかもしれない。彼女がパソコンを買ったのがその何ヶ月か前のことで、選ぶのに付き合ったから、覚えているが。

 いればいるほど白々しさと虚しさだけが募る彼女の家を辞して、自宅に戻ると、私はもらってきたFDを開いてみた。案の定そこには、彼女が作ったファイルがいくつもおさめられていた。
 中には、これからアップする予定で書きかけていたと思われる、原稿もあった。
 最後の日記の翌日の日記も、そこにはあった。
 それまでの日記と同じように、他愛のない日常のことを書いたもので、前日の深刻さはかけらもなかった。
 死ぬつもりなどなかったのだろう、この時は。ただ、彼女の言う「タイミング」がきてしまっただけだ。明日も明後日も当たり前のように生きているつもりではいたが、たまたま出会ってしまった「タイミング」。それがなにだったのかは、分からないが。

 両親は、これを見たのだろうか。
 あの部屋の、私が選んであげたPCはなくなっていたし、両親は機械音痴だと言っていたから、見ないままでいる可能性が高い。だが、見ましたか、と言う気にはなれなかった。
 娘の「遺書」となってしまったこの日記を読んで、それを理解してあげるのならばいいが、なんとなく、やはり理解などできず、そんなことで、などと言われた日にはたまらない。まして、それを見せようとした私の意図を、変に勘繰られるのも面倒だ。

 私はあらためてインターネットに接続し、彼女のページを開いた。
 掲示板の最後の書き込みは、半月ほど前。月に一度くらいだったけれど、通ってきてはたまっている分を読むことにしていたのに、突然更新がなくなったのは、まさか日記のとおりのことが起こったからなのだろうか、という内容だった。
 私はその下に、今も誰かがこれを見に来ることがあると期待して、新たに書き込んだ。

 私がこのサイトの管理人の友人であること。
 だが現実での友人ではあれど、サイトのことは宝捜しのような秘密にされていて、ようやく今、偶然で見つけたということ。
 日記から逆に、サイトの管理人が友人ではないかと思い、確認したこと。
 けれどその友人は、本当に故人になってしまっている、ということ。
 状況を面白がる無責任な誰かの、あるいは管理人自身の悪戯かと思われる可能性はあるが、それは承知のうえでここに書いているということ。
 それがなんのためかと言えば、少なくとも管理人は、あのような日記であおるだけあおっておいて、その反応を楽しんでいるというようなことはない、と弁明しておきたくなったからかもしれない、と最後に。

 読んだ人が私の言葉を現実として受け取れば、そこで「i」は終わる。
 もう一つiをかけられたように、にわかに現実になる。
 たとえ仮想空間ではあれど、そこは現実があるがゆえに必要とされ、その現実を投影した場所に過ぎない。
 完全なる虚構など存在しない。
 一切の現実から解放され、一切の現実を失った虚構など、現実の人間の理解を超えた領域だ。

 ……最後の日記は、切実に叫ぶことさえ躊躇われるほど曖昧な、けれど抜き差しならない叫びだったのかもしれない。
 そして私は、友人ではありながら、他の適当な連中よりは彼女のことを理解したつもりでいながら、相談されることはなかった。
 たぶん、相談しようと思うほど深刻に感じることはなかったためなのだろうが、少なくとも、私には彼女を引き止める力はなかった、ということだ。
 もし私があと半月早く、見つけていたら。
 なにか変わったのかもしれない。
 けれどなにも変わらなかったのかも。
 不安は常に漠然とつきまとい、私の存在など関係なく、タイミングが合いさえすれば、同じことになったのかもしれないし、なにより、曖昧であるがゆえに、正気であるがゆえに発散することができなかったストレスというものは、確実に彼女を蝕んでいたのだろう。

 ならば今となってはせめて一つ。
 死にゆく間際、死にたくないと、恐ろしいと、引き返したいと彼女が思わなかったなら良かったのだが、と。
 そして曖昧さに負けて消えてしまった虚ろな君へ、せめて手向けの花を送ろう。
 君が好きだと言ったアマリリスは墓場には似合うまいし、私は君の家の墓が何処にあるのかもしらないから。
 私の窓辺に、君への花を。

 

(終)

注:「i」虚数とは、二乗することで−1になる架空の数字のことである。
普通の数字は全て、二乗すれば必ず+の数字になる。