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もしここで、俺が死んだら―――俺が、帰らなかったら。 彼女はどうするだろう。 ふとそんなことを考えた。 くだらぬ懸念だと、慌てて追い散らす。 「帰らなかったら」ではない。「死んだら」ではない。 俺は、帰らねばならないのだ。死ぬわけにはいかないのだ。 使命を受けてここに在る以上、俺にはこんなところで死を待つことなど許されはしない。 俺が今考えるべきは、この難局をどう切り抜ければ良いか、どうすれば切り抜けられるかであって、断じて女のことなどではない。
俺が今いるのは、「リヴァイアサン」と皆の呼ぶ巨大な海竜の腹の中だ。 この怪物はクリスタルロッドを持つ者を飲み込むようで、腹腔内には俺より前に飲み込まれた者たちが小さな集落を築いていた。 クリスタルロッド。先端に輝石の埋め込まれた小ぶりの杖だ。こんなものが世界に何本もあるのもおかしな話だが、先住民である老人は、確かに俺の持っているものとそっくり同じ杖を所持していた。 アルテマの本のことなど知りもせず、彼はただ、綺麗で高価そうな杖だからと持ち帰ろうとしていたらしい。 この杖がミシディアの塔の封印を解くはずだと俺が言ったら、とんでもない代物だと驚く反面、ならばより高く売れるだろうなどと言っていた。ただし、それはここから出られればの話になる。
出るには船が要る。船さえあれば、リヴァイアサンが海面に顔を出して呼吸した隙に、吐き出される海水に流されるまま脱出することができるだろう。 船は怪物の体内にあった。巨大な歯に引っ掛かるようにして、ほぼ無傷の船が一隻残っているのだ。 だが、その船はラウンドワームという怪物の住処でもあった。 俺が抱えている問題は、これだ。 ラウンドワームさえ倒すことができれば、船を確保できる。幸いこの腹の中の住人には船員もいる。整備し、脱出の準備を整えることは難しくない。あとはタイミングを見計らってリヴァイアサンの口の中から逃げ出すだけだ。 だが、このラウンドワームを倒すことが、今の俺にはできなかった。
俺は竜騎士だ。 飛竜と共に空を駆け、槍を用いての空中戦を得意とする。無論、陸戦も並の戦士に見劣りしないよう修練してきたが、自分の十倍もある巨大なおばけミミズを相手に、たった一人で戦うのはさすがに困難だった。 今までに三度挑んだが、三度とも、手傷を負わせただけで撤退している。 一度は顔―――と思われる部位―――のほとんどを占める巨大な口に、体半分食い千切られそうにもなった。次に挑めば勝てるだろうなどと楽観できる相手ではない。
せめてあと数人、なんとか戦える仲間がいれば良かった。 ラウンドワームは巨大で凶暴だが、鈍重であり、知能レベルも高くはない。俺がもう一人いればなんとか倒すことができるだろう。だがこの腹腔内に住み着いた者たちは皆船員や民間人で、俺のような職業軍人、騎士や傭兵という者は一人もいなかった。 だからといって、諦めるわけにはいかない。 俺には使命がある。 アルテマの本を探し出し、持ち帰るという。 そのために俺は、開戦の機が間近に迫ったディストを一人抜け出し、旅に出たのだ。 パラメキア皇帝の脅威に備えるにはアルテマの魔法が必要になるはず、必ずそれを探し出すべしという、王より直々の命を受けて。
こんなところで無駄な時間を過ごしていてはならない。 万一アルテマの本が皇帝の手に渡れば、悲劇は確実に進行する。 そのためにも俺は一刻も早くアルテマを見つけ出し、持ち帰らなければならないのだ。 今頃皆、皇帝の侵略に抗うため、命をかけて戦っているだろう。 同じ竜騎士であるのに俺一人、なにもせず座っているわけにはいかない。
もう一度、ラウンドワームに挑もうか。 俺は古ぼけたミスリルの剣を見た。 俺が王より授かった飛竜の槍は、リヴァイアサンに飲み込まれた時になくしてしまった。 もしこの手にあの槍があれば、たとえ俺一人でもラウンドワームを倒せただろう。だが今ある武器はこの剣だけだ。あまりにも心許ない。 だがそれでも、俺には耐えられないのだ。なにもせず、じっと蹲っていることが。
だが―――そんな理由……なにもせずにいることで生じる罪悪感を払うために戦うなど、愚か極まりない。 俺は剣の柄を握り締め、闇雲に焦る気持ちを鎮めようと努力する。 俺がすべきは、考えること。 脱出する方法、船を手に入れる方法、ラウンドワームを倒す方法。 これならばなんとかなるかもしれないという、確かな希望を見出す前に動いては、徒労に終わる。 それではならない。無意味に己の命を危険に曝しては。 俺は、アルテマをディストに持ち帰るまで、死んではならないのだから。
考えろ。 考えろ。 考えろ。 ラウンドワームを倒すことから全てが始まるならば、どうすれば倒せるかを考えるんだ。 奴の弱点、攻撃のパターン、俺の繰り出しうる手。 危険を冒すのは、それがはっきりと見えてからだ。 焦るな。 考えろ。 落ち着いて、冷静に。
時間はある。 この際、一日や二日の違いではどうにもなるまい。 ならば丸一日ゆっくりと考える時間があるのだと思おう。 焦ることなどない。 まずは食事でもして、そうだ、胃のほうに大きな船の残骸があった。あの中をくまなく調べれば、もう少しマシな武具が見つかるかもしれない。 まずはそれを調べ、なにか見つかれば幸運であり、なにも見つからなければ―――もう一度じっくりと、ラウンドワームといかに戦えればいいかを考えてみよう。 そう思い極めると、少しは気が楽になった。
その時だ。 腹腔全体が巨大な楽器のように唸り始めた。 これがそうかと、俺は震動する天井や壁、すなわちリヴァイアサンの粘膜を見回した。 リヴァイアサンがなにかを飲み込むのだ。 そしてそれは普段のエサではなく、船のような巨大なものだ。 次の瞬間、俺は閃いていた。 人だ。 期待するのはすまない気もするが、今飲み込まれてくる者たちの中に、腕の立つ者がいはしないだろうか。 もしいれば……。
壁の外を大量の水が流れていく音がする。凄まじい音だ。 やがて、漉しとられて残ったものがこちら側に飲み込まれる。 低く唸る水流の音がやむと、生臭い突風が吹き荒れた。臭気と風量にとても息ができず、腕で口元を庇ってかろうじて呼吸をつなぐ。 その風がやむや否や、俺は握り締めていた剣を腰に吊るし、胃のほうへと向かって走り出した。
消化器官の中にも小型のモンスターが住み着いている。奴等にやられるようなぼんくらでは大した役にも立つまい。だがもし、腕の立つ剣士や魔導師がいて、飲み込まれた時に怪我をしてたまたま戦力の低下を招いているとしたら、俺が駆けつけることには意味がある。 かすかな希望。 飛び掛ってくる人食い魚を斬りのけ、強酸の液体を飛び越える。 やがて俺は強烈な胃液のにおいのする中に、溶けていく帆船と、そこから必死に這い出そうとする一団を見つけた。
飲み込まれた時の衝撃で、折れたマストの下敷きになるなどして、既に息絶えた死体が散乱している。 その合間を蠢くようにして、かろうじて無事だった者たちが足掻いている。 十人ほどだ。 身なりからして海賊たちのようだったが、数人ばかり、もう少し見られた格好の少年たちがいた。 海賊たちは、必死に彼等を押し上げようとしている。己の足を強酸の胃液の中に踏ん張ってでも。 荒くれものの海賊が、己の命を投げ出してまで助けようとする。心を打たれた。だが、今は感動している場合ではない。助けなければ。海賊に命をかけさせるほどの者たちならば、必ずなんらかの力になるだろう。
不安定な足場など、俺には大した問題ではなかった。 時には飛竜の背に立って、空を飛び交う中で戦うのが俺たち竜騎士だ。 足場を蹴って宙へと踊る。 竜たちの背から背へ飛び移ることに比べれば、風もないこの腹の中、ほとんど動かない物体を足場にして飛び渡るなど造作もない。 折れて外へと突き出したマスト、舳先、甲板と移動して、 「掴まれ!」 俺は一際体格のいい青年に手をのばした。
(つづく?) |