ゴ ミ


 ちっとも片付きゃしねぇ。
 というか。
 これだけの物量を抱え込んで、人が生活できるスペースを作ってたってこと自体、俺ってひょっとしてものすげー収納上手? とか思えるレベルなんじゃねえか?
 なにせ本はマンガから小説から資料から攻略本とか合わせればゆうに800冊はいってたようだし、CD類も音楽・ゲーム問わなけりゃ100枚はある。テープだって150本は越えてるだろう。それに加え、プリントアウトした文書はバインダーやファイルにして20冊はあるし、メモ用紙に書き付けておいたネタメモだの、辞書・事典類、ビデオも30巻くらいは余裕であったし、画材にこまごました小物に…………。
 ワンルームのアパートに、普通これだけ入ってたら、足の踏み場ないんじゃねえのか、おい。
 さすがだ、俺。

 などとバカなことを考えつつも、実は整理整頓好き(ただし極端に、やるかやらないか二つに一つ)な私は、黙々と引越しの荷造り、ゴミ作りに励んでいた。
 たまには30分くらい、立ったまま「どうるすよおい」と考え込むこともあったが、これだけの物量をいかにさばくかを考えると、妙なやる気も出てくるものである。(それはおまえだけだ、というツッコミは却下)
 先週の木曜に出し損ねたものだから、45リットルのゴミ袋に突っ込んだ燃えるゴミたちは、既に6袋に及ぼうとしている。
 持って帰るのに邪魔な衣類や靴なんかを、あっさりとポイポイ捨てまくるからである。
 勿体無いとか贅沢だとか、思わないわけではない。
 だからこそ、このぎりぎりになるまで保持していたのだ。
 だいたい、物持ちの良さを言えば私は相当なもので、10年以上前に購入した服でも、気に入っていてかつ今の私に似合うなら、しっかりと残っているくらいであるし、実用性のない小物の中にも、そういった「お気に入り」として大切にしてきたものは少なくない。
 しかし、いろいろと面倒な軋轢があった実家に戻るとなれば、そういった感傷的な保存理由とは決別せねばならない。

 一度途中で食事はしたが、荷造りからゴミ作りから、はてはネタ類の重要度チェックから、刻々と時は過ぎて、気がつけば7時間が経過していた。
 ふと、明日遊びに来ることになる人を思い、一枚の絵を描いた。
 それを息抜きに、また整理に取り掛かる。
 一人で黙々、というタイプではない。
 独り言が出る。
 正確に言えば、つい一人でツッコミをいれてしまう哀しい芸人のサガ。
「うわっ、こんなもんまだあんのか自分」
 などとほざきながら、無慈悲なくらいさっさと切り捨ててゴミの山。

 そんな時だった。

 いつもなにげなくそこに置いておいただけの、あるものが目に入った。
 それは、今はほとんど付き合いの途絶えてしまった昔の友人からもらったものだ。
 こういうのをなんと言うのかは知らないが、ステンドグラス調の、薄いプラスチック板。
 私がラクガキした絵をトレースしてその人が作ってくれた、取るに足りないようなもの。

 不要なものを捨てるというなら、まさにこれほど役に立たないものはない。
 その上、今も親しく付き合い、頻繁に交流がある相手からもらったというものでもない。
 たしかに、一時期は無理があるくらい密な付き合いを続けていた。
 しかし不自然なほどに親密であろうとする付き合いはやがて破綻し、ある時からは音沙汰がなくなった相手でもある。

 だが私は、迷わずそれを、持って帰ることに決めていた。

 決めたあとでふと、何故そうしようとするのか、考えた。
 厚さ0.2mm、縦6cm×横5cm。
 たしかに、カードケースにまぎれこませておくこともできるようなものだが、そんなことは理由にならない。
 気まずさが完全に消えたわけでもないと思われる……そのことを確認しようとすらしない、関わることを半ば放棄し、なるようになれ、と執着や関心は断ってしまった相手。
 実用性はゼロ。
 それでもやはり、捨ててしまおうとは、思えなかった。

 私は私を見る。
 その目が必ずしもクリアとは限らず、見えたそれが全く正しいか保証はないが、人を見るよりは確かに観察する。

 理屈をこねるまでもない。
 あからさまなくらいはっきりしているのは、どんなに無意味でも役立たずでも、それは私にとってやはり大切なものだ、ということだった。
 だから捨てる気になれない。
 ただそれだけのことだ。

 そして気付くのは、たとえ今がどうであれ、その人と関わって過ごした時間は、私にとって今も変わらず大切なものだということ。

 利用した。
 打算があった。
 あれこれとうるさく煩わしい思いもさせたし、傷つけもした。
 だから、その人にとって私がどうであるかは知らない。
 だが、私にとっては、打算や利害だけで切り捨てられるような、ただそれだけのものではなかったらしい。
 自分で思っていたよりもたしかに、その時を大切に思っていた自分に、この一枚の笑顔が気付かせてくれた。

 この、脳天気な笑顔のイラストが描かれたチープなステンドグラス風のモノ。
 これを私が紛失し、忘却してしまうことはあるかもしれないが、とりあえず目下、自らの手で処分しようとは思わない。
 もしこの手でこれを捨てる時が来たなら、それは私にとって、その人と過ごした時間そのものを無意味な「ゴミ」と判断した時なんじゃないだろうか。
 そんな時が来なければいい。
 そして、こんなふうに思うことを「くだらない」と嘲る奴がいるなら、真っ向勝負で喧嘩売ってやれるぞ俺。
 効率と利用価値だけを優先させた生活だの人生だのに興味はない。
 そんな無味乾燥、機械的な生活マシーンになんざなりたかねぇな、と思いつつ、そんな自分が好きなことにも気付く。

 らしくねぇな、俺。
 浸ってんのはともかくよ。
 そんなふうに苦笑しつつも、こんなふうに思った事実をたやすく消さないために、残すことを決める私であった。


(おわり)



小説風エッセイ(爆
2001.11.18の実話。
ふと、こういうのを不定期連載すんのも面白いかな、とか思ってみたり。
 
そしてそれから半年が経過し、移転に際して読み返す。
これだけの時間読み返しもしなかったこれは、やはり一種の「ゴミ」なんだろう。
けれど「明日遊びに来ることになる人を思い、一枚の絵を描いた」という部分を読み、それがいつの日のことだったかをはっきりと思い出せた瞬間、おそらく何年かたっても、これは愛すべきゴミとして私の手元に残ってるだろうと確信した。